第20話 美月の舞踏会

 弦楽器の協奏曲が徐々に小さくなり、やがて消えてしまう。音が聞こえなくなると同時に、光が蘇ってくる。光に照らされたその場所は、先ほどまでいた豪華な大広間ではなかった。美月が立っていたのは、大きな岩に囲まれた洞窟の中だった。どこからか届いてくる淡い光。それに包まれた洞窟の中に、美月は独りぼっちで立っている。七海も蛇も、もちろん他の客人たちも誰もいなかった。

 洞窟の中に立った時、美月がまず感じたのは既視感だった。どこかで同じ風景を見たことがあるような気がする。だがどれだけ記憶をさかのぼっても、美月は人生で一度も洞窟というもの自体に行ったことがなかった。人生で初めて洞窟の中に置き去りにされて、美月の中に最初に湧き上がってきたのは「私はここに来たことがある」という思いだった。それは低い方へ流れる川のように抗えないものだった。

 美月は壁の方へ歩いていき、岩肌に触る。ザラザラとした質感。指に茶色いサラサラとした土のようなものが付着する。もう一度自分を取り囲む岩を見渡すと、それらはすべて茶色一色の岩で構成されている。まさしく茶色の壁に美月は取り囲まれているのだ。「ふむ、あなたからは茶色いオーラを感じるね」蛇の言葉が美月の頭に甦る。「だから、茶色って嫌いなのよ」と美月はつぶやいた。そして目を伏せて「これのどこが舞踏会なのよ!楽しみにしていたのに」と文句を言いながら、足元の石を蹴った。

 突然「おいおい、久しぶりじゃないか」と声がする。声の方に目をやると、天井に一匹のコウモリがぶら下がっていた。「会うのは一万年ぶりぐらいか。どうだ、今の世界で救世主にはなったのかい?」

 コウモリの言葉に美月は困惑する。この洞窟に既視感はあっても、このコウモリには全くそれを感じられない。「あなたと一万年前に会ったことがあるの?そんな前に私は生まれてさえいないのよ」と美月は言った。言葉を話す蛇に、言葉を話すコウモリ、この世界は本当に奇妙なのね。もうそんな奇妙なことでは驚かなない。「そして救世主って何のこと?まあ少しは社会のためになることはやっているつもりだけど、救世主ってほどじゃないわね」

「全く覚えていないのか、そりゃそうか」コウモリは何かを言いたそうに口をモゴモゴさせていたが、話題を変えてしまう。「まあいいや、それよりまた絵を描いてくれよ。この前みたく、ここの洞窟を埋め尽くすほどの茶色の絵をな」

「絵?一万年前の私はあなたの前で絵を描いたの?この洞窟に?」

「ああ、そこら中に転がっている石で壁に絵を描いたんだ。とてつもなく壮大だったぞ。後世に受け継がれるほどの大作だった。お前たち人類史上はもちろん、地上世界も天上世界でも他に類を見ないほど素晴らしい壁画だった。なあ、また描いてくれよ」

「ごめんなさい、本当に何も覚えていないの。そして今の私は絵を描く才能は全くない。生まれてから絵を描いたことなんてほとんどない。だから、この壁に絵を描くなんてできそうにない」美月は心の底から真実を語った。絵などの芸術を見極める能力はとても高いものを持っているが、自分で作り出すことはできない。遥香の絵の才能を見出したり、七海のスーツケースの価値に誰よりも早く気づいたりするのは、その典型例だ。この世界で美月が持っているのは芸術を作り出す才能ではなく、誰かが作った芸術の価値を見出し世界に広げる才能なのだ。

 コウモリは黙って美月を見下ろしている。しばらくして残念そうに目を伏せた。「そうか、そいつは残念だ」コウモリがそう言うと、洞窟全体がガタガタと揺れ始めた。美月が立っていられないほどの強い揺れになる。美月はその場にヘタレ込んでしまう。そして岩が崩れ、美月に向かって転がってくる。周りの壁はもちろん、天井の岩も美月に向かって落ちてくる。悲鳴を上げて顔を伏せるしかできない。大きな岩と岩の間に押し込められ、美月は身動きができなくなる。

「絵が描けないんじゃあ仕方ない。そこで大人しく死ぬのを待て。俺は失望したよ」コウモリは首を振り、羽ばたいてどこかへ消えてしまう。

美月は岩に挟まれたまま一人残されてしまう。「助けて!」と叫ぼうとしたが、美月は声が出せなくなっていた。何とか息を吐き、酸素を吸い込むことしかできない。目の前全体を茶色の岩が覆い、体の節々を茶色の岩が押さえ込んでいた。「だから茶色は嫌いなのよ」と心の中でつぶやくことしかできなかった。


