◆3 閑子鳥が泣く──カッコー!

 ──ハテ?

 爺さんのねぐらへ向かいかけた足に制動がかかった。考えてみると爺さんはまだ帰るはずはない。仕事中だ。どうやら時間を潰す必要が出てきた。どうしたものかと思案した結果、町内を散策して昔の風景を楽しんだあと、己が亭主のご帰還に合わせてアパートへ赴く決心をした。

 横断歩道の途中で振り返って、鳥の巣山方面を望む。亭主の仕事場が目に入った。ガソリンスタンド『メジロ石油』の前には、鷹鳥町を南北に貫く県道が走る。北は鳥の巣山から南は私鉄の東島さきしま鉄道の烏坂からすざか線と直行して、沿岸の国道と連絡する。全長約十キロメートル、二車線の目抜き通りである。通称『巣籠もり線』。烏坂線の乗客を烏に見立て、鷹鳥駅を降りた客の多くが、鳥の巣山方面へ向かうからである。

 排気ガスを容赦なくぶちまけ、烈風を起こしてご婦人方のスカートの裾を揺らしながら、ガソリン車が頻繁に行き交っている。

「Oh! モーレツ」

 小川ローサが乗り移った朱鷺の口から放たれた。

 突然クラクションが鳴り、右耳を襲った。信号が赤に変わったことに気づいて、回れ右で小走りに渡り切ると、仕方なく街なかを漂流し始める。

 しばらくぶらぶら歩き回った挙句、ふと上空を仰いだ。雲は去り、空の青地に古びた建物の輪郭がくっきりと姿を現した。戦前から軒を連ねる民家群の路地を抜けると、収穫をとうに済ませた枯れ色の田んぼが一面に広がる。畦道に立ち、遠くの山を望む。丁度、紅葉の盛りを迎えている。屈んで雨に濡れた雑草を掌で撫で、大きく息を吸い込むと、土のにおいが鼻腔を刺激し、昔の記憶を呼び覚ます。朱鷺はこの里山の景色を目に焼きつけようと思った。もう二度とお目にかかることはないのだ。この辺りは全てコンクリートの下に埋もれてしまう運命にある。近代化、利便性の名の下に開発の波が押し寄せ、地主たちは田畑でんぱたを手放し、いわゆる土地成金がひしめき合うことになる。今は農村と都市とが混在した過渡期なのだ。 

 朱鷺は鷹鳥町へ渡ってきた頃を思い起こした。

 朱鷺の里は、鷹鳥町と隣接する小鳩町である。平成の大合併の折、市に昇格した鷹鳥町に呑まれる運命にある極ちっぽけな町に過ぎない。外山家は、代々その地域を治めていた領主の家で、父の鷹は命がけで領民を守り抜いてきた気骨ある男であった。領民からの慕われようと言ったら尋常ではなかった。戦後は農地改革で田畑の殆どを接収され、外山家は衰退の一途を辿ったのだ。


 ──1975年、昭和50年11月8日土曜日……

 改めて今日という日の意味を噛み締めた。朱鷺が隣町から飛来し、この町で生活を始めて間もない日。出会い、そして別れの予感におののいた日でもある。

「ブンチョウ……」

 突然、朱鷺の脳裏に文鳥の顔が浮かんだ。外山家の次男坊、朱鷺の十一歳違いの弟である。来春、小学校に上がるはずの文鳥のことを思うと、朱鷺は胸が締め付けられてしょうがないのだ。今、文鳥はこの町で入院生活を余儀なくされている。


 頗る元気そうに見えた弟の体調に変化がもたらされたのは、ほんの一年前、昭和49年、長嶋引退の年だった。五歳にも満たぬ幼児に試練が訪れたのだ。

 10月24日の誕生日を間際に控えたある日の早朝、朝食の準備も一段落して皆を待っていたら、いの一番に食卓に着き、旺盛な食欲を覗かせるはずの文鳥だけが姿を見せない。待てど暮らせど一向に起きる気配がないので子供部屋に行って様子をうかがうと、布団にくるまって苦しそうに寝返りを打っていた。

 そっと文鳥の額に手をあてがう。熱があった。単なる風邪だろうと、早速お粥を用意してやり看病に当たったら、案の定、その日のうちに熱は引いたものだから、安心した。

 それ以来、頻繁に発熱を繰り返すようになった。が、朱鷺にも幼い時分に経験した子供特有の知恵熱の類だろうと左程心配しなかったのだ。ところが、二週間以上持続しても治まる気配を見せなくなったので、慌てて近くの医療機関を受診した。そこの医師から紹介状を渡され、大学病院へ回された結果、不治の病を宣告された。2045年の現代でこそ、治療法は確立され、患者の大半が命を落とさずともよくなった。が、当時はまだ、罹患は死を意味するものであった。突如、朱鷺の心は闇に襲われ、いかにもがき続けても一向に抜け出せはしなくなった。自分の命と引き換えに幼い弟を助けたい。その一念だけが心を支配する。

 あの時の発熱が、端緒だとは夢にも思わなかった。

 ──最初の時点で、対処してやっていたら……

 もっと良好な結果がもたらされたのではないか。朱鷺は悔いた。自分を責め続けた。70年の時が過ぎ去ったというのに、今尚、そんな感情に苛まれているのだ。

 朱鷺の頭の中を幼い文鳥の面影が支配してしまった。と、ふと気づく。

 ──この世界には、文鳥が生きている!

