第8話 スペインの使者

 七海が目を覚ますと、ぼんやりとした光が目に入った。よく見ると、それはロウソクにつけられた火で、テーブルの上に何本か置かれている。蛍光灯のような近代的な光はここには存在しない。かつての人類の祖先が暗闇の中で使ったであろう原始的な火がぼんやりと揺らめいていた。

「目が覚めたかな、ポルトガルの使者よ」低くて重厚感のある声が聞こえた。声の方を見ると、二つのロウソクの火が並んでいる。その二つのロウソクの間から白い仮面が見えた。二つのロウソクの火が白い仮面をオレンジ色に染めていた。

「起きてこっちに座らないか?座ってゆっくり話をしようじゃないか。きっと君も知りたいこともたくさんあるだろうし」

 仮面男がそう言うと、七海は体を起こす。七海はソファのような物の上で寝かされていたようだ。特にどこも縛られてもいない。ゆっくり身体を起こし、床の上に立ち上がる。コンクリートの冷たさが靴の底から伝わってきた。衣服についた埃を両手ではたき、スカートとブラウスの裾を引っ張り、皺を伸ばしてからテーブルの方へ歩いていく。一番近くの椅子に座り、仮面男とテーブル越しに対面する格好になった。テーブルの上には一杯の水が置かれていた。透明なグラスもオレンジ色になっている。

「まず、君から質問してくれないかな?君の声もまだ聞いていないしね」

七海は伏せていた顔を上げて、仮面男をしっかり見据える。「あなたはスペインの使者ということで間違いない?」そして水を一口だけ飲んだ。

「ああ、間違いない。私はスペインの使者だ。もちろん君の野望を阻止しに来たんだ。君はここに何かをしに来た。何かをすることでポルトガルをスペインから救おうとしている。我々はそれを何としてでも阻止したい。なぜなら後一歩でポルトガルが手に入るところまで来たからだ。ここまで来るのに、とても苦労したんだ。君たちは全く知らないと思うがね。それをこんな意味のわからない場所でパーにしたくはないんだよ」仮面は両手を広げて、パーになるを大袈裟に体で表現した。

「なぜ、そこまでしてポルトガルが欲しいの?あなたたちは既に巨大な領地を世界中に持っているのに」七海がポルトガルで暮らしていた時代、スペインは世界中に植民地を抱える世界一の帝国だった。ヨーロッパ、アメリカ大陸、フィリピン諸島、これらのほぼ全ての領地がスペインの支配下にあった。ここから採掘される大量の金や銀は実質的にスペインを世界の支配者へと押し上げていた。

「我々スペイン帝国は世界を苦しみから救いたいんだよ。救世主になりたい。唯一神であるゴッドの光で世界中を照らしたいんだ。君たちポルトガルが持っている新大陸、アジア、アフリカの領地が我々のものになれば、世界中の人々を苦しみから救ってあげられるんだ。君たちポルトガルは下俗的な商売のことしか考えていないようだから、我々が代わりに救ってあげるんだよ、世界をね」仮面男も水を一口飲んだ。そして言葉を続ける。

「まあ、色々言ったけど、つまりは邪魔なんだよ、君たちは。中途半端な大きさで大西洋側に大きな顔して居座られちゃ、邪魔でしょうがない。大人しくスペイン帝国のものになってくれればいいんだよ。悪いようにはしないから」

「私の記憶によれば十二世紀にローマ教皇によって、我々の独立は認められたはずだけど」七海は歴史の授業で習ったのだ。当時のイベリア半島にはイスラム勢力の国があった。イスラム勢力を駆逐するために、スペインとポルトガルは手を取り合う必要があった。ただ当時からスペイン側はポルトガルのことをよく思っていない。そこでローマ教皇が仲介に入る。イスラム勢力をイベリア半島から駆逐にするために、ポルトガルの独立を認め協力し合うようスペイン側に働きかけた。このときのローマ教皇は国の王より権威があった。なぜならキリスト教のトップだからだ。スペイン側の王はこの申し出を渋々受け入れた。ポルトガルがスペイン国内に侵攻しないことを条件として。これによりポルトガルの独立が正式に認められた。この後、両国は協力し合い、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐し、両国によるキリスト世界を半島内に作り上げていくことになる。

 七海の言葉を聞いて仮面男はくすっと笑った。「もはや教皇の力は弱体化している。教皇はスペイン皇帝の言いなりだよ。教会の修繕費だってスペインの銀で賄っているんだからね。つまりこれからはスペイン皇帝の時代なんだ。強大な力をもつスペイン皇帝が世界を決めていくんだ」

 悔しいが仮面男の言う通りだ。もはやローマ教皇は我々を助けてはくれない。自分たちで自身を助けるしかない。だからこそ七海はここまで来たのだ。

「ところで、ここは一体どこなの?旭川駅の近くでいいのよね?」

「うん、それほど離れていないね。近くの倉庫の地下室を一時的に借りてるんだ。スペイン銀貨というのはこの国でも価値があるみたいだ。一枚見せれば大喜びで貸してくれたよ」