 遥香は一枚の絵を描き上げると、目を閉じて深呼吸をした。そして短い呼吸を繰り返し熱くなった頭と心を冷やしていく。

「おお、できたか!」と声がするので、目を開けるとコウモリが目の前にいた。

「はい、今までで一番の出来です」と遥香は笑顔で言った。

 コウモリはじーっと遥香の絵を見て、「うむ、確かに傑作だ。お前もきっと歴史に名を残す芸術家になるよ」と言った。「そ、そんな」遥香は顔を赤くして下を向く。自分の両ひざを手でこすった。嬉しさを隠すときに遥香が無意識にやる癖だった。美月にもそこまで褒められたことはない。人生で一番壮大な誉め言葉だった。

「それで偉大な芸術家にもう一つ頼みがあるんだが、聞いてくれるか?」コウモリはじっと遥香の目を見る。遥香は黙って頷くとコウモリは視線を外す。「この部屋の壁にも絵を描いてくれないか?真っ白な壁になってるから、あんたにはもってこいだろ?なあ、頼むよ」

 ちょうどこの時、遥香の中でもっと絵を描きたいという欲望が沸き起こっていた。さっきキャンバスノートに絵を描いているときから、もっと大きな場所に絵を描きたいという抑えきれない欲望に心を支配されていた。それは、これまで欲望の流量をコントロールしてきたダムが突然決壊してしまったような感じだった。誰かが巨大なハンマーでコンクリートのダムを叩き壊したような。「私が描きたいものを描いていいんですよね?」遥香はコウモリの申し出を黙って承諾する。

「無論だ。好きにやっちゃってくれ」とコウモリは言った。「ああ、そうだ。一つだけ言っておく。壁の絵はいつまでも待っていられない。俺も忙しいんだ」

「いつまでに完成させればいいんでしょうか?」

「お前がさっき完成させた絵に満月があるだろう」遥香は確かに満月を描いた。これは私を照らしてくれる美月さんを象徴している。「その満月がだんだん欠けてきているのは分かるかな?」確かに、少しずつではあるが黄色の丸みが欠けてきている。「満月が消えてしまう前に、壁の絵を完成させてくれ。そうじゃないとこの世界から救世主が消えてしまうからな」

「わかりました。すぐに取り掛かります」遥香はペンを持って立ち上がった。救世主とは何か気になったが、月がどんどん欠けてきている。話している時間はない。もしかしたら美月さんに何か危険なことが及んでいるのか?そうかもしれない、そうじゃないかもしれない。どちらにしろ、今の私にできることは全力でこの壁に絵を描くことだけだ。

「じゃあ、頼んだよ」そう言ってコウモリはどこかに飛んで行った。


 茶色い岩に挟まれているとき、美月の頭の中で最初に思い浮かんだのは、中学生の頃の思い出だった。それまで平凡だった美月の生き方を根底から変えてしまう大きな出来事が起こったのだ。

 ある日、美月が学校に着き「おはよう」と言いながらドアを開けると、誰も美月に挨拶を返してこない。視線すら美月に向けようとしない。異様な雰囲気に動揺しながら、美月は自分の席に座る。昨日までは美月に友人が何人か駆け寄ってくる。今日はそれもない。みんな背中を向けて違う人と話している。

 この教室にはもっと異様なものがあった。美月がそれに気づいたのは、椅子に座り黒板の方に視線を向けたときだった。黒板にはチョークで絵が描かれていた。たくさん色が使われている。女の人のようだ。でも上手い絵ではない。目と鼻と口のバランスがいびつだ。目が極端に大きく、左目と右目が上下に大きくズレてしまっている。鼻は長く、口は極端に小さかった。ピカソがキュビズムの手法で女性を描いたようだ。そんな絵を美月は見たことがない。でも、きっとピカソの絵には美しさが感じられるはずだ。それに対して、あの黒板の女の絵からは、ただ醜さと憎悪しか感じられない。絵の対象となる女への無限の悪口が込められているように感じる。チョークの女の絵の横には、「山岡美月」と汚い字が記されていた。

