第18話 いざ舞踏会へ

 翌日朝食を済ませると、七海と美月は車に乗り込みペンションを出発した。相変わらず青空も緑色の丘陵地も果てしなく続いていた。その間を縫うように配置された白い道の上を、二人を乗せた車は真っすぐに進んでいく。

「七海さんのご先祖も、きっとこの道を通って蛇のいる所を目指したのね」ハンドルを握りながら美月は言った。

「はい、ただひたすらに歩いたんだと思います」

「七海さんも歩くつもりだったんでしょ?」

「ええ、でもご親切な方たちに出会えて私は幸運でした。バスはとても速いです」

「これはバスではないけど、まあいいわ」美月は少し微笑む。「ところで、私たちは同じ景色を見ているのかしら?七海さんのご先祖が見たものと」変化または進化という概念が、美月の脳内に浮かんできていた。自身が経営する銀行で多くの革命を行い、自分自身を変化させ続けてきた美月にとって、その概念は避けては通れなかった。

「きっと違うと思います」七海は間髪入れずにはっきりと言った。「蛇も伝説とは異なる場所にいました。父の話では、蛇は岩の中にいると。蛇がのたうち回るような模様をした大きな岩の中に蛇は棲んでいる、そう教えられました」

「でも、昨日の蛇はそんなところに棲んでいなかった?」

「はい、壁のように積まれた石垣の中から出てきました」

「きっと、誰かが開発してしまったのね。山を切り崩して町を作るように」変化や進化というものは都会だけの話ではない。人間がいるところなら、どこでだって起こるのだ。人間は欲望を埋め合わせるように設計されているのだから。美月は納得した。すると変化や進化に関する概念は頭から消えていった。

「ねえ、七海さん。無事に願いが叶ってポルトガルを救うことができたら、私の願いも叶えてほしいのだけど、聞いてくれる?」と美月は切り出す。

「はい、何でしょうか?」

「七海さんのスーツケースを私に譲ってくれない?一目見た時から、とても素敵だなと思っていたの」元を正せば偶然スーツケースを見かけなければ、こうして七海と話すこともなかった。昨日のことのはずなのに、とても遠い昔のように感じられる。

「ごめんなさい。あれは友達の職人が作ってくれた大事なものなので譲れません」七海は少し迷ったが、はっきりと断った。美月がため息をつくのを見て、七海は言葉を続ける。

「友達の工房は海が見える丘の上にあります。赤い屋根をした小さな建物です。友達はいつも言っていました。この赤い屋根で太陽の力を受け止める。その力を革に込めるのだと。その革で鞄や靴を作ると、太陽の力が身に着ける人を守ってくれるのだと」

「素敵な話だわ。その工房じゃないと、作れないものなのね」美月の頭に、丘の上に立って真っ青な海と太陽を眺める職人の姿が浮かんできた。「いつかその工房に行くわ。私もその革でスーツケースを作ってもらうんだから。七海さんのよりもっと素敵なやつ」

「はい、ぜひ。お待ちしています。友達も喜びます」七海は少し微笑んだ。


 車は無事に旧神居古潭駅に到着する。昨日と変わらず誰もいない。あずき色の駅舎の向こうにボロボロの線路が見える。そしてその線路を見下ろすように、蛇の棲む石垣がそびえている。右の方には黒い蒸気機関車が停泊している。仮面男を連れ去ったものと同じだった。

 七海と美月は石垣に近づく。「このあたりのはずなんですが」と七海が石垣の割れ目を探していると、「ねえ、あれじゃない!」と美月が叫んだ。美月が指さす方に目をやると、蛇の模様をした皮が垂れ下がっている。その皮の先には、白い蛇が頭をクネクネ動かしていた。

「こんにちは!」と七海が蛇に話しかけた。

「ああ、昨日のポルトガルの女の子か。ちょっと待ってておくれ。ちょうど脱皮しておったんだ。こうやって定期的に脱皮することで汚い角質を落としているんだ。君たち人間が体を洗って角質を落とすと同じだ。ワイにも角質を落とす権利があるわな。いつでも白くて綺麗な体でいる権利ぐらいあるわな」と蛇は頭だけ七海に向けて言葉を返す。

 蛇の脱皮が終わるのを見て、「昨日おしゃっていた赤い宝石持ってきました」と七海は言った。「あちらの女性が持っておられたのです」と美月を紹介する。美月は鞄の中から赤い宝石を取り出す。結婚のプロポーズをするように、ぱかっと箱を開けて白い蛇に宝石を見せた。太陽の光に負けないほどの輝きを、赤い宝石は放っていた。

