第10話 盗まれた絵の具

 慌ててクローゼットを開けると、画材を入れた袋だけがなくなっていた。まさかとは思ったが、やはり画材一式がなくなっている。

 ──ラリサが持って出ていったのだ。

 信じられないことだが、今朝からずっと見かけなかったし、おそらくこの為にいなかったのだろう。ついに盗みまで働くなんて。


 画材の入った袋は、メイド服の下にでも隠して持って出たのだろう。でも、一体なぜ?

 とにかくこのままではまずい。

 すぐに部屋を出て廊下を走って追いかけると、ちょうどゆうゆうと階段を降りているところだった、ラリサの後ろ姿を見つけた。


 声をかけると、こちらを振り向いたラリサはギョッとした顔をしていた。

 きっと私が追いかけて来る筈などないと思っていたのね。いつもの私ならそうだっただろう。でも、私だって伯爵夫人よ。

「──あなた少しやり過ぎだわ。私の大切な画材を返してちょうだい。」

 とラリサを睨んだ。


 けれどラリサはそんなものは知りません。と言って、取り合おうともしない。

 それどころか、──あら、奥様。証拠もないのに、私になんの罪があると言うんです?とニヤニヤ笑った。

 日頃と違う私の態度に、他のメイドたちも階段の下で作業する手を止めて、何ごとかとこちらを見上げている。


 ……なんてことなの。そのスカートの下を今すぐまくってみせればすぐに分かることなのに、さすがに伯爵夫人が人前で、若いメイドにそんなことはさせられない。

 怒りで震えそうになったが、ここで言い争っても仕方がない。


「……あとで呼び出しがあるわ。

 ──覚悟してちょうだいね。」

 と言った。

 私は階下にいたメイドの1人に、家令に私の部屋まで来るよう言ってちょうだい、と伝えた。ラリサはフン!と鼻を鳴らして私の前から去って行った。


 私は部屋に戻り、本当に盗られたのか、部屋のどこかに隠して困らせてやろうとしただけじゃないのか、と思いたくて、ベッドの下もシーツをめくって画材を探したが、やはり画材はどこにもなかった。

 全部持っていかれてしまったのね。

 私は泣きたい気持ちだった。


 あれは工房長からお借りしたものなのに。

 ああ、もう。どうしてこうなるの?

 せっかく明るい未来が見えてきたと思ったのに。悔しくて悲しくて涙が出てきた。

 今までも色々と嫌なことがあって、その度に泣いてきたけれど、今回ほど悲しいことはなかった。こんな家、本当に大嫌い。


 工房長からお借りしたものをなくしてしまったこともそうだし、せっかく絵を描き始めたのに、これじゃあまた描けなくなる。

 ──ラリサが万が一、どこかに絵の具を捨ててしまったら?

 取り戻すのが間に合わなかったら?


 全部で中金貨6枚以上もする魔石の粉末入りの絵の具を弁償するお金なんてないし、また貸して下さいなんて図々しいことは頼めない。そう思うとますます辛かった。

 なんとか、家令が来て、ラリサのしたことを伝えて、ラリサの部屋を探させるまでと思い、こぼれる寸前で涙を堪えていたけれど、もう限界に近かった。


 どうせあの子は、私が絵を描き始めたことでイザークの関心を買ったのが面白くないのだ。私が内緒にしていることで、あれが高価な魔石の粉末入りの絵の具だということを知らない。ただの絵の具を隠したところで、バレても子爵令嬢の自分は、大したお咎めを受けないとでもたかをくくっているのだろう。


 実際高価なものでなく、一回限りのことであるなら、お目溢しをするのが普通だから。

 相手が貴族令嬢であるのならなおのこと。

 だがあれは1つ小金貨5枚以上もする魔石の粉末入りの絵の具だ。それが7色分。

 アデリナブルーは中金貨3枚もする。あなたの2ヶ月分のお給料よりも高いのよ?


 もしもそれを盗んだと分かったらどうなるか……火を見るより明らかだ。

 ほんの少し私を困らせてやろうと思っただけなんて通じない。

 私が持っていた絵の具が魔石の粉末入りの絵の具であることは、残された絵が証明してくれる。ラリサの部屋や体から絵の具が見つかりさえすれば、それが最後だ。


 私は今まで甘すぎた。私がナメられているからこんな目に合うのだ。私は自立する為にもっと強くならなくてはならない。

 ──今はまだ、私が伯爵夫人の立場の人間であることを、家令を含め従者全員に分からせる必要があるようね。


「──奥様、お呼びでしょうか。」

 家令がドアをノックして声をかけてくる。

「どうぞ。あいているわ。」

「……失礼致します。」

 家令は部屋に入ると、いつもと違う雰囲気の私に、少し驚いたようだった。


「急に呼び立てて悪いわね。」

「いえ。いがが致しましたでしょうか?」

「……ラリサが私の部屋から、私の画材一式を盗んだわ。あの子の部屋と服の下を探させてちょうだい。」

「画材を……でございますか?最近絵を描き始めたと伺っておりますが……。」


「ええ。これを見て。」

 私はザジーを描いた絵を家令に見せた。

「これは盗まれた絵の具で描いたものよ。魔石の粉末入りの絵の具で描かれているわ。

 あの子はそれを盗んだの。見つけ次第然るべき処置をお願いするわね。」


「──魔石の粉末入りの絵の具でございますか!?そのような高価なものを……ラリサが本当に盗んだのですか?」

「……私の言葉を疑うの?」

「い、いえ……、そういうわけでは……。

 ただ、そのような高価なものを盗めば、もちろん子爵令嬢のラリサといえども処分は免れません。それを分からないなどとは。」


「大したことだと思っていないのでしょう。

 この屋敷の女主人である私の部屋から物を盗んだところで、大したお咎めは受けないと思うほどに、あの子は私を軽く見ているようですから。……まあ、この屋敷のメイドたちは、あの子に限らず、ですけれど。

