悪ふざけの弊害。(NL)※下ネタ注意
俺は今、人生最大の窮地に立たされている。
「分かりますかねぇ?」
目を閉じたまま手元にあるグラスを割らない程度に握りしめる。アルコールを飲んだからではない変な汗がじっとりと額を伝っていくのが分かる。隣に座っていてもいつもは気にならないはずの後輩の視線すらも肩口に鋭く突き刺さってくるように感じた。
(なんで俺が…こんな目に遭わなきゃいけないんだ…!)
ほんの数分前のこと。
「これ、なんて名前でしたっけ?」
「さっき教えただろ、スカーレットオハラ」
「あぁそうそう、オハラさん!」
「人の名前みたいに言うな」
はじめての商談を成功させたことを祝して、俺の行きつけのバーに来ていた。行きつけといっても自分で見つけたわけじゃない。俺もはじめて商談を成功させたときに、先輩に教えてもらったいわゆる思い出の場所だ。
「カクテルの名前って面白いんですけど覚えられないですねぇ」
後輩は酒にあまり詳しくないらしかった。「もしかして酒そこまで強くない?」「俺が嬉しかったからって自分の後輩までバーに連れてきたのはよくなかったか?」と一瞬考えもしたが、店内に入るや否やわくわくした様子でマスターに話しかけに行ったのを見てその不安はすぐに吹き飛んだ。
「カクテルの名前くらい覚えておけー結構ためになるぞ?」
なかなか覚えられないせいか、ぷぅっとふくれっ面をする後輩に笑いながら言って、自分の目の前にあるウォッカアイスバーグを飲み干す。グラスの底から見える歪んだ後輩がふぐみたいに見えて吹き出してしまった。俺も多少は酔っているらしい。
「そう言う先輩はカクテルの名前知ってるんですか?」
水滴が付いた眼鏡のレンズを拭いていると、不意に後輩がこんなことを言った。パッと顔は上げたが彼女の表情は全くぼやけていて読み取れない。
「まぁここも結構通ってるからな…有名どころだったら大体分かるぞ?」
ようやく拭き終えて眼鏡をかけ直す。視界良好になったところで後輩がこんなことを言い出したのだ。
「じゃあやってみましょうか?」
(あんなこと言わなきゃよかった…!)
後悔先に立たずとはまさにこのこと。数分前の自分を酷く恨んでも意味がないことは分かってるが、せざるを得ないのが人間ってものだろう。
「もしかして知らないやつでした?」
「いや!知ってるよ!」
焦りすぎて速攻で新たな後悔を更新する。そう、知らないカクテルってわけじゃないことが問題なんだ。
(マスター…なんてもの出してくれるんだよ…!)
今、俺が飲まされたカクテルの名前は「オーガズム」
みなまで言うな、これが正式名称である。
ドランヴイをベースにカルーアコーヒーやアマレットで割って、生クリームと牛乳を入れたちゃんとした美味しいカクテルである。
しかしどうして、マスターはこのタイミングでこのカクテルを出してきたんだろうか。
後輩が男だったらまだいい。笑い話に出来るだろう。しかし今回連れてきている後輩は女性。上司からのセクハラが問題視されている昨今、こんな名前を口走ってしまえばせっかく彼女から勝ち取った信頼が一瞬にして無に帰されてしまう。
いっそのこと間違えてしまおうか?
しかし「カクテルの名前くらい覚えておけ」といった手前、下手に離れすぎたものを言うのはなんだか気が引けるし、もう長い付き合いになるマスターに一生いじられ続ける気がする。
じゃあこれに近い酒の名前を適当に言えばいいだろう。しかし酔いの回った脳みそが上手く働いてくれずに、似たようなカクテルの名前が一切出てこない。
「先輩大丈夫ですか…?」
少し心配そうな後輩の声。流石に待たせすぎてしまったかと我に返る。
「いや…大丈夫だよ」
唾をごくりと飲み込む。もうこれ以上後悔を後に立たせてもいられない。そもそもこれを用意したマスターが悪いんだから怯える必要なんて俺にはないはずだ。
ゆっくりと、バレないように深呼吸をひとつ。よしもう覚悟は出来た。
「オーガズム…だよな、マスター」
俺の一言で訪れる静寂。空調の音がやけに響いて聞こえる空間。
覚悟を決めたはずなのに。冷や汗が喉元を通るのを感じて俺は思わず口を開いた。
「いや、決してセクハラがしたいわけじゃなくて、本当にこういう名前なんだよ!マスターもなんでこれ出すかなぁ!名前くらい知ってるだろ!?」
言葉が脊髄反射状態。自分でも正直何言ってるか分からない。視界がぐらつくのは酔ってるせいじゃないだろう。そう自覚するといっそう目の前の景色がぐるぐると回った。体の重心がぐらりと揺れる。
その時だった。
「先輩」
聞いたこともないような声をかけられて肩を抱きとめられる。ぐらついていた視界でどうにか焦点を合わせると、これまた見たこともない後輩の顔。
「実は私このカクテルの名前知ってたんですよ」
「え?」
「先輩ってなかなか下ネタ言わないじゃないですか。他のおじさんたちは暇さえあればセクハラパワハラなのに」
いまいち状況も言葉も飲み込めずにただ体を預けていると不意に顎先に温もりが伝わる。あれ、これどうなってるんだ?
「だから逆に聞きたくなっちゃって」
「それってどういう…」
「先輩可愛いんだもんなぁ~カクテルの名前なんだからさっさと言っちゃえばいいのに」
「は…?」
「まぁそういうところが好きなんですけどねぇ」
その一言がチェイサーのように俺の思考をクリアにさせた。
「ちょっとまて、それってどういう」
慌てて体を引きはがして起き上がる。ズレ落ちていた眼鏡を上げると視界が再度良好になる。
「そういう意味ですよ」
目の前には口元を隠すようにして肘をついた彼女。爽やかな印象を与える長く綺麗なポ二ーテールがふわりと揺れる。
「まだまだ楽しませてくださいね、先輩」
そう言って微笑む後輩の姿に、俺はもう逃げられないことを悟った。
(暗転)
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