「会いてえ……」

 自ずと行先は定まった。親鳥がヒナの元へと帰るように朱鷺の足取りは速まる。寄り添って今直ぐ不安を拭い去ってやりたい。堪らず、文鳥の面影をギュッと抱き締めた。心は急いて増々加速の一途を辿った。

 突然、閑子かんこが目前に現れ、朱鷺の腕の中から文鳥をかっさらってゆく。足に急ブレーキがかかり、虚空に浮かび上がった閑子の顔を睨みつける。拳を握り締め、奥歯を噛み締めた。激しい歯ぎしりが鼓膜を襲う。姉弟に対する閑子の仕打ちに身が震えた。

 兄の葦雀よしきりは、昭和21年(1946年)、けたたましい産声と共に生を受けた。そのせいか、大らかな性格で豪快に笑う。朱鷺にとっては、いつも口やかましいところが玉に瑕だ。柔道三段の猛者である。この兄が何を血迷ったか、「身も心も鍛え直して戻る」と言い残し、三十路を前に鉄下駄を履いて旅に出た。一週間後の今年5月、嫁を連れて戻った。昭和20年(1945年)生まれの三十路、一つ年上の女、これが閑子である。

 爽やかな薫風を身にまとい、九州の片田舎から兄の嫁として外山家に入った閑子は、初めのうちはしおらしく振る舞い、猫を被っていたが、間もなく化けの皮は剥がされた。全ての実権を掌握するや、朱鷺を追い出しにかかったのだ。朱鷺のやることなすことにいちいち難癖をつけ始め、あからさまに疎んじられるようになった。体調の思わしくない文鳥の世話をする権限すらも剥奪される始末で、姉弟仲を引き裂きにかかった。仲睦まじい姉弟愛溢れる姿に嫉妬を抱いての暴挙だろう。

 一つ年上の女房はかねの草鞋で探すものと相場は決まってる。だったら、もうちょこっとはマシなオナゴと出会えたに違いない。

 ──よりによって鉄下駄で行脚とは!

 朱鷺は鉄下駄に八つ当たりした。

 父が昭和45年(1970年)、大阪万博の年に80歳で天寿を全うし、翌年、母、鶴も後を追うように45歳の若さで他界した。それ以来、外山家を切り盛りしてきたのは朱鷺だ。兄弟の面倒は朱鷺の役目だった。とりわけ、まだ幼い文鳥には愛情を注いできた。率先して母親代わりを努めてきたのだ。その最愛の弟の入院で、朱鷺の献身に拍車がかかる。己の全てを犠牲にすることも厭わず、世話をした。高校中退の決意を声高に宣言した途端、閑子が難癖をつけ始めた。 

「高校くらいは出ときんしゃい。もったいなか。あんたのためや。なんもかんも、なんとかしちゃる。あたしに任しときない。今更諦めるやて大概にしときやい」

「文鳥の面倒は誰が見るんや、オラしかいねえ! オラは肉親やど! あんたにとやかく言われる筋合いはねえやい!」

 執拗に口攻撃してくる兄嫁に、朱鷺も負けじと応戦する。

 このやり取りを皮切りに、何かにつけ、茶々を入れてくる閑子との言い争いは日常茶飯事となる。

 その日も閑子の口攻撃の照準は朱鷺にだけ向けられていた。

「逃げるとか! あんたは半端者の負け犬ばい! この根性なし!」

 嫌がらせは極まった。禽獣を確実に撃ち落とさん勢いで猟銃と化した口から放たれた無神経な言葉に、朱鷺は辟易すると、とうとう堪忍袋の緒は切れた。一旦、閑子に詰め寄ったが、矛先は二人のやり取りを涼しい顔で傍観していた兄に向いた。

「兄貴! よくもこんな毒婦を娶りやがったな、コノヤロー! オラ、お望み通り出てってやらあ!」

 売り言葉に買い言葉、朱鷺は吐き捨てるように言うと、実家を飛び出した。結局、十七歳の少女は、権力者に屈服するしかなかった。病の文鳥を残し、後ろ髪惹かれる思いでこの鷹鳥町へ飛来したというわけだ。

 家を出る直前、閑子からアパートの鍵とそこの簡易地図と住所が記されたメモを差し出され、「何と用意周到なこった!」とはらわたも煮えくり返す思いで苦々しくそれを引っさらって住み慣れた屋敷を後にした。こうして、カッコウはまんまと外山家乗っ取りに成功したのである。

 手配された鷹鳥町玉川地区にあるアパートで暮らし始める。生まれて初めて家族から離れ、孤独を味わった。悶々と時を送るうち、抑え切れなかった怒りの衝動を酷く後悔した。日々、文鳥への恋しさが募る。

「ハテ?」

 しかし数日経って、冷静さを取り戻すと、あることに気付いた。文鳥が入院している大学付属病院は、この鷹鳥町にあり、ここからのほうが隣町の実家よりも遥かに近い。烏坂線“鷹鳥駅”は、最寄りの“玉川駅”からほんのふた駅。目と鼻の先だから、いつでも会いに行って世話はできるでねえのさ万々歳、なーんて諸手を挙げて喜んだ。