 美月はただ黒板を見つめるしかない。両ひざに乗せた手はカタカタと震えている。周りからはクスクスと笑い声が聞こえ始める。そうか、あの醜い女性は私なのか、私への悪口なのか。そんなに私って目が大きいのかしら。美月の頭の中で様々な思いが込み上げてきた。嵐のように駆け巡る色んな思いが消え去るまで、じっとしていた。じっと前だけを見ていた。しばらくすると嵐は止む。美月の頭の中は静かになる。その静けさの中に水たまりができている。水たまりをそっと覗く。水には私の顔が映っている。大人になりきれていない少女の顔が映っている。不安そうで今にも泣きそうな顔をしている。美月は一歩前に進む。水たまりの上を歩く。両足で水たまりに映った自分の顔をぐしゃぐしゃにする。そんな光景が頭の中に浮かび上がるのと同時に、美月は椅子から立ち上がる。そして黒板の方へ歩いていく。そして黒板消しでチョークの女性を消していく。水たまりの中の自分を踏みしめるように、チョークの女性を跡形もなく消し去った。

 黒板から全てが消えたとき、美月の心の中に浮かんだのは「ここにいてはいけない」という思いだけだった。今までと同じようにここで生きていたら、何も果たせないまま人生を終えることになる。この教室にいる人たちと同じように。それだけは嫌だ。こいつらと同じ人生を送りたくない。

 そこから美月は猛勉強を開始する。東京の西の郊外にある平凡な公立中学を卒業すると、都心にあるトップレベルの私立高校に進学する。そこから今の地位まで一気に駆け抜けた。美月は新しい自分を構築し、自分自身を改革し続けた。

 そしてこの事件をきっかけに、美月の中で「美しいもの」への飽くなき探求が始まる。逆に醜いものを避けるようになった。醜いものに価値はないと思い続けた。あの黒板の中に描かれたチョークの女性を美しいもので覆い隠すように、美月は新しい道を歩いてきた。


「結局、何が原因でそんなイジメに合わなければいけなかったのか、未だによく分からないの」いつか美月が遥香に語った言葉。白い壁に絵を描こうとした瞬間、その言葉が遥香の頭の中によぎった。


 美月の秘書になってちょうど一か月ほど経ったときだった。会社の近くの喫茶店でコーヒーを飲んでいた。確か金曜日の夕方で、その週の仕事が一段落していた。次の日は休みだし、二人はリラックスして仕事とは関係のない話をしていた。その流れで美月が自分の中学時代に受けたイジメの話を遥香にしたのだ。

「きっと、美月さんがとても綺麗だから、クラスの誰かが嫉妬したんですよ。黒板に美月さんの見た目を侮辱するようなこと描いて、美月さんの綺麗な顔が悲しみで歪むところを見たかったんじゃないかな」

「誰かって誰なのかしら?」

「クラスでトップに君臨する女子ですよ、きっと。男子がみんな美月さんのことばかり見るから、自分が一番でいたい女子はイライラしたんです」

「ああ、いたわ、そういうクラスを支配している子。まあ今となってはどうでもいい。あれがあったから、私は強くなれたんですもの」そう言って美月はニコリとした。

「黒板の絵の話で思い出したんですけど、こんな絵はお好きですか?」遥香はスマホを取り出し、ある写真を見せた。そこには一頭の牛の絵が写っていた。筆で紙に書かれたものではない。もっと原始的な場所に、原始的な方法で描かれたものだと直感的にわかる。「これ、卒業旅行でスペインに行ったとき、マドリードの博物館で撮影したものなんです。今から一万年ほど前に洞窟の壁に描かれたアルタミラ洞窟壁画と言われるものです。もちろんマドリードの展示品はレプリカですけど、とても迫力がありましたね。大きな岩肌に茶色い塗料で牛や馬が描かれているんですけど、何というか今にも動き出しそうなんです。生命力に溢れていると言えばいいのかな、現実に動いている牛や馬よりも活き活きしているように見えてくる。牛や馬の息遣いが聞こえてきそう。そしてこの絵が描かれた三千年前の空気の匂いまで感じられる気がしてくるというか…」遥香は必死に言葉を探した。この壁画に対峙したときに感じた圧倒的な何かを表現する言葉を。だが上手い言葉はなかなか出てこなかった。

「あなたが言いたいことは、よく分かるわ」美月は黒板に描かれた自分の顔を思い出していた。あの時も同じことを私は感じた。現実に生きている私よりも、黒板の絵は人間性に溢れていた。私の中にある、理性や上面の笑顔で覆い隠している、醜さや邪悪さや悲しさみたいなものを、黒板の私は外側に思いっきり放出していた。今ここで生きている私なんかより、よっぽどイキイキしていた。同じようなことを遥香はアルタミラ洞窟壁画に感じたんだろう。