 暗闇に目が慣れてくる。仮面男はなかなかの大柄な男のようだった。黒いツルツルとした上着を着ている。きっと絹でできている。首には銀色のネックレスがかかっている。きっと胸元に純銀でできた十字架をぶら下げているのだ。

 世界中に植民地を持っているスペイン帝国は国力が強いだけではない。何より厄介なのは、自分たちが信じる神を広めることで世界を救えると本気で信じていることだ。スペイン皇帝自らが敬虔なカトリック信者であり、他の宗教を決して許さなかった。スペイン領になったら必ずカトリックに改宗しなくてはならない。それこそが神が望むことであり、世界を救うことなのだとスペイン皇帝は本気で信じていた。

 我々ポルトガルもカトリック信者であり同じ神を信じている。七海だって日曜にはゴシック教会に行き祈りをささげる。だけど宗教だけでは世界を救えないことをもう知っている。そんな綺麗ごとだけではだめだ。世界は広く色んな考えがあるのだ。だからこそ宗教に関してはとても寛容だった。ポルトガルは広い世界の一つに過ぎない。ポルトガルの岬に立って果てのない大西洋を見ていると心からそう思う。大西洋に太陽が沈むとき、ポルトガルの町はオレンジ色に輝く。こんなにも美しい国があるのか。私はそんなポルトガルという国を愛している。だからこそスペインから救わなければならない。

「それでどうするの?私をここで殺すの?」

「いやいや、殺したりなんかしないよ。だって帰り方が分からないんだもの」仮面男はクックっと笑った。そう言えばスーツケースはどこにあるのだ?

「君が持っていたスーツケースには、羅針盤は入ってなかったよ」七海がきょろきょろしていると、仮面男は冷静に言った。スーツケースは壁際に置いてあった。

「たぶん、どこかに落としたんじゃないかな?もう誰かが拾っているよ」きっと旭川駅を走っているときに落としたんだろう。バスの中にはまだあったから。

「ポルトガルに帰るには、あの羅針盤が必要なんだろ?」

「どうしてそれを知っているの?」

「だって、君がポルトガルからここにやってくるとき、私もそこにいたんだもの。ちゃんと見ていたよ。君が羅針盤を手に持って、何か呪文を唱えているところを」

「あのとき、あそこには誰もいなかったはずだけど?」七海があの塔についたとき、例のおしゃべり好きな青年はいた。それでポルトガル伝統のお菓子モーレスをもらったんだ。私にモーレスを渡したあと、青年は塔から出て行った。一人旅の邪魔をしちゃいけないからねと言い残して。

「私は君のことを追いかけていたんだ。三百年前に変な石工職人がいたことをスペイン側は忘れていない。もはや伝説だよ。ポルトガル陥落寸前のところで、石工職人がスペインにペストを流行させ、ポルトガルを救ったと。今回もきっと同じようなことが起こる」

「だから、石工職人の子孫である私を見張っていたと?」

「その通りだ。君はイギリスからポルトガルに帰り、スーツケースを持ってどこかに行こうとしていた。そしたら大きな石の塔が見えた。君はそこを登っていく。私は君を追って、塔に登った。階段を登り切った瞬間、光に包まれた。そしたらこんなところまで来てしまった」

 私が羅針盤を使って北海道に来るとき、仮面男も一緒に連れてきてしまったのだろうか?七海は難しい顔をして首をかしげるが、誰も答えを教えてくれなかった。

「君も私も、帰り方はわからない。つまり後ろにはもう道がない。前に進むしかないんだ。君はこれからどこに行くんだい?どこかに行って何かをするんだろう?その場所はここに書いてあるのかな?」そう言って、仮面男は右手をあげる。その手には一枚の紙が握られている。七海がスーツケースに入れていた地図だった。その星マークのところに行けば蛇に会えるはずだった。

 七海は目を閉じて思考を整理する。私はもう前に進むしかない。蛇に会ってポルトガルを救う。そのために生きるしかない。ここにいてはそれを果たすことができない。ここを出るために、まずは最善のことを考えよう。ここを出て、タイミングを見計らって逃げるしかない。

「この星マークのところに向かうんだろう?こんなに分かりやすい地図はないよ」仮面男がそう言うと、七海は頷いた。まずはここを出て、蛇に会いに行く。

「じゃあ決まりだ。ここに一緒に行こう。何をするかは知らんが、ここに行けば分かるだろう。私も見てみたい。こんな見知らぬ国で、どうやってポルトガルを救うのか。お前の傍にいないと、私はスペインにも帰れないからな」

 仮面男はぐいっと水を飲み干した。

「その前に食事にしよう。ポルトガルの使者と初めてお目にかかったんだ。スペイン料理でもてなしたい」仮面男はパンパンと手を叩く。すると、ドアが開き一人の男が大きな皿をもってきた。テーブルに置かれた皿はスペインの国旗のように赤いソースがかかっていた。そこからスパイスの効いた良い香りが立ち込めてくる。

「さあ、お召し上がりください、ポルトガルの使者よ」仮面男に言われるがまま、七海は目の前に置かれたスプーンでそれを掬った。これもポルトガルを救うためだ、そう思い口に運んだ。

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