 さっそく朱鷺は閑子の目を盗んで、くれぐれも鉢合わせしないように病院通いを始めた。


 あの当時を思い出すと、憤怒で血圧も最高潮を極めつつある。道すがら閑子の顔が脳裏を掠めると、重低音の呻き声を漏らしながら歩いた。

 そうこうしているうちに、病院の建物が正面に見えてきた。朱鷺の足は一層地べたを蹴り上げる。と、赤信号に行く手を阻まれ、足に急ブレーキがかかる。

 朱鷺は尚も「ウー!」と唸りながら、足踏みでやり過ごそうとした。傍から見れば、地団駄を踏んでいるとしか思えない──かもネ。けんど、そんなこたあ、知ったこっちゃねえやい、奥歯を食い縛って赤信号ごときと睨めっこを決め込んだ。けたたましく歯ぎしりが鳴り響き、最前列で鼻歌交じりの、見るからに安物の革ジャンを肩に引っかけたチンピラ風情のあんちゃんが振り向いて、怪訝な目ん玉を突き刺しやがった。視線が重なった。朱鷺は極限まで目を見開き、運慶作仁王像の形態模写にて威嚇する。途端にチンピラの肩がピクリと跳ね上がり、正面に向き直ると、鼻歌はやみ、後ろ姿が石仏になる。朱鷺は硬い背中に向かって、「ワン!」と念仏を唱えた。するってえと、信号も青に変わり、あんちゃんは、一目散に飛び出して人混みに紛れ、もう姿はない。一応、しめやかに拝んで無事の成仏を希わん。朱鷺もその後を追うように駆け足で目的地を目指した。

 病院に着いて玄関へ飛び込んだら、二階の病室へ突っ走った。

 病室の前で名札を確認して、しばらく佇んでから、そっとドアを押し開けた。小さく開けた隙間から中を見渡してみる。何の変哲もないありふれた個室に過ぎない。ベッドに視線を滑らせる。文鳥が寝ていた。シーツに包まった胸辺りが小さく上下する。確かに息衝いていた。朱鷺の目頭が熱くなると、次から次に雫が零れたかと思ったら、瀑布となって頬を濡らした。

  誰かの足音が聞こえ、咄嗟に朱鷺はその場を離れた。廊下の突き当りに隠れ、病室をうかがった。

 ──閑子だ!

 閑子がやって来てドアを開けると、吸い込まれるように中へ入った。

 目の前の光景に朱鷺の胸は騒めき始めた。文鳥が苛められはしまいか、嫌な思いをしているのではないか、と心中穏やかではなくなった。気が気ではない朱鷺の足は勝手に動き出し、病室のドアの前まで来ると、耳をドアに当て中の様子をうかがってみた。

 何も聞こえない。息を殺し、上半身ごとドアに張りついて耳をそばだて微細振動をも聞き逃すまじと、全神経を耳に集中する。「フフフ」と辛うじて誰かの、閑子か文鳥の二人のどちらかだろうが、笑い声が聞こえた。一層耳を澄ます。閑子が発した声に違いない。そう確信すると、最早、朱鷺の耳には、山姥か鬼婆の奇声にしか聞こえない。今にも文鳥を取って食おうなどと目論んでいるとしか思えなくなった。

 ドアノブを握り締めていた右手が回る。静かにドアが開いた。小さな隙間から左目で中を覗く。もし、文鳥に危害でも加えていようものなら……朱鷺は飛びかかる準備を怠らなかった。覚悟を決め、ベッドの方向を凝視した。

 閑子はベッドの縁に腰を下ろし、文鳥の上半身を羽交い絞めにして……食ってはいなかった。抱き締められた文鳥は閑子の胸に顔を埋めて甘えていた。その顔は穏やかで愛らしく幸せそのものだった。閑子も文鳥の頭に頬ずりしたり、手で頭を撫でたりしながら口元に穏やかな笑みをたたえていた。意外にも二人は仲睦まじい姿を朱鷺に見せつけてきたではないか。

 ──どういうこった!

 目撃した光景に朱鷺は憤慨する。てっきり閑子は文鳥を己が手に乗せ、握り潰さんとしているものと思っていた。

 ──底知れぬ力が働いて、時空の歪みが生じ、歴史を改変してしまったのか?

 朱鷺は狼狽えた。目玉が激しく四方八方に転がって視点が定まらない。目が回りそうだ。

 ──いや、閑子のことだ、ナニか企んでいるに違いねえ!

 文鳥を手懐けた挙句……

 ──托卵か!

 外山家の完全乗っ取りにかかるつもりなのだ。己の子孫のみを繁栄させる魂胆だ。生存競争に勝ち誇った閑子のしたり顔が、目の前に忌々しく浮かび上がる。 

 と、突然、閑子が立ち上がった。朱鷺の目はようやく一点を注視した。閑子という名の魔物のみに。 

 閑子がやって来る。朱鷺は咄嗟に後ずさり、逃亡をはかった。

 廊下の突き当りに隠れ、様子をうかがう。ヤツは病室を出ると、朱鷺とは逆方向へ遠ざかり、階段を下りて行った。

 朱鷺は、また病室の前まで来ると、閑子が消えた隙に、中へ忍び込んで文鳥に声をかけた。

「やあ、具合はどうだい?」

 文鳥は首を捻りながらキョトンとした顔を向ける。

 朱鷺はさっきまで閑子が座っていた椅子を横取りして尻を落ち着けた。

「おばあさん……だあれ?」

「ナニ言ってんだい。オメエの……」

 姉、だなんて言えるわけなかった。「ええっと……ナンだな……文ちゃんの応援団みてえなもんだ」

「おうえんだん……?」

「そうだ、文ちゃんが早く元気になるように応援してんだよ」

「へへへ……ありがとう」

 文鳥が笑うと、朱鷺の心にも日が射した。その愛らしい顔は相変わらず天使そのものだ。

「ところで、さっきまで、ここにいた女の人だがよ……」

 それとなく探りを入れてみる。

「閑子ママのこと?」

「──ママ……?」

「うん。本当のママじゃないよ。にいちゃんのお嫁さんだから。でもね、ぼくにはママなんていないから、ママって呼んでもいいよって……」

 ──ナンだとコノヤロー!

