ポルトガルから来た女
Kitsuny_Story
第1話 はじまり
「おはよう!」
女主人はペンションのドアを開けると、誰もいない玄関に向かってそう叫んだ。外には雲一つない水色の空が広がっている。玄関のポストに朝刊を取りに出るとき、「おはよう!」と大きな独り言を叫ぶのは、この女主人の習慣だった。
女主人が経営するペンションの前には、一本道が走っていた。朝刊を取り出した女主人がふと道の方に目をやると、短い髪の若い女が一人で歩いていた。茶色い革のスーツケースを引いて、緑のブラウスに白いロングスカートという恰好だった。一目見て育ちの良い品の良さを感じずにはいられない。一本道をただ歩く姿も絵になっていた。
女主人もその姿にはじめ見惚れてしまっていた。ただ、よくよく観察すると若い女はとても疲れた表情をしていた。きっと長い時間歩いてきたのだろう。そう思い、女主人は若い女に声をかけた。
「おはよう!」その声に、若い女は立ち止まって女主人の方を見た。十代から二十代への境目を乗り越えようとしている女性特有の顔をしていた。未来への希望と不安が入り混じった黒い瞳を真っ直ぐ女主人に向ける。声を出さず、軽く会釈だけした。
「どこまで行くんだい?」一本道が走る方向を迷わず指さす。道は平原のずっと向こうの町まで続いている。きっとそこまで歩いていくのだろう。歩けば一日以上かかる距離だ。
「町まで行くんだったらバスに乗った方がいいよ」若い女はまた会釈だけした。そしてまたスーツケースを持って歩き出そうとする。
「あ、もしよかったら休憩していかないかい?朝ごはんができたところだから」女主人が慌ててそう言うと、若い女は安堵の表情を浮かべて「ありがとうございます。そう言っていただけて助かります」と言った。落ち着いた品の良い声だった。
こうして女主人はペンションのドアを開けて、見知らぬ若い女を迎え入れた。朝のコーヒーの香りと共に、新しい一日が始まった。
スクランブルエッグと粗挽きソーセージと野菜スープとパン、そして豆から挽いた熱いコーヒー。いつもと変わらぬペンションの朝ごはんを、若い女はフォークとナイフで行儀よく食べた。このペンションに泊まりに来る客たちはみな箸で食事をする。だが若い女は箸の方を見向きもせずに、フォークとナイフを女主人に要求した。味の感想も言わなかったが、どんどん口に運んでいた。食べる姿にも行儀良さと品が備わっていた。
「あんたどこから来たの?」女主人がコーヒーをすすりながら尋ねる。
「ポルトガルから来ました」食べるのを止めて、若い女は言った。もちろん口元をハンカチで隠しながら。
「あんた外国に住んでるんだね」女主人は妙に納得してしまう。ポルトガルが地球上のどこにあるかは知らない。顔つきはどう見ても日本人だ。けど、目の前の若い女には外国の高貴な貴族のごとく印象を抱かずにはいられなかった。
「ポルトガルからどうして北海道に来たの?」そう、ここは北海道。北海道のちょうど真ん中あたりの場所。ゆるやかな緑豊かな丘陵地がどこまでも続く場所。人がたくさん住んでいる町からはずっと離れた場所にある。その町と唯一つながっている一本道の傍らに、このペンションはあった。
「ちょっと訪ねたい場所がありまして」そう言って若い女は目を伏せた。
「そっか。地元の人間としてアドバイスをさせてもらうと、さっきも言ったけど町まで歩いていくのはやめた方がいい。きっと野宿することになる。だからバスに乗った方がいいよ」
「すいません、私バスというものを知らなくて」
「あ、ポルトガルにはバスがないんだね」
「私が住んでいるのが辺鄙な場所なだけです」恥ずかしそうに肩をすくめた。
「もしよかったら、私の甥に町まで案内させてもいいかな?ちょうど町に出て買い物に行かせようと思っていたからちょうどいい。バスに一緒に乗って、町まで行くだけ。そしたらあんたも助かるだろ?」
女主人からの突然の提案に若い女は戸惑ったが、断る理由もないのも事実だった。だから何も言わずに頷いた。
「よかった。あんたと同じぐらいの歳で東京の大学に通ってるんだけど、夏休みのときだけバイトとして預かってるんだ。今、上の天井部屋で寝てるから、起こしてくるよ」そう言って女主人は階段を上がっていく。若い女は一人になると、小さくため息をついて窓の外を見た。
しばらくして女主人の後ろから、一人の男が下りてきた。黒の長袖トレーナーに紺色のガーゴパンツという格好で、顔がほどよく日焼けしていた。
「こんにちは、酒井と言います」男は軽く頭を下げて挨拶した。
「はじめまして、七海と申します」女は立ち上がり深々とお辞儀をした。