「うむ、確かにこれだ。数百年ぶりに見たな。それであなたは?」蛇は美月の方を見る。

「山岡美月と申します。どうぞお見知り置きを」美月はお辞儀をする。仕事の名刺交換でいつも行っているものだった。とても自然でスマートなお辞儀だった。

「ふむ、あなたからは茶色いオーラを感じるね」蛇は唐突に言った。

「茶色ですか?初めて言われました」美月は少しぎこちない笑みを浮かべる。あまり好きな色ではない。

「こいつは失礼。蛇になってからオーラが見えるようになったのだ。その人から滲み出している光のようなものだ。みんなが想像するやつ」と蛇は少し頭を下げて謝罪をした。「オーラというものは、あなたのご先祖や生前のものに由来している。きっと茶色いものと強い結びつきがあったのだろう。だから大事になさった方がいい。茶色いオーラを背負って、あなたは生きていくことになるのだから」

「はい、わかりました」と言ったが、「ふん、どこの誰が茶色いものと結びついたのかしら?なんか汚いイメージしか沸かないのだけれど」と心の中で文句を言った。

「では、諸君行こうか。舞踏会へ」と蛇は石垣から地面を下りて、右の方向へ進み始めた。

「七海さんは何色のオーラなの?」と蛇の後を歩きながら美月は尋ねる。

「私にはオーラのことは何も」と七海は首を振る。

「ふん!全く!なんで私だけ」と美月はぶつくさ言った。

「何か言ったかね?」と蛇の声が聞こえると、「何でもないです」と美月は愛想良く言った。そしてすぐに不満そうな顔に戻った。


 蛇はそのまま蒸気機関車の近くまで進んだ。真っ黒な車体のところに「29638」と番号が張られていた。

「あんたら蒸気機関車は乗ったことあるか?」蛇の問いかけに二人は首を振る。蒸気機関車は十九世紀にイギリスで作られ、二十世紀には使われなくなった。十七世紀に生きる七海も、二十一世紀に生きる美月も乗ったことはない。

「これ展示してるやつでしょ?どうやって動かすの?」美月が蛇に問いかける。

「赤い宝石があれば大丈夫や」そう言って蛇は車輪と壁をつたって運転席の中に入った。七海と美月も運転席の中に入る。中には巨大な鋼鉄機械がそびえている。全体的に黒くて、縦と横も幅いっぱいに設置されている。これは蒸気機関車を動かすための無機質な機械だとわかっているが、これ自体が今にも意思を持って動きだしそうなモンスターのように感じられた。一番上に取り付けられた二つの圧力計が目のように、七海たちを見下ろしているのだった。

「そこの焚口戸を開きなさい」一番下に設置されている丸い扉を、蛇は頭で示す。ここに石炭を入れて燃やすことでエネルギーに変えるのだ。

「これ、すごく重い」美月は踏ん張って焚口戸を開いた。中には何も入っていない。

「ここに赤い宝石を入れて扉を閉めなさい」

 美月は言われた通り、赤い宝石を焚口戸の中にそっと置き、扉を閉めた。扉が閉まるガシャンと音を聞くと、蛇は目を閉じた。そして頭を下げて何かを唱え始める。蛇が唱えた最後の言葉だけは七海も美月も聞き取れた。

「空気が変わった。そのとき自身の心に従うべきだ。そこに進むべき道があるから」あの呪文をしっかりと蛇も唱えていた。その呪文が聞こえると、七海も美月も目を閉じ心の中で呪文を復唱した。

 すると機関車はポーっという唸り声を上げる。次にシュポーという音が床の下から聞こえる。生き物が立ち上がったような感覚になる。そしてゆっくりと機関車は動き始める。スン、スン、スン!少しずつ速くなる。

「今のうちに後ろの客席に移動して座ってなさい」と蛇は言った。七海と美月は言われた通り後ろに向かう。木で作られた四人掛けの座席がいくつも並んでいる。運転席に一番近い席に二人は向かい合って座る。窓から見える景色はどんどん後ろに行く。旧神居古潭駅の駅舎ははるか後方に位置している。

「さあ、飛び立つぞ!」蛇の声が聞こえる。その瞬間、機関車は飛び上がる。七海と美月は少しだけ座席に押し付けられるような重力を感じる。

「飛んでるわ、嘘みたい!」美月は叫ぶ。窓の外には大地が遠くまで見える。昨日観覧車から見えた景色よりどんどん高くなる。大地は小さくなり、青空がどんどん近づいてくる。美月は飛行機が苦手だった。あの飛び立つときの重力が嫌いで、離陸のときはいつも目を閉じて瞑想をしていた。子供のとき初めて乗った飛行機以来だ。目を見開いて飛び立つところを見ているのは。恐怖が少しだけあったが、あの頃と同じワクワクが少しだけ戻って来ていた。