「本当ですか、それはよかった」遥香は安心したように笑顔になり、コーヒーをすすった。

「いつか本物を見に行きましょう。レプリカなんかじゃなくて、本物のアルタミラ洞窟壁画を」美月はコーヒーを飲み干した。

「はい、必ず」遥香も同じようにコーヒーを飲み干した。


 遥香は白い壁に描くものを決めた。アルタミラ洞窟壁画をここに再現しよう。本物みたいに生命力が溢れる絵は描くことはできなくても、今の私が一番描きたい絵だということは間違いない。この情熱だけは、コウモリだろうが天使だろうが美月さんであろうが奪うことはできない。私はただこの情熱を白い壁にぶつけるだけだ。

 本物はほとんど茶色い塗料で描かれていた。この部屋全体を茶色の絵で覆いつくことは、きっと不可能だろう。茶色系のペンの数は限られている。だから私はもっと色を使う。七十二色を全て使う。カラフルなアルタミラ壁画を描く。私にしか描けない色彩豊かな壁画になるはずだ。

 遥香はペンを走らせる。夢中で白い壁に絵を描く。迷いなんてない。描くものは頭の中にあるのだから。カラフルな馬や牛の絵がどんどん完成していく。真っ白な壁で覆われていた無機質な部屋に、生命力が溢れてくる。壁画に描かれていたのは馬や牛だけではない。イノシシやシカなど他の動物もいた。それも描いてく。覚えているものを全て描いていく。

 最後に遥香は手を描く。無数の手形を描く。もちろん本物の壁画にも描かれていた。茶色の人間の手形が無数にあったのだ。多くの人間の魂が岩の中に溶け込んでいるような気持ちになった。俺たちはここで生きていたんだぞと主張しているようにも感じた。あの岩の中に閉じ込められている人間の魂を解放してあげるように、遥香は白い壁にカラフルな手形を描いていく。どうか、ここで新しい命を生きてほしい。そう願いを込めた。

 白い壁全体にふぅーっと息を吹きかける。遥香の魂も白い壁に溶け込ませる。そうして遥香のカラフルな壁画は完成した。温かみのある生命力が溢れ出していた。


 その頃、美月は岩に挟まれたまま意識を失っていた。腕も足もダランと脱力している。もはや岩から抜け出す力は残されていない。声を出す力も残されていないのかもしれない。物理的な力が必要とされる現実の世界から抜け出して、美月は夢を見ていた。さっき脳裏によぎった思い出とは全く異なるものだ。長い時を経て美月の中に刻まれた記憶が再構築されたものだった。

 その夢の中で美月は自ら死のうとしていた。鋭利な石を自分の喉元に突き刺そうとしている。美月がいる場所は現実世界と全く同じだった。茶色い岩に囲まれた洞窟の中。そこにポツリと一人で美月は立っている。

 でも夢の美月は大人ではない。十歳前後の子供だった。まだまだ生きていくには大人の力が必要だ。その大人たちはこの洞窟にはいない。一時間ほど前に父と母がここから出て行った。食料を採りに出かけたのだ。そう、この洞窟に美月は父と母と暮らしていた。

 父と母が洞窟から出て行った後で、どこかで火山が噴火する。大きな爆音とともに立っていられないほどの揺れが起こる。その揺れのせいで、洞窟の出口が完全に石や砂で塞がれてしまう。もう美月は洞窟から出ることはできない。外の世界から完全に遮断されてしまった。

 火の明かりで食料を確認する。食料だけなら数日はもつ。ただ水がほとんど残っていない。今朝汲んできた水は底を尽きかけている。ちょうど水を汲みに行こうとしていた矢先の出来事だった。美月は完全に絶望した。目の前が完全に真っ暗になった。

 完全な暗闇の中で、視界の端っこに小さな光が見える。槍の先端に付けるための鋭利な石だった。それがキラリと鋭い光を放っている。父が毎晩研いでいるものだ。それを見つけた瞬間、美月は「もういっそのこと死んでしまおうか」と考える。飢えや渇きで苦しみながら死ぬより、自ら死を選んだ方がずっと楽に違いない。急所は分かっている。父がよく言っていた。「動物を仕留めるときは急所を狙うんだ。喉元か心臓のことだ。そこを一発で突き刺せば、苦しませることなく命を絶つことができる」