 朱鷺は心の中で閑子を罵倒しながら延髄切りを食らわせた。

 魂胆は見え見えだ。やはり、托卵して外山家を滅ぼそうとでも企てているのだ。今、意地の悪い閑子の面が、デカデカと目の前に塞がった。

目を瞑り、頭を激しく横に振ってイヤイヤをして脳ミソからその盗人面を弾き飛ばした。

「あの人は……よくしてくれるのかねえ?」

 疑惑の目を文鳥に向ける。

「本物のママってあんなに優しいのかなあ……」

 文鳥は遠くを見る目つきで朱鷺に問いかける。

 そんな風に訊かれても朱鷺には答えようがない。まさか、「ヤツはオメエの仇なんだ、目を覚ませ!」なんて事実を告げるわけにもいくまい。病人を困惑させても可愛そうだ。もし、病状が悪化でもして取り返しのつかぬ事態に陥っても困る。ここはぐっと堪えて、文鳥に笑いかけた。

「──ナニか欲しいもんでもあっか? オラが持って来てやろうか?」

「ううん。ありがとう、おばあさん。どうしてそんなに優しくしてくれるの?」

「言ったでねえか、文ちゃんの応援団だって。ヘヘヘ……」

「ヘヘヘ……」

 愛おしい弟が笑った。朱鷺の胸は張り裂けそうになる。いつまでもこの笑顔を見ていたいと思った。そう思い始めると、金縛りにあったようにその場から動けなくなってしまった。

 朱鷺の耳が物音を捉えた。音のほうを見ると、ドアが開き、あの魔物が中へ入って来た。たちまち朱鷺の胸は激しく打ち始める。憎悪で一層張り裂けそうになる。歯を食い縛り、拳をギュッと握り締めた。ガタガタと上下の入れ歯が鳴った。

「あら、どちら様……かしら?」

 カッコウが近づきながら愛想笑いで威嚇する。

 朱鷺は増々身動きが叶わなくなった。顎も強張って口も聞けない。

「ママ。ぼくの応援団だって。早く元気になってねって……」

 文鳥の可愛い囀りに朱鷺は我に返る。ぎこちなく強張った首を回して閑子に顔を向ける。

「──ちょっくら……お見舞いに。オラにも昔、この子ぐれえの病気の弟がいたもんで……」

「優しいおばあさんなんだよ」

「まあ、それはそれは、ご親切に……ありがとうございます」

 閑子は深々と頭を下げる。

 仇に頭を下げられる筋合いはないが、悪い気はしなかった。

「あたしゃ、これで……」

 朱鷺は立ち上がり、文鳥の顔を覗き込む。「文ちゃん、オラ、祈ってるよ。いつも祈ってるからね。早く元気になるんだよ」

「おばあさん、もう帰っちゃうの? せっかくお友達になったのに……つまんないな」

 文鳥の声を背に受けながら重い足を強引に引きずるように進んでドアを開けると、魂はその場に置き去りにしたまま外へ出た。70年振りに弟と再会できた喜びに感極まって涙が溢れる。病室のドアを何度も振り返りながら廊下を歩いて休憩室のテーブルの前に腰を下ろした。

「そんなはずはねえ!」

 しばらくしてまた怒りが込み上げてくる。「あんな女が文鳥を可愛がるはずがねえ。オラに辛く当たった、血も涙もねえ女が……ママ……だと。ふざけるんでねえ!」

 朱鷺は思わず立ち上がった。もう一度文鳥の病室へ足を向ける。休憩室を出て右に折れ、突き当りを左に進もうとした途端、病室のドアが開いて中から出て来る閑子の姿を認めた。朱鷺は慌ててトイレに飛び込み、身を隠す。閑子が通り過ぎたらその後を追った。

 閑子は休憩室に入り、直ぐに腰を下ろした。手にしていた封筒らしき物をテーブルに置いてペンを握ると、何やら記している。朱鷺は70年目の恨みを晴らすべく背後からそっと近づいた。

 気配を感じ取ったのか、閑子は急に振り返り、朱鷺と気づいて笑いながら会釈した。朱鷺もついついぎこちなく敵に首を折る羽目になった。何とも気まずい空気が二人の間に、いや、朱鷺の側だけに流れ出す。

「──ナニを書いて……ますかな?」

 手持ち無沙汰から問いかけてしまった。

「あっ、これですか。妹への仕送りなんです」

 現金封筒を軽く持ち上げる。

「──妹さんが……いらっしゃる?」

「はい、主人の妹なんです。先日、実家を離れましてね、一人暮らしを始めたばかりなんです。定時制高校に通っておりますの。少しでも負担を軽くしてあげたくて……。私もあまり余裕はないんですが、精一杯のことをしてやりたいんです」