「鳥のようですね」と七海は言った。膝の上にしっかりとスーツケースを抱えながら窓の外を眺めていた。表情は少しだけ笑みが浮かんでいる。丘の上からいつも町を眺めていた。その上を鳥が飛んで行った。あの鳥のように空を飛べたら、どれだけ楽しいだろうといつも想像していた。今、その想像が現実となっていた。鳥よりも高く空を飛んでいた。

「鳥なんかより断然高くて速いわよ」と美月が七海に教える。この高さならバードクラッシュで揺れることもなさそうだと美月は思った。七海は窓から顔を出し、鳥を探した。鳥の群れが自分よりも下を飛んでいる。

「窓は閉めたほうがいい!気圧が下がって息ができなくなっちまう!」と蛇の声が聞こえたので、七海は窓を閉める。もう鳥の群れは見えなくなっていた。


 その頃、ペンションの裏山では熊と仮面男が舞踏会に行こうとしていた。

「それで舞踏会のお迎えはまだなのかい?」と仮面男は尋ねる。昨夜は焚火をしながらそのまま寝てしまった。起きると青空が広がり、星たちは消えてしまっている。夜のうちに舞踏会へ行くと思っていたから少しイライラしていた。焚火の後に残った燃えカスを足で踏みつぶしていた。

熊は静かに望遠鏡を覗いている。青空の中に何かを探しているようだった。

「来た!準備しろ!お迎えが来た!」熊が急に叫び始めた。

「え、嘘だろ?どこから来た?」仮面男は熊のほうまで歩いていく。望遠鏡の方を見つめても、青空以外に何もなかった。

「聞こえないか、蒸気機関車の音が?シュポーって聞こえるだろ?」

「いや、何も聞こえない。というか何だ?ジョウキ何とかってのは?」

「まあ、いい。とにかく準備しろ」

「もう準備オーケーだ」二人とも手ぶらで特に何も持っていくものはなかった。

「じゃあ、ここを覗け」熊は自分が見ていたファインダーを指さす。仮面男は言われた通りそこに目をやる。黒くて車輪をつけた大きな物体が見える。そいつは煙を立てながら空を飛んでいた。

「それが蒸気機関車だ」と熊は言った。「そのまま見ていろ。目を離すんじゃないぞ」そして熊は何かを唱えはじめる。これは蛇が唱えたものと同じだった。でも仮面男には何も聞き取ることはできなかった。七海と美月が聞こえた最後の部分も、仮面男には全く聞こえなかった。

 熊の声が聞こえなくなると、レンズ越しの蒸気機関車はどんどん大きくなっていった。体が浮いているような感覚にもなる。頭が混乱してきて足をバタバタさせる。だけどレンズから目を離すことはできなかった。体が空を飛びながら蒸気機関車にどんどん近づいていく。黒い壁がもう目の前に!もうぶつかる!と思った瞬間、仮面男は客席に座っていた。窓の外には青空が広がる。あの空を飛ぶ黒い物体に乗り込んだのか?

「その通りだよ。俺たちは蒸気機関車に乗り込んだ。これに乗らないと舞踏会には行けないからね」気づくと熊が向かい側に座っている。シュポーという機関車の唸り声が響き渡る。

「俺たちはどこまで行くんだ?」仮面男は息を整えながら尋ねる。

「さあ、俺にもわからない。天上の世界がどこにあるかなんて、誰にもわからない。ただ導かれるだけだ」と熊は冷静に言って、目を閉じた。「窓は開けるなよ。息ができなくなるかな」と付け加えた。

 仮面男は目を閉じて十字を切った。心の中で神に祈りを捧げた。それがどんな神なのか仮面男自身にも分からなくなっていた。


 この蒸気機関車に途中で乗り込んだのは彼らだけではない。地上の世界にはこの舞踏会を待ちわびている者がたくさんいるのだ。それのほとんどは人間ではなく動物だった。蛇や熊のように、遠い昔に何かしらの罪を犯し動物の姿に変えられたのだ。みんなこの舞踏会で罪を赦してもらいたいのだ。時間が経つにつれ客席は混み始めた。美月と七海の隣の四人席にはタコとイカが座り何やら言い合っていた。吸盤があるからって良い気になりやがってというイカの主張が聞こえた。