 美月は鋭利な石を手に取る。石を手に持った瞬間、全身が震えていることを知る。これが恐怖というものなのか、絶望というものなのか。恐怖と絶望に抗うように、美月は顔を上げて喉元を突き出し。石を振り上げる。喉元と直線上の位置に石が置かれた。

「さあ、恐怖と絶望よ、私の元から去っておくれ。今すぐに」美月は心の中で唱える。それは願いでもあり祈りでもあった。だんだん美月の中ですべての感情が消えていった。体の震えも止まっている。恐怖や絶望が消え去り、心の奥底に温かな何かが生まれてくる。それが徐々に大きくなってくる。美月もそれに向かって歩き出したくなる。温かな何かに包まれてしまいたい。そう思って美月は目を閉じ、石を振り下ろした。


「なあ、取引しないか?」突然の声に驚いて、美月は手を止める。喉元寸前のところで石は止まる。美月は目を開けて声の方に顔を向けた。そこには一匹のコウモリが岩にぶら下がっている。現実世界で美月が出会ったコウモリとよく似ていた。

「お前、これから死ぬんだろ?」美月は黙って頷く。「なのに恐怖を全く感じていない。むしろ希望すら感じてやがる」そうか、あの温かな何かは希望だったのか。「気に入ったよ。お前こそ救世主だ」コウモリはニヤリと笑う。

「お前はここで死ぬ。それはもう運命で決まってしまっている。残念なことだが、運命は変えられない。ただ俺と取引すれば、お前は新しい世界に生まれ変わることができる」コウモリはヒヒっと声を上げて笑う。美月は黙っている。さっきまで振り上げられていた両腕を下にやって、コウモリの言うことを理解しようと努めている。

「お前の足元に茶色の石がたくさん落ちているだろう?それで壁に絵を描け。なんでもいい。好きな絵を壁に死ぬまで描きまくれ。そうすればお前を一万年後の世界に生まれ変わらせてやる。お前は新しい世界で救世主として生きていくんだ」美月は足元を見る。確かに茶色い石がたくさん転がっている。絵なんて描いたことはない。でも今の私にとって、絵だけが生きるための希望なのではないか。あの温かな何かにつながっているのではないか。温かな何かに抱かれることができるのではないか、今度こそ。

「あなたの言う通り絵を描く。ちゃんと生まれ変わらせてね。救世主なんてならなくていいから、外の世界を歩かせて」美月はやっと口を開く。口の中がカラカラに渇いていることに気づく。

「もちろんだ。お前はこんな狭いところだけで終わる奴じゃねえ。もっと広い世界を歩かせてやるよ」

「あなたとの取引に応じる」美月は残っていた水を飲み干す。口元を腕でぬぐって、茶色い石を一つ拾い上げる。

「取引成立だ」コウモリはまたヒヒっと笑った。


 それから美月は洞窟の壁に向かって茶色の絵を描き続けた。文字通り全身全霊を込めて無我夢中で描いた。死ぬまでそれを続けた。そのうち食料も尽きてしまう。何日も飲み食いしない日々がやってくる。でも不思議と苦しくはない。絵を描いていたからかもれしない。もしくはコウモリは苦しくないように取り計らってくれたのかもしれない。苦しくなっては絵が描けなくなってしまう。

 そうして、洞窟の壁一面に茶色の絵を描き終える。どこにも絵を描くスペースは残されていない。美月は立っていられなくなり、その場に倒れてしまう。意識が朦朧として視界に少しずつ霧がかかったようになる。霧の先に茶色い絵が見える。

 美月は最後の力を振り絞り、仰向けになる。洞窟の天井には星を描いた。いつの日か父と母と見た不思議な星。赤く輝いてこちらを見下ろしている。「あの赤い石欲しい」と父にせがんだ。「強く願いなさい。そしたらお前のものになる」と父は言って美月の手を握った。それを思い出して仰向けになったまま美月は右手を伸ばす。洞窟の天井の茶色い星に向かって。

 美月は右手を伸ばしたまま、その星を掴もうとする。すると、少しずつ茶色い星が赤くなってくる。赤く色づいて、光を蓄え始める。そして赤く輝き始める。その輝きはどんどん強くなる。目を開けていられないくらいに強くなる。美月は目を閉じて、伸ばしていた右手を静かに下ろした。