 封筒の宛名には朱鷺の名が記してあった。

「それは、あんちゃん……いや、あなたのご主人から頼まれたんで?」

「いいえ、主人には内緒なんです。主人ときたら、『トキは……』あっ、トキちゃんって言うんです。『トキはそんじょそこらの娘とはわけが違う。どんな男どもより、逞しく世を渡って行けるさ。ほっといたってしっかり生き抜くだろうよ。大したヤツだぜ、まったくよお』なんて、全然取り合っちゃくれませんからね。呆れますわね。たとえ、そだとしても、世の中、何が起こるか分かりませんからね。いざという時の杖は必要ですよ。そこんところ、全然分かろうともしないんですもの。荷物にはならないでしょ。これっぽっちの少額な支援で、トキちゃんには申し訳ないんですけど……フフフ」

 ──カッコウが何かしゃべったぞ。

 朱鷺には理解不能だ。脳ミソは思考を停止した。何がどうなって何としたというんだ。あれ程自分を嫌っていた女が、こんな思いやりを見せるなんて信じられるわけがない。常に鬼の面を突きつけ、朱鷺を威嚇してきた、あの兄嫁が……。

 朱鷺の体は硬直して目は閑子の両眼を凝視した。奥深くへ忍んで本性を暴き出してやるのだ。しかし、見つめれば見つめるほどその眼光にはね返されるようで、己が目玉は四方八方へクルクル回り出し、視点が定まらぬ。最早喉も塞がって言葉が循環できない。増々身は強張った。自分はただの石ころだ。「石ころになれ」と念じた。朱鷺の心情を察知してくれたのか、場の空気も淀み、二人を隔てた空間は凍りつくように沈黙が続いた。 

「──あのう……もしもし。大丈夫ですか?」

 朱鷺の鼓膜をカッコウが突っついた。突然、我に返り、閑子の顔から少しだけ視線をずらす。

「餞別が……」

「何ですの?」

「い、いやね……あの子が、トキちゃんとやらが、家を出て行く時……餞別でも渡しましたかね?」

「はい」

「お姉さんの独断ですかね?」

「そのとおりです」

 ──兄貴でねえってか……オラてっきり……

「──あの子のことは……どのように?」

 おずおずと口籠るように訊いてみる。  

「文鳥……ですか?」

「え、ええ……義理の弟さん……ですわいね」

「我が子同然に思っておりますの。出会った時からあの子とは馬が合いましてね。最初っから私のことをまるで母親にでも接するように。多分、母の愛情に飢えてたんでしょうね。その子が病気になって……まだあんなに小さいのに……何とか治してあげたい。私の寿命と引き換えにしてでも……」

 閑子は突然肩を震わせ始めた。涙が止め処なく零れ落ちるのを朱鷺の目は捉えた。

 カッコウの一撃に腰を圧し折られた朱鷺は、力なく椅子に尻を吸いつかせた。対決姿勢で伸びた背筋もぐったり丸まった。膝の上でも十指が勝手気ままにモジョモジョと指遊びに興じ出すが、その行為と意識が完全に剥離してしまっていた。殆ど「ここはどこ? わたしはダレ?」の世界だ。と、改めて隣に閑子の気配を察知する。ゆっくりとその方向を見る。閑子はハンカチで目頭を押さえ鼻をすすった。

 その様子に、今の閑子の言葉に嘘はないと直感しつつも、まだ、どうしても自分に対しての理不尽な仕打ちは解せない。朱鷺と閑子の関係を本人の口から直接聞く必要がありそうだ。真実を詳らかにせねば埒はあかない。いっとき思案したが、朱鷺は腹を括った。

「その……義理の妹さんとの関係は……良好ですかいな? 妹さんのこと……どげなふうに……思っておられるかいな?」

 朱鷺は思い切った。言葉はぎこちなかったものの、朱鷺と閑子、種の、もとい、習性の壁を乗り越えて、無事、両者間の意思疎通は叶ったようだ。閑子は穏やかな表情で義妹、トキへの思いを語り始めた。

「トキちゃんを見ていると、昔の自分を思い出してしまって……まるで同じなんですもの……」

 閑子は母一人子一人の母子家庭で育った。父親は昭和二十年、終戦間際に戦死して、その顔も知らない。閑子が十五歳になったばかりの春、母親が病に臥せってしまった。看取るまでの十数年間、その介護を閑子が一人でこなした。そんな苦労をしてきた自分と献身的に文鳥の世話をするトキを重ねてしまったのだ。

「──そんなご苦労を……」

 朱鷺は初めて閑子の生い立ちを知った。しみじみと同情のトーンの声が漏れ出る。

「高校進学も断念させてしまった。お前から何もかも奪い取った薄情な母をどうか許しておくれ……なんて涙ながらに詫びるんですよ、娘に。子供にとっては、母親のそんな姿が悲しくて堪りませんでした。親の世話するのは何てことはないのに。だけど親にとってみれば、不甲斐ないことだったんですね。さぞ辛かったろう、無念だったろう、そうに違いありません」

 閑子は薄ら涙を浮かべながら続けた。

 トキの余りにも自己犠牲的な献身ぶりを目の当たりにして、このまま放置しておくべきか否か自問したと言う。自分と同じ道を歩ませるのは、トキの死んだ母親にとっては忍びないのではないか。最愛の肉親のためだから、自分もそうだったように、何ものをも厭わないことは分かっている。だが、トキはまだ若い。青春を謳歌する権利がある。それをも犠牲にするのは酷だ。人は自分の人生を歩まなければならない。考えあぐねた挙句、閑子は心を鬼にした。トキに巣立ちを促してやるべきだと決心したのだ。