「数百年ぶりの舞踏会やからな。いつもより客が多いな」と蛇の声が聞こえる。

「前の舞踏会はもっとお客さん少なかったの?」と美月が尋ねる。

「ああ、もっとガラガラだった気がするな。まあ時が経つにつれて、罪を犯す人間が増えてるんやな」

「あなたもその一人でしょ?」美月が指摘する。

「その通りや。あんたら気をつけや。この世界には触ったり踏み入ったりしたらあかん場所がたくさんあるから。特に茶色いオーラのお姉さんは特にな」

「気をつけるわ」と美月は言った。七海は黙って窓の外を見ていた。


 蒸気機関車はどんどん上昇し、青い空も突き抜けた。窓の外は暗闇に包まれる。だけどその中にたくさんの光が見える。僕たちが星と呼んでいる幾千の光が暗闇に張り付いている。機関車は一つの光に向かう。その光は二つの星の間にある。あの緑色の横並びの二つの星たち。その間に弱い光が一筋だけ見える。近づくとその弱い光は、小さな丸い穴から出てきているのが分かる。機関車はその穴の中に入る。穴の中に入ると駅のようなホームが見えてくる。そこに機関車は停まる。

「さあ、到着だ」蛇の声と共にドアが開く。七海と美月も機関車の外に出た。建物全体がコンクリートのような固い物質で作られていて、ガス灯がいくつも設置されている。

「地球の駅とそこまで変わらないのね」と美月は言った。

「あっちだ」と蛇の後についていく。だが行く方向は一つしかない。ホームの先には入場ゲートが見える。カラフルな装飾がされている。

「どこかのテーマパークみたい」と美月は呟いてから、ある情景が頭に浮かぶ。昨日の観覧車があった遊園地の入場ゲートだ。あそこに装飾の色や形が似ている。まさか、考え過ぎよと美月は頭を振った。だけど変なモヤモヤが心に残った。

「あんたにこれ返しておくよ。舞踏会中もちゃんと持ってな。きっとあんたを守ってくれる」と蛇は美月に赤い宝石を渡した。

「ありがとう」美月は胸のポケットにしまう。不思議と心のモヤモヤは消えていった。


 入場ゲートは何も見せる必要がなく、すんなりと通過することができた。ゲートの向こうには大きな扉がある。その扉の向こうは宮廷の大広間のようだった。大きなシャンデリアが吊るされ、壁一面にバロック絵画が描かれている。そしてどこからか弦楽器たちのチューニングする音が響いている。

 七海は遠くに仮面男がいるのに気づく。仮面男は七海に気づかず熊と話している。あの男よりも先に願いを叶えてもらわなくては。ポルトガルを救うために私はここに来たのだ。七海の中に再び使命感という情熱が燃え始めた。

「蛇さん、どうすれば願いを叶えてもらえるのですか?」と七海は尋ねる。

「ここは舞踏会だ。踊ることだ。注意深く音色に耳を澄ましてステップを踏むんだ。そうすれば願いは叶えられる。かつての石工職人がそうしたように」と蛇は言った。

 七海は黙って頷く。そして深呼吸をした。バイオリンが「ソ」の音を響かせていた。

「私、舞踏会ってはじめてなんだけど、始まる合図みたいなのがあるの?」美月が蛇に尋ねる。

「ああ、もうすぐ始まる。すぐに分かる。いいかい?舞踏会が始まったらワイらはバラバラになる。それぞれ孤独な闘いになる。一人で踊り続けるしかない。誰も助けてはくれないからな」と蛇は言った。

「望むところよ」と美月は言った。孤独な闘いには誰よりも慣れていると思った。

「あんたは誰よりも強い。それは茶色いオーラを見れば分かる。多くのことを独りで成し遂げられるオーラだ。だが独りではどうしようもなくなるときが必ず来る。そのときは赤い宝石を握りしめろ。忘れるなよ」蛇の鬼気迫る忠告を美月は黙って聞いていた。しばらくしてから「わかったわ」と言った。そしてポケットの中に赤い宝石があることを確かめた。

「七海さん、ポルトガルのお菓子ありがとう。またどこかで食べさせておくれ」と蛇は七海に言った。「はい」と七海は言った。「蛇さんもお元気で」そしてスーツケースを握りしめた。

 そして会場内に弦楽器の協奏曲が流れ始める。誰も聞いたことがない壮大な協奏曲だった。耳を覆いたくなるほどの、体全体を揺さぶるような音量だった。それは心の奥底を震わせる音楽だった。第一小節が終わるとき、大広間は真っ暗になった。今度は何の光も見えなかった。

「始まった」とどこかで誰かがささやいた。

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