◆0 むれず かたらず いきるのみ──プレイヤーは準備段階!
【2045年11月8日水曜日】
飲む?
打つ?
買う?
*
今日、初七日の法要も済ませた。
親類縁者、皆去った。
高台に建つ、築60年の木造二階建て、純日本家屋の庭から望む街並みに、街路樹の
天を仰げば、澄み渡った高い青空が鮮やかすぎて腹立たしい。腹の底から叫びたくなる衝動を抑えて、その場に腰を下ろした。ひんやりとした土の感触が、臀部から脊髄を上って頭頂へ突き抜けた。思わず膝を抱え背を丸めた。
60年、この街の変わりようを、この場所から共に眺めてきた。何気ない日常の出来事を語り合った場所なのだ。
──なぜ、先に旅立ってしまったのか!?
──一人、これからどう生きてゆけばいいのか?
余りにも突然すぎる、儚い命。その死をどうしても受け入れられない。頭は混乱するばかりだ。
しばらくぼんやりしたあと、すっくと立ち上がった。
また、あの声が聞こえてくる。
次第に声の波動は脳髄を刺激し、全思考を支配せんとする。
突然閃いた。
──声の指示に従う!
「死ね……」
最早、脳細胞は一つの思考以外選択する余地をなくした。
結論は出た。
──自分も死のう!
*
トキ(朱鷺)はペリカン目トキ科の鳥類で学名をニッポニア・ニッポンという。(2013年1月、コウノトリ目からペリカン目に移された)
佐渡トキ保護センターの『キン』が日本産最後のトキであった。2003年10月10日朝、死亡が確認された。野生絶滅である。
野生絶滅とは、
1.飼育されているものしか確認できない。
2.本来の場所以外で野生化しているものしか確認できない。
いずれかの場合をいう。
日本では、中国産のトキで人口繁殖を行ってきた。生物学的には全く同一種である。だから日本産、中国産という呼称は便宜上にすぎない。ゆえに絶滅ではない、というのが日本の立場である。
それが功を奏したとあって、生息数増加により、2019年1月24日、“絶滅危惧種1A類”へと国内評価の見直しが21年ぶりに行われた。“野生絶滅”から脱した動物は、日本初である。
「日本産のトキは永遠に復活はしないのか?」
スピルバーグかクライトンに訊いてみたかった。
*
籠野朱鷺(カゴノ トキ)は霊長目ヒト科の哺乳類で学名をホモ・サピエンスという。87歳。旧姓、外山(トヤマ)。絶滅危惧種。信条『むれず かたらず いきるのみ』
籠野家に嫁いで68年、外山から籠の中へ。だが、籠の中におとなしくおさまり切れる器ではなかった。生息域を拡大せんがため、ひたすら籠の外を飛び回ってきた。それも、夫あればこその為せる業であった。夫は籠の戸を開け放しにしてくれた。
6日前の11月2日木曜日、夫は逝ってしまった。89歳の若さだった。
──まだ90手前、100にも全然満たねえでねえか!
と朱鷺は拳固を握り締めた。
11月1日の夕刻、玄関先で倒れ、そのまま救急車で病院に搬送された。救命措置が施され、一旦ICUに移されたものの、翌早朝、ついぞ目を覚ますことなく息を引き取った。心筋梗塞だった。
別れを惜しむ暇もなく、通夜に葬儀の準備にと追われ、慌ただしく荼毘に付し、遺骨を抱え一人森閑とした自宅の敷居をまたいだ寂しさを表現する言葉は見当たらなかった。強いて言えば、“恐怖”だったかもしれない。
朱鷺は、両の拳に一層力を込めて立ち尽くした。
*
飲む! この家に毒はない。
打つ! 鉄柵越しに下を覗き見る。
アスファルトで頭がザクロだ。
長時間、宙を漂う羽目になる。
買う! もったいない。
庭の片隅の物置を見た。
ロープならある。
*
朱鷺は回れ右をした。
正面は仏間だ。障子一枚隔てて縁側がある。そのサッシ窓に背後の高層マンションの影が映っている。向かって右隣は寝室だ。
ゆっくり一歩を踏み出すと、大股で歩を速めながら芝を踏みしめ、寝室へと庭を斜めに突っ切った。
一通り室内を見渡すと、すぐにまた庭へ降りた。庭の左隅に柿の木がポツンと見えた。新築の記念に夫と二人で植えたのだ。今年も果実をたわわにつけている。朱鷺の目に悲しく映った。
寝室横の物置から20キログラムほどの“ぶら下がり健康器”を小脇に抱え戻ってくると、部屋の中央に据えた。パイプを伸ばそうと両側の固定ネジを緩め、天井を見た。蛍光灯の真下だった。仕方なく、バネの反動でグリップが飛び出ないようにネジを締め直し、横にずらした。ネジをもう一度緩め、天井ギリギリまで伸ばし固定する。
その横で、朱鷺はしばし頭を捻る。
──適当な道具はないものか?
物置には、工事現場用の黄と黒のポリエチレン素材のヤツ(トラロープ)は確かにあった。あれでは首に巻きつけたら、不快だ。
──釣糸!
では首に食い込みすぎる。千切れでもしたら、成仏できそうにない。
肌触りの良さ。息苦しくないもの。素材は吟味せねばならぬ。だが、理想的な死道具(しにどうぐ)は思いつかない。
所在無くモンペのウエストに両方の親指を突っ込んでずり上げた。左右の腰骨辺りで少し引っ張って指を離す。ピシャッと腹の肉にゴムが食い込んだ。横腹をポンと両の掌で軽く叩く。
朱鷺は目だけを天井に向けた。もう一度同じ動作を繰り返してみる。唇が緩む。
──名案だ!
