第32話 Beyond the pain

 陸は、父親の仕事を手伝った後、帰宅の途についていた。

「全く、いくら息子ったって、学生にこんな遅くまで働かせやがって。ありゃ絶対にブラック企業になるな」

 遅い時間まで父親の工場でこき使われた陸は、愚痴りながら公園沿いを歩いていると視界に人影を捉えた。


「げ! 脅かすなよぉ ・・こんな時間に公園のベンチに座るかぁ。もう夜中だぜ ・・馬鹿ップルかぁ? いや、酔っ払いだな」

 家路を急ぐ陸は、足早に通り過ぎようとしたが、好奇心からかチラリと見てしまう。

「ん?」

 陸はその人影に見覚えがあったのだ。

「陽一?」

 ベンチに座る人影が陽一に似ていたため、確かめようと近づいた。


「ちょっと待てよ。こんな夜中にアイツ何やってんだ? まさか、橘が陽一のアレを何してる・・なんて事ないよな ・・アハ・・ハハハ」

 陸は、いやらしい妄想を抱きながら、足音を立てずに陽一の傍に歩み寄る。


「やっぱ陽一だ。一人みたいだな、ハハ」

 陽一だと確信した陸は、声を掛けようとしたが思いとどまる。陽一の様子がおかしいからだ。さっきまでのいかがわしい想像をしていた自分を反省しながら、静かに陽一の横に腰を下ろした。


「陽一 ・・どうした? 橘と喧嘩でもした?」

 虚ろな目で遠くを見つめる陽一の姿に、陸は事の深刻さが見て取れた。


「なぁ陸、俺ってホント、嫌になるほど弱い人間なんだ」

「なんで?」

「自分が言えない酷い言葉を、アイツに言わせた ・・どれだけ辛かった ・・だろう」


 そう告げた陽一の目から涙が溢れ出た。

 今までずっと我慢していた分、まるで留まる所を知らないように陽一の頬を濡らし続けた。

 陸はグッと唇を噛み締めた。何故なら、今まで一度も陽一の涙を見た事がなかったからだ。


「人間がさぁ、どんなに足掻いても、地球ってお構いなしに回り続けるだろ。明日は絶対にやって来る。だったらさ、俺達も前を向くしかないよな。今日言えなかったなら、明日言える人間になってればいいじゃん。明日、今日よりも、少し強くなっていれば、それでいいと思う って・・アハ、ごめん、俺こういう時、何て言葉を掛けたらいいか分かんねぇ。役立たずだよな」

「陸 ・・お前はいつでも俺のヒーローだよ ・・ありがとな」

「陽一・・」

「明日さぁ、荷物運ぶの手伝ってくれる?」

「ああ、親父から車借りてきてやるよ」

「あ・・りがと」

 必死で言葉を綴る陽一に、陸の胸は押しつぶされそうになった。


「アイツの居ない明日、俺はこの目に何を映すんだろう」

 そう告げると陽一は夜空を見上げた。その顔はまるで屍のようで、陸は思わず陽一の肩を抱いてしまう。


 直人の様子を見に来た宇道に、イタリアに行くと一言発した以外は、息をしている死人のように学校での一日を過ごすと、直人は家路を急いだ。

 陽一の帰宅を期待しながらも、恐らくそれは起こらないだろうと悟る自分もいた。


 家の玄関ドアを開けた直人は一瞬で感じ取った。陽一の匂い、声、そして愛おしい肌の感触、彼の全てが消え去った事を。

 それでも確認するために、2階へ駆け上ると彼が使っていた部屋の全ての引き出しを開け衣類を探す。次に下に駆け下り洗面所にある歯ブラシを探す。そして、キッチンでは彼が持ってきた調理器具を探した。だが、全てが空になっていた。

 脱力感に苛まれた直人の目に、数枚の紙がキッチン台に載っているのに気付く。それらは、陽一が書き記した直人にでも作れる簡単なレシピで、家の鍵と共に置いてあった。離れてもなお、直人の生活を気遣ってくれる陽一の優しさに、心が締め付けられた。そして、何気に開けた冷蔵庫のドア前でしゃがみ込んでしまう。

 冷凍冷蔵庫内は、陽一の手料理で一杯だったのだ。


「陽さん ・・なんで ・・僕あんな酷い事を言ったのに」


【迷惑なんです】

 今までの幸せな二人の時間をぶち壊した直人の一言。


 今日一日学校で我慢していた涙が滝のように溢れ出し息が出来なくなる。顔を手で涙を拭うとして指輪が目に入った。


【陽さん ・・指輪は?】

 