 朱鷺は初めて閑子の優しい心根を知った。自分を嫌っていたわけでもなく、ましてや、嫌がらせなどとの考えは微塵もなかった。それは全て朱鷺の誤解だった。未熟ゆえの自分勝手な心得違いだった。考えてみれば、あの時の兄嫁の厳しさに触れなければ、十七歳の青春も知らなかっただろうし、己が恋の成就も当然叶わなかったはずだ。今の幸せは訪れなかったということだ。全て閑子のお陰だった。朱鷺は改めて閑子に感謝の眼差しを向けた。胸底から込み上げてくる熱いものが視界を遮って閑子の顔が歪んで見えた。そっと俯いて瞼を拭う。一旦、言葉にしてしまうと、嗚咽が漏れ出てしまうから、ぐっと堪えて唾液を呑み込み、喉のつかえを胃の腑に落とし込む。

「あらっ、もうこんな時間。郵便局閉まっちゃうわ。おばあさん、私、これで失礼しますわね、ごめんなさい」

 閑子は慌てて立つと、朱鷺に軽く会釈して休憩室を小走りに出て行った。

 朱鷺は休憩室の出入口を見つめた。目に焼きついた閑子の後ろ姿が浮かぶ。

 今、無性に閑子への感謝の気持ちを伝えたい衝動に駆られた。

 ──ハテ、どうしたものか?

 頭を巡らせるうちにひとつのアイデアを思いついた。

「手紙を書こう!」

 朱鷺の足は既に行動を起こした。

 ──文房具店で封筒と便せんを買って……

「金がねえやい!」

 文無しだと直ぐに気づいた。しかし、よく考えれば、所持していたとしても未来の通貨なぞこの時代には通用しないのだった。思わずデコちんを平手打ちする。ピシャリといい音がした。

 その場で地団駄を踏みながら、ポケットを弄る。指は何かを探り当てた。摘まみ出して目線に掲げると、常時携帯しているメモ帳だった。挟んであったボールペンを握って再び休憩室へと戻る。

 腰かけ、早速、テーブルにメモ帳を開いた。

 こんな小さな紙切れだ。簡潔にまとめることに注意を払いつつ70年分の思いの丈をペンに乗せる。

 書き終えた朱鷺に新たな試練が立ちはだかった。 

 ──いかにして渡すべきゾナ?

 気づかれてしまえば、企ては水の泡だ。あくまでトキ(この時代の自分)の仕業に見せなければ。朱鷺の思考回路を容赦なく難題が襲う。

 第一の案。そっとハンドバッグに忍ばせる。しかし、他の物に紛れて気づいてもらえない可能性がある。却下だ。

 第二の案。閑子の足元にメモを放って、拾い上げ、「おねえさんおねえさん、落としましたよ。こりゃ、なんじゃらほい?」白々しい。芸がない。

 ──相手に気づかれことなく、しかも直ぐに気づかれる方法……

 朱鷺の頭の中を禅問答のような思考が駆け巡る。が、一向に解答は得られなかった。

「ええいっ! しゃらくせー!」

 朱鷺は考えるのをやめにして、行き当たりばったりという方策に切り替えた。「ま、どうにかなるわいな」

 閑子が戻ってくる頃合いを見計らってもう一度病室へ赴いた。丁度、閑子が病室のドアを押し開け、中に入る瞬間に出くわした。

 深呼吸を繰り返して、抜き足差し足で廊下を行き、ドアを静かに開ける。そっとベッドのほうを覗くと、閑子は床に跪いて文鳥の足元のシーツを捲って何かしていた。いっときしてシーツを元通りかけ直して立ち上がると、右手に握っていたものに蓋をした。

 ──口紅……でねえか……

 閑子は口紅をエプロンのポケットに入れた。

「そうだ!」

 いきなり名案が湧いて、禅問答に決着をつけた。

 すたすたと閑子が近寄ってきた。朱鷺は慌ててドアを閉め、その場を離れかけたものの、間に合わず、閑子と鉢合わせしてしまった。

「あらっ!」

 閑子は少し驚いたように目を丸くしてから微笑んだ。

「いやー、もう一度、文ちゃんの顔見てからお暇しようかとおもいまして……」

 慌てて取り繕う。

「そうですの。でも、すっかり眠ってしまいましたのよ」

「そうですか。それじゃ、可愛い寝顔に挨拶してから……」

 朱鷺は小声で言う。

「フフフ……どうぞ」

 閑子も呟くように中へ促してくれた。

 と、閑子が目線を朱鷺からベッドのほうへ移した瞬間、左手の人差し指と中指で挟んだメモをエプロンの左のポケットに落とした。メモは無事、朱鷺の思惑通りの場所を占拠した。己の策謀に満足した朱鷺は促されるまま中へ入った。

 閑子は朱鷺と入れ替わりに病室を出て行った。

 文鳥を起こさぬように静かにベッドに近づく。ベッドの横に立ち、顔を覗くと、弟は穏やかな寝息を立てていた。朱鷺は食い入るようにその顔を目に焼きつける。

 ──ハテ?