お互いにしばらく見つめ合ったまま沈黙。
「あんたもコーヒーでいいかい?」女主人が酒井にそう言うと、気まずさから解放されたように酒井は体の向きを変えた。
七海は残りの朝ごはんを、酒井はコーヒーを、同じテーブルで何も話さずに口にしていた。二人の間に流れる気まずい空気を、女主人は微笑ましく見ていた。若い男女の初対面の気まずい空気が、北海道のペンションにやってきた。
バス停はペンションから五分ほど歩いたところにあった。バス停と分かる看板と、空白だらけの時刻表、そしてボロボロの木でできたベンチが置いてある。バスはあと三十分以上も来なかった。バスが来る時間をきちんと確認してくればよかったと酒井は後悔した。二人はベンチに離れて座った。周りはどこまでも続く一本道と、北海道の青空と、なだらかな緑の丘陵地しかなかった。とても静かな夏の北海道だった。
「七海さんが住んでるポルトガルってどんなところ?」酒井が口を開く。
七海は少し目線を上げて、「海に面した町です。そして七つの丘があります。七つの丘と海の間にたくさんの家があって、たくさんの人が住んでいます。大きな港があって、港の近くに王宮があります」と答えた。
「王宮があるの?」酒井は驚いて尋ねる。
「はい、リベイラ王宮と言います。町のシンボルです」
「そこには今も王様が住んでいるの?」
「はい、ジョアン四世という方が住んでいます。ただ…」七海の目線が地面の方に下がる。酒井は何も言わずに七海の言葉の続きを待った。
「ポルトガルは今、スペインから侵攻を受けようとしています」
「侵攻!?スペインがポルトガルを攻めようとているの?」
「はい、スペイン王フィリペ三世はポルトガルが欲しいのです。ポルトガルを手に入れれば大西洋への航路を独占できます。そして新大陸の砂糖や綿花を手中に収めることができます。ポルトガルの先人たちが切り開いてきたものが、すべてスペインに奪われてしまう」
酒井は国際情勢のことを全く知らなかった。今、ポルトガルはスペインと戦争開戦間近にあるなんて知らなかった。歴史の時間で習った大航海時代を切り開いたのがポルトガルだという知識ぐらいしかない。島国でのんびり生きてきた酒井にとって、隣国が攻めてくるなんて全くピンと来ない。とてつもなく遠い話で、とてつもなく昔の話に聞こえた。
「私は、ポルトガルを守るためにここにやってきました」突然、七海は酒井の方を向いて力強く言った。さっきまで開いて膝元に置かれていた両手は固く閉じられている。
「ま、守る?てっきり北海道に避難して来たのかと思ってた」七海の言葉に酒井は困惑し、そして言葉の勢いに圧倒された。
「ある場所に蛇がいます」七海はまた正面を向き、落ち着いた声に戻った。
「蛇?」
「ただの蛇ではありません。特別な力を持つ蛇です。その蛇は一度だけ人間の願いを叶えてくれるそうです。私はその蛇に会いにきました。会ってポルトガルをスペインから救ってもらいたいのです」
「その蛇の居場所は分かっているの?」まさかそんな蛇いるわけない…心の中でそう思いたい自分を、酒井は抑え込もうとしていた。非現実な話を信じたくなっている自分がいることに、酒井は驚いていた。凡庸な大学生活を送ってしまったせいだろうか、それとも七海という女性の非凡な存在感のせいだろうか、少なくとも酒井の目の前に新しい冒険の道が切り開かれようとしていることは間違いなかった。酒井はその道を歩きたくなっていた。
「はい、ここに描かれています」そう言って、七海はスーツケースの横のポケットから一枚の紙を広げる。それは地図だった。古地図と言った方がいいのだろう。手書きの細かい線が薄茶色の紙にいくつも引かれている。
「ここです。蛇はここにいます」七海が指さしたところには星マークがある。その星マークの周りには曲がりくねった線が引いてある。きっと川の流れを表しているのだろう。川が一番湾曲している頂点に星マークはあった。
「そして、私たちは今この辺りにいます」星マークから右下に目を落とすと、二本の直線が引かれている。酒井たちの目の前に走る一本道のことを描写していた。
「七海さんは、ここに行こうとしている」
「はい、ここの蛇に会いに行きます」
「僕も一緒に行っていいかな?どうせ暇だし、僕も蛇に会ってみたい」
「酒井さんがよろしいのであれば。すぐに会えるといいのですけど」
七海は一本道が走る方向へ目をやる。まだバスはやってこない。静かな壮大な景色だけが相変わらず続いていた。
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