 最近はまともにベッドメイキングひとつしませんからね。」


「けっしてそのようなことは……。」

「本当にそうだと言えるかしら?

 このことは、それを放置し続けたあなたの監督責任でもありますからね。

 イザークから指示がないことをしてはいけないのと、メイドたちの態度を躾けて改めさせることは、まったく別の問題だわ。」


「それはもちろんでございます……。」

 だけど家令はそれをしてこなかった。見れば分かることなのに何年も放置した。私はイザークの指示がないことだからと、それに目をつぶって来たけれど。本来なら家令の裁量の中で出来る筈のことなのだ。メイドたちのふざけた態度や、基本の仕事を放棄するような真似を改めさせることは。


「イザークが戻らなければ、あなたでは判断出来ないかしら?

 盗みを働いた従者を調べるなんてことは。

 本来であればうちうちに処理をすべき事柄だと、私は認識しているのだけれど。

 それとも疑わしきは罰せず、なのかしら?ロイエンタール伯爵家の従者の中では。」


「……いいえ。その者の身の潔白を証明する為にも、私の指示のもとで調査を行うべき事柄でございます。さっそくラリサの部屋と身体を別のメイドたちに調べさせます。

 終わりましたら、すぐに結果をご報告に上がらせていただきます。」

「そうしてちょうだい。」


 家令が部屋をあとにし、私は残された自室で呆然としていた。伯爵夫人として毅然とした態度を取れただろうか。

 心臓が早鐘のように音を立てて鳴った。

 絵の具は無事に見つかるだろうか。

 私はその日、久しぶりに絵を描かずに過ごした。


 何もやる気が起きないし、考えたくない。

 ぼんやりとしていたら、いつの間にか夕方になっていた。

 ふと我に返ると、部屋の中は真っ暗になっている。窓の外もすっかり暗くなっていた。

 明かりをつけようと立ち上がりかけたところで、ノックの音が聞こえた。


 誰だろうと扉を開けると、

「旦那様がお呼びです。」

 家令だった。──イザークが?

 なんだというのだろうか。というか、いつの間にか帰って来てたのか。

 彼に呼び出される時なんて、夜のおつとめ以外に存在しない。だけどこんな時間に呼ばれたことはない。


 私は部屋を出て、家令が導くままに、後ろについて廊下を歩いた。たどり着いた先はイザークの部屋だった。

 部屋といっても執務室のほうで寝室ではないから、夜のおつとめに呼ばれたわけではなさそうだ。イザークは書き物をする時の椅子に腰掛け、冷たい眼差しで私を見ていた。


「──盗難事件の報告を受けて、私も立ち会いのもと、君と一緒に調査結果を聞くことにした。では、まず結果から聞こうか。」

 イザークの執務室には、イザークが書き物をする為の机と椅子の他に、机も椅子も存在しない。だから私も家令と同じく立ったままで、家令の報告を聞くこととなった。


「……結果といたしまして、ラリサの制服の下から奥様の申告通り、画材一式が見つかりました。ラリサは本日付けで解雇、またシュルマン子爵家に相応の慰謝料を請求することとなります。既に役人につきだしましたのでそちらでも彼女には罰則が下るものと思われます。盗まれた画材がこちらにございます。

 中身が問題ないかご確認願います。」


 家令が私に布袋に入った画材を差し出して来た。私はそれを受け取って中身を確認したが、新しく受け取ったばかりの絵の具の蓋が開けられていた以外は、少なくともまだ何も手を加えられてはいなかったようだ。ホッとして布袋を抱きしめる。良かった。


 蓋が開けられていたということは、ラリサは中身を捨ててやろうだとか、何かするつもりだったのかも知れないけれど、家令がすぐに動いてくれたおかげで、無事に戻ってきたようだった。開けられていた絵の具の蓋をしめなおして布袋に戻すと、イザークが私を睨んでこう言った。


「……これは魔石の粉末入りの絵の具ということだが、確かに君の手にはアデリナブルーもあるようだし間違いないようだな。

 君はこれを購入したのか?」

 ……その話か。絵の具を取り返す為には仕方なかったけれど、家令がイザークに報告するだろうとは思っていたから覚悟はしてた。


 「購入はしていません。先日もお伝えした通り、こちらはお借りしているものです。」

「魔石の粉末入りの絵の具は非常に高いものだと聞いている。特にアデリナブルーは飛び抜けて高いものだと。それを借りたと?」

「──嘘は申しておりません。」

 私はイザークの目を見返して言った。

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