 さっきの閑子の行動が気にかかる。布団を捲って何をしていたのか。徐にベッドの後方へ移動すると、そっと布団を持ち上げてみた。文鳥の素足が覗いただけた。変わったことは何もなかった。が、確かに閑子の右手は、もぞもぞやっていた。朱鷺は首を捻りながら、丹念に観察を続けた。ふと、朱鷺の左目の端に朱色の印が過ぎった。顔もろともそちらに視線を向ける。

 それを目にした朱鷺の心臓は凍りついた。

「鴻之助!」

 思わず叫んで咄嗟に手で口を塞ぐ。幸いに文鳥は目を覚ますことはなかった。

 文鳥の右足の裏に描かれた紋様が鴻之助の右足の裏の痣と似ていたのだ。いや、瓜二つだ。形といい、サイズといい、ほぼ一致しているではないか。

 ──どういうこった?

  この時代に、鴻之助はまだ生を受けてはいない。だから、閑子が痣を目にすることなどあり得ない。しかし、全く同じものを描いていた。この事実をどう捉えるべきか、朱鷺には皆目理解不能だ。単なる偶然に過ぎないのか。

 脳裏にとある光景が浮かび上がった。それは、長男、 鴻之助が生まれて、実家での初めてのお披露目の席でのことだ。閑子が鴻之助の足に頬ずりしながら泣き叫んだ。訳の分からぬことを喚いていた。言葉の端々に「文鳥」とか「会いたかった」といった声を朱鷺の耳は拾った。その時は、何とも悍ましい姿を目の当たりにして背筋が凍りついたのを昨日のように覚えている。

 幸い、どういうわけか、閑子は我が子でもない鴻之助を、いわば敵の子を溺愛してくれた。未だに気にかけてくれているのだ。朱鷺はいつも苦々しくその様子を眺めながら、人には相性という人知の及ばぬ関係が確かにあるものだ、とつくづく感じ入った次第である。

「それにしても、全く同じ形とは……」

 不意にドアが開く音がして、そちらに目を向ける。閑子が入ってきた。

 朱鷺の傍まで歩み寄り、剥き出しになった文鳥の足元に視線を落とすと、はだけたシーツを優しくかけ直してやる。そして朱鷺に微笑みながら語り始めた。

「文ちゃんが、早く治りますようにって、願掛けみたいなものなんです。薬師如来を模って。気休めに過ぎないかもしれません。でも、神仏に縋ってでも治してやりたい……」

 閑子はベッドの縁に両手をつくと瞳から大粒の涙を零した。

 朱鷺はハッとして閑子の背を見つめる。思わず丸まった背に手を置いて擦っていた。

「ありがとうございます。泣いてなんかいられませんよね。私がしっかりしないと、この子を守ってあげないと……」

 閑子は姿勢を正すと、手で涙を拭って気丈にも朱鷺に笑顔を見せた。

 朱鷺はしみじみと頷いてやる。と、彼女の手を取って固く握り締めた。

「ありがとう。お義姉さん……」

 声高に感謝を言葉で示したかった。が、口の中で辛うじて舌が蠢くのが精一杯で言葉にはならず、決して相手に伝わることはなかった。

「見ず知らずの私たちのために、ありがとうございます、おばあさま……」

 閑子も手を握り返してきた。

 70年の時を隔てて、ようやく二人のわだかまりは解け、和解が成立した瞬間だった。

 どちらからともなく結んだ手を解くと、朱鷺は暇乞いを言って踵を返した。閑子に背を向けた途端、目が霞み、涙は瀑布となって零れ落ちた。一歩ずつ噛み締めるように病室を歩んで、一旦、ドアの前で立ち止まった。ブラウスの袖で顔を拭うと、ひらりと向き直り、満面の笑みを見せ、閑子に手を振った。閑子も同じように手を振ってくれる。その顔は、朱鷺の巣立ちの日に見せた鬼の形相ではなく、まさしく観音様のそれだった。これが本来の姿なのだ。朱鷺はその柔和な微笑みを目に焼きつけると、もう一度くるりと踵を返して、ドアを開け、病室を出た。が、足が床に張り付いて、その場から動けなくなった。しゃくり上げながら、顔に手をあてがって高鳴る鼓動を抑えた。

 しばらくして、中から二人の声が漏れてくる。と、閑子の足音が向かってきたので、咄嗟にその場から離れた。

 閑子は病室を出ると、エプロンの両のポケットに手を突っ込んで廊下を歩いた。左手が紙切れを探り当て、二つ折りになったメモを開くと、読み始めた。すると、たちまち口を両手で覆って嗚咽する。仕舞いには誰に憚ることなく泣きじゃくってしまった。

 廊下の一角で閑子に両手を合わせつつ深々と頭を垂れ、感謝した。顔を上げると逆方向へ進み、階段を下りる。


『 親愛なるおねえさんへ

 お餞別、ありがとうございます。おねえさんのお心遣い、大切に使わせてもらいます。

 文鳥のこと、頼みます。優しい母親ができて弟も幸せです。

 よくぞ私の巣立ちを促してくれました。無事、大空へと羽ばたくことができました。

 全部全部、おねえさんのお陰です。今、感謝の気持ちでいっぱいです。いつか必ずご恩に報いたい。

 おねえさんも、くれぐれも無理をせず、いつまでも元気でいてください。

                        朱鷺 』


 朱鷺は病院の敷地を出て、一旦振り返った。コンクリート造の鼠色の重厚な建物に向かって深々とお辞儀すると、みどり公園へ足を運んだ。

 長くたなびく影を引き連れて、正面に西日を受けながら、てくてくと歩いた。眩しくて目を細め、瞬きした一瞬、瞼の裏に二つの紋様が重なって見えた。文鳥の右足の裏に閑子が口紅で描いた図と、長男、鴻之助の痣が。ただの偶然に過ぎぬと思いつつも、瓜二つの形に朱鷺の心は騒めいた。一方は人為的、他方は先天的に備わったもの。これ程まで似通うなんて、いや、似てるなんてもんじゃない。同一のものだ。偶然で片付けてよいものか。いかに解釈すべきか、朱鷺の頭は混乱するばかりだった。