 現実世界の美月が意識を取り戻す。状況は変わっていない。美月の体は岩に挟まれたままだ。ただ、目の前が少しだけ変わっている。薄暗い洞窟の中に、淡い赤色の光を見つける。これはどこで光っている?自分が履いているジーンズの左ポケットから光っている。そうか、これは赤い宝石の光だ。

 美月は体をくねらせて、ポケットから宝石を落とそうとする。小さく体を揺らしていると、宝石を洞窟の地面に落とすことに成功する。地面に落ちると、宝石は洞窟全体を赤く照らし始める。さっき夢に見たのと同じ光景が広がる。洞窟全体が赤い輝きで満たされていった。


 遥香のもとにコウモリがやってくる。

「完成したんだな。やっぱりあんたは凄い。歴史に名を刻むよ」

 遥香はすべての力を使い果たしたように、へたりと座り込んでいた。放心状態で自分が描き終えた壁画を見上げている。コウモリの言葉にも小さく頷くだけだった。

「この絵を誰に見せたい?最初に見せたい人間は誰だ?」

 コウモリの方に顔を向けて「美月さん」と答えた。いつか本物のアルタミラ壁画を見に行こうと約束したんだ。これは本物じゃないけど、私にしか描けない渾身の壁画だ。美月さんに早く見せたい。あの人のおかげで、この絵を描くことができたのだから。

「わかった。救世主のもとに届けるよ」とコウモリは言った。やはり救世主とは美月さんのことだったのか。そう思った瞬間、部屋全体が真っ暗になる。どこかで雷が落ちて、部屋の電気が突然消えるように。

 暗闇の中に赤い光が差し込んでくる。その赤い光に向かって遥香は歩き始める。少しずつ光は強くなる。それに反比例するように道が狭くなる。最終的には這って道を進む。ほふく前進で赤い光を目指す。何も考えずにただ前へ前へと進んだ。


 美月は赤い光の中で不思議な光景を目にした。洞窟の壁に絵がどんどん浮き出てくるのだ。茶色い絵ではない。洞窟に似つかわしくないカラフルな絵だった。描かれた生き物たちの生命力で洞窟の中が満たされていく。

「何だ、描けるじゃないか」とコウモリが現れる。「良い絵だ。前の茶色の絵もよかったけど、こっちの方がもっと良い」コウモリがそう言うと、美月は岩の間から出ることができた。「また、頼むぜ。今度はもっと良い絵を期待している」コウモリはどこかに飛んで行った。

 体の節々が痛い。足はどこか捻ったかもしれない。それでも美月は体を引きずりながら、部屋の中央に向かう。さっきまで赤く光っていた宝石が落ちている。美月は宝石を掴むと、仰向けになる。夢の中で見た同じ格好になる。天井には満月が描かれている。

 その満月に向かって、美月は赤い宝石を投げた。宝石はちょうど満月に当たる。そのまま壁の中に埋まってしまう。赤い宝石は壁画の一部になる。そしてキラリと赤く光る。美月が夢の中で見たのと、同じ光景が完成する。

 美月は仰向けになったまま、その光景を満足気に見上げる。温かな何かが心を満たしていく。それに包まれるように美月は目を閉じた。

 

 遥香は部屋らしきところに行きつく。きっと最初に迷い込んだ洞窟の部屋なのだろう。遥香が部屋に足を踏み入れると、赤い光は消えてしまう。やっと洞窟全体を見渡すことができた。

 洞窟の中央に誰かが倒れている。遥香はそれが誰かすぐに分かる。「美月さん!」と叫んで駆け寄る。「大丈夫ですか!しっかりしてください!」美月の肩を強くゆすった。

 美月はゆっくり目を開ける。「遥香、どうしてあなたがここに?」と小さな声で尋ねる。

「こっちが訊きたいですよ!ここはペンションの裏山の中です。私が来たら倒れてたんですよ!」遥香は美月の手を握る。「でも、よかった。無事だったんですね」

「私はどこにも行かないわよ」と美月はクールに言った。

「とりあえず、ここから出ましょう。ペンションでお風呂入りましょう」美月も遥香も全身汚れていた。それは洞窟の中で格闘した勲章だ。

「おぶって。もう歩けそうにない」と美月は言った。「しょうがないですね!今回だけですよ!」と遥香は笑顔で言った。

 遥香に背負われながら「これからも私を助けてね」と美月は言った。「もちろんです。これからも付いていきます」と遥香は前を見据えながら言った。洞窟の外では太陽が輝いていた。

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