と指を鳴らし、音は出なかった。が、鼻歌が零れる。
一目散に押入を開け、頭を突っ込んだ。裁縫箱からゴムひもの余りをつかんで後ずさり、思い切り襖を滑らせた。襖の縁と柱とがぶつかる小気味いい音が響いた。
厚紙に巻きついた1センチメートル幅の白いゴムひもの端を右手で摘まんで、勢いよく放り投げる。クルクルと回転しながら解かれて、厚紙は畳の上を舞った。もう一方の端を手繰り寄せ、端同士を結んで輪っかを作った。あとは、“ぶら下がり健康器”のグリップに引っかけるだけだ。
ゴムひもをグリップめがけ放ってみた。天井との隙間が狭いため、うまく渡せない。厚紙を結わえて重しにしようかとも考えたが、どうせ踏み台が必要だ。めんどくさい。それに今、余計な体力は消費したくない。力いっぱい死ぬ。その時まで体力は温存すべきだ。あとでまとめてやればいい、と一休みすることにした。朱鷺は畳の上に大の字に寝転んだ。
家族の顔が浮かんだ。
*
長男、鴻之助(57歳)。嫁、千鳥(35歳)。孫、鴻太郎(14歳)。
鴻之助は晩婚であった。42歳、丁度厄年に20歳の千鳥を娶った。翌年、鴻太郎を授かり、これまで円満な家庭を築いてきた。誰に似たのか、ずんぐりむっくりの短足。だが、丸顔で円らな瞳が朱鷺にはたまらなく可愛い。籠野家伝統の禿げ頭は、父親譲りだ。自動車会社の社長である。
誰にでも好かれる気さくな性格は、生まれながらに備わったものだ。その証拠に、あの極悪非道な兄嫁の
嫁の千鳥は少々気が強い。
──相手にとって不足はねえ!
といつでも受けて立つ気構えだけは、朱鷺には十分にある。
千鳥は美人を鼻にかける習性がある。色白で二重瞼の目はパッチリ。鼻っ柱をへし折ってやろうと思っても到底無理だと朱鷺は悟っている。千鳥の鼻は団子だ。唯一の人間臭い部分である。
孫の鴻太郎は、朱鷺が驚くほど若かりし頃の爺さんそっくりだ。思考回路も仕種も、性格まで瓜二つだ。
──これが隔世遺伝というものか……ん、ん、ん~!
と朱鷺は納得する。顔は爺さんの方が幾分男前だと疑わない。
そして、九太郎とよし子夫婦。只今、家庭内別居中である。原因は、九太郎の不倫にある。
九太郎は夢中になった。
よし子の嫉妬は尋常ではなかった。朱鷺が九太郎の様子を見に行くと、九太郎の頭のてっぺんの毛が無残にも毟り取られていた。よし子の仕業だとすぐに気づきはしたが、そこは女同士、朱鷺にも身に覚えがある。よし子を責める気にはなれなかった。
結婚前の随分若い頃だが、中々自分に振り向いてくれなかった爺さんを、どうにかこうにかモノにした。ほかに意中の女でもいるのか、と虚像を創り上げ、嫉妬の炎を燃え上がらせたものだ。爺さんも結婚してからはほかの女には目もくれず……
──オラに一途だった!
──はずだ……??
と朱鷺は信じる。
*
朱鷺は起き上がって、窓際に佇むよし子の傍へ歩み寄った。
「よし子、まだ許さねえのか?」
「ダメ、ダメ、ダーメヨ……」
よし子は九太郎より年上である。七倍の体重差で捻じ伏せられたら、九太郎とて一溜まりもない。
「仕方ねえな、よし子は当分この部屋にいな」
朱鷺は部屋を出て、丸椅子を取りに二階の長男夫婦の寝室を目指した。
「目星はついてんだ、コノヤロウ!」
さっき、台所を覗いた時、いつもの場所に丸椅子はなかった。とすると、自ずと疑惑の目は千鳥に向く。こっそり持ち出したに違いない。何食わぬ顔で悪事を働く。そういう女だ。
「油断ならん、取り返してやる!」
朱鷺は気合も十分に、果敢に千鳥に挑む。
「クソババア」
玄関横の階段を上りかけた時、突然九太郎が悪態をついた。
朱鷺は階段の一段目に足をかけたまま、声の方を振り返った。舌打ちしながら九太郎の傍へにじり寄って睨みを利かす。
「九太郎、誰にそんな汚え言葉教わった!」
「バカヤロー、クタバレ」
「なにぃ……毛毟って、ぶっ殺すぞ、ええっ!」
「ウギャーウゥー……」
「誰が教えたんだ?」
朱鷺は首を傾げた。「二度と汚え言葉使うんでねえ。ええか、九太郎!」
「ホーホケキョ」
分かった、という意味である。
「焼き鳥にして、食ってやる!」
「ホーホケキョケキョ……ウギャーウゥー……」
ごめんなさい、と慌てて言ったのだ。焼き鳥という言葉に異常に反応する。
*
九太郎は、爺さんが10年ほど前に連れてきた九官鳥だ。
爺さんに鳥を愛玩する趣味があったとは露知らず、わけを問いただしても、うまくはぐらかされてしまった。
「鳥籠の中で縮こまってよ、どことなくオレと境遇が似ているじゃねえか」
のちにそんな風に漏らしていたが、今となっては真偽のほどは定かではない。建前は、よし子の話し相手にということだった。
よく喋るヤツだとも言っていた。だが、これが曲者だった。
ペットショップでは猿と鶏に挟まれて