 つらつらとそんなことを思いながらいつの間にか公園の入り口まで辿り着いた。中へ入り、70年来利用してきた大銀杏下のベンチへ向かった。

 ベンチに腰を落ち着けると、大銀杏の葉擦れが耳に心地いい。思い切り伸びをすると、紅葉した葉群れの隙間を縫って、柔らかな秋の木漏れ日が暖かい。ついまどろみを誘った。そのままベンチに倒れ込み目を瞑る。

「トキや。おい、トキ!」

 背後から呼ばれ、目を開けて振り返る。が、誰もいない。

 ──誰だ?

 どこか聞き覚えのある声だ。耳に優しいトーンの余韻がいつまでも胸底をくすぐった。

 朱鷺は立ち上がり、体ごとベンチ後方へ向き直った。大銀杏が立ちはだかるばかりで、人の気配もない。

「こっちだよ……」

 今度は遠くのほうからまた聞こえた。

 声のしたほうへ園内の砂利道を移動してみる。そしたら、木霊のように声は鳴り響く。朱鷺は声に導かれながら無心に歩いた。

 ふと気づくと、暗がりの先に水音が聞こえる。川のせせらぎのような……。園内に川など流れてはいないはずなのに。心急かされ足を速める。と、突然、辺りが開け、光が射し始めた。前方には一面に花畑が広がっていた。色とりどりの無数の花が地平線の彼方まで咲き誇っていた。そこに足を踏み入れると、何とも穏やかな気分になり、身も心も癒されるようだ。ふと前方で誰かが手を振っている。朱鷺は一目散にそこを目指した。そしたら、急に小川が現れ、花畑を貫いていた。川の向こう側でその人物は手を振り続ける。

「あんた、ダレー?」

 朱鷺も手を振り返して問いかける。

「トキよ、トキ。オラだ」

「分かんねえ。もうちょこっと、こっちゃこいやー!」

 相手はトボトボと歩いて向こう岸の手前で立ち止まった。

「トキ、久しぶりだな」

「あれま、お袋さんでねえか!」

「おめえ、相変わらず元気そうだな」

「ああ、オラ、すこぶる元気よ」

「そりゃあ、何よりだ。まあ、知ってたがよ」

「待ってろ、そっちゃ行くから」

「バカか、おめえ。死にてえのか?」

「なして?」

「おめえは渡れねえ。渡っちゃなんねえ。おめえはまだまだ先だ」

「どういう意味だ?」

「そういう意味だ」

「そういう意味か?」

「そういう意味だ」

「ふーん、ここは三途の川か?」

「そういうこった」

「そしたら、オラ、なんでこんな所にいるんだ?」

「オラが、おめえの疑問に答えてやるためさ。おめえの悩みを聞いてやんのさ。わざわざ、あっちからきてやったんだ、ありがたく思いな。さあ、言ってみんしゃい。なんでも聞いてやっから」

「んー? 思いつかねえ」

「おめえ、さっきまでグダグダ考えてたでねえか。思い出せ」

「んー? あっ! 文鳥だがよ。そっちで元気してっか?」

「オラ、知らねえ」

「なして? そっちで一緒じゃねえのか?」

「こっちには、いねえよ」

「いねえ……? なして?」

「いねえもんは、いねえ」

「どこにいるんだ? てっきりお袋さんの傍だとばかり……」

「いっつもおめえの近くにいるでねえのさ、このアンポンタン! 思い出してみな」

「ん、ん、ん?」

「さっき、おめえ、あーたらこーたら、自問自答してたでねえか」

「文鳥がアレで、アレがああなって閑子が泣いて、鴻之助ってことか?」

「そういうこった」

「そういうことか?」

「そういうこった」

「そういうことか……」

「そういうこった!」

「なるほど、そういうことでええのか」

「まあ、だから心配はいらねえ。安心しな」

「分かった」

「分かったなら、オラ用済みだな。さて、帰るとすっか」

「どこに帰るんだ?」

「バカか、決まってんでねえか。おめえもきたいてっか?」

「オラも連れてってくれるのか?」

「それは無理だな」

「なして?」

「閻魔様に訊いても予定表には入ってねえ。おめえは当分なさそうだ。死ぬまで生きな」

「まあ、そうする。お袋さんよ。今度いつ会えるんだ?」

「おめえ、いっぺん死んでみっか? おめえとは死ぬまで会えねえんだ。おめえは一生生きるんだ。しぶといヤロウだぜ、まったくよー」

「そうか……そんじゃ、お袋さんも元気で死んでろや。オラも死ぬの楽しみに生きてっからよ。死ぬまでのご無沙汰だな」

「そういうこった。じゃあ、アバヨ」

 そう言い残して踵を返した鶴の背中を、朱鷺はいつまでも見送った。



                     

 †††「九太郎参上!」††† 


判定:ステージ0クリア


 見事な旅立ちだったぜホーホケキョ!

 飛べ、朱鷺よ!


                《旅立ち編 制覇》      

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