 そう、陽一は指輪を置いていかなかったのだ。それだけが、直人にとって唯一の救いとなる。

 捨てるはずがない、そう信じたかった。


 陽一はカフェでのバイトも辞めており、二人が別れて以降、一度も顔を合わす事は無かった。直人が陽一にぶつけた恐ろしい言葉を、陽一は真摯に受け止め、直人の生活と重ならないように、努力してくれていると思った。

 どんどん生気を失っていく直人の姿に、宇道は自身の行動が正しかったのか自問自答していたが、イタリアに行けばきっと大丈夫だと信じ月日は流れた。


「よぉ~ 橘」

 直人は陽一の居ない寂しい帰り道を歩いていると、誰かが家の前で自身の名を呼ぶ声に顔を上げた。

「竹ノ内先輩」

 あまりに懐かしいその姿に目に涙が溜まる。


「元気 ・・・・じゃなさそうだな」

「どうしてここに」

「この間、ウィンターの試合を夾と行ったらさ、後輩達からお前が来月イタリアに行くって聞いたから、激励に来た」

「あ・・ありがとうございます」

「まぁこんな姿だろうと思ったよ」

「外寒いので、中に入りますか?」

「いいのか?」

「はい ・・陽 ・・相澤先輩が居た時みたいに片付いてないですけど」

 陸は、少し痩せた直人の背中を見つめながら後に続いた。


「お前、ちゃんと食ってるか?」

「あ、まぁ。適当に。姉ちゃんが時々来てくれるので」

「そっか」

 陸が、直人の家に足を踏み入れるのは、陽一の荷物を運び出した日以来だった。あれから、半年程の月日が経ったが、陽一の居ない直人の家は、以前とは全く違う場所に感じた。

「お邪魔します」

「どうぞ。暖房入れますね」

「気にしないでいいぜ。俺、寒さには強いし」

 直人の虚無感が充満している室内で、陸は息苦しさを感じる。


 ダイニングテーブルに座る陸の前に、直人が温かいお茶を差し出した。

「すみません。陽さんが居ないので、お茶菓子ありません」

 直人は、久し振りに言葉にする陽一の名に声が震える。


「あのさ、多分、橘の事だから、自分の事を責めてるんじゃないかって思ってさ。せっかく留学するのに、そんな気の重いままで行って欲しくないし、それじゃ陽一も可哀想だからさ」


『陽一』

 直人の耳に愛おしい人の名が届く。


「だ・・大丈夫ですよ。僕は振ったほうですから。あの人気者を・・」

「だな。でもさ、これだけは言っておきたい。陽一は、自分が弱いから、橘に酷い役をやらせたって思ってる。自分が言えなかった事を橘に代弁させたって、自分を責めてるんだ」

「そんな・・僕の方が最低で ・・残酷で、恨まれて当然なのに」

「陽一は橘の事、微塵にもそんな風に思ってないぜ。お前、陽一に惚れてたくせに、アイツの事を知らな過ぎ。陽一から聞いたわけじゃないけど、それくらいは分かる。どんな風に陽一を振ったか知らないけど、陽一は橘を嫌いになんかならない」

「竹ノ内せん ・・ぱい」

 直人は今まで我慢していた涙を堪えきれなくなった。

「おいおい、俺は二人のハンカチじゃないんだけどな」

「え?」

「あ?  

 ・・多分、お前と別れた夜だろうな、陽一が公園のベンチに座っててさ。俺が見つけたのは夜中だったけど、随分長い時間あそこに居たんじゃないか? 次の日、身体中、蚊に刺された跡があったからな・・ハハ」

「陽さんが・・」

「初めて見たよ、陽一の涙。あんな姿の陽一を見た時、お前をぶん殴ってやろうと思ったぜ」

「・・・・」

「でもさ、次の朝、陽一を車で迎えに行ったら、手一杯の料理抱えててさ。一晩中、お前の事を思いながら料理つくって、腹くくったんだろうな、スッキリした顔してた。何があったか知らないけど、二人が簡単に出した結論じゃなかったって分かる」

「竹ノ内先輩 ・・これで良かったって、言ってください」

 直人は、幼子のように嗚咽しながら竹ノ内に訴えた。

「陽一は、あれ以来何も話さないし、良く知らない俺が軽はずみな事は言えない。でも、橘はイタリアに行くし、陽一も来月結婚する。二人がこれで良かったって信じるしかないだろ」

「・・結婚されるんですね」

「ああ、まぁでも、あんなに不幸せそうなカップル初めて見たけどな。マリッジブルーじゃなくて、マリッジブラックだぜ」

「・・なら、・・良かったです。親孝行が・・出来る」

「そう・・だな。橘、思い切り勉強して立派な画家になれ。それを陽一は望んでる。アイツに今あるのは、それだけだ。だから振り返るな。前へ進め。わかったな!」

 陸の激励が心の傷に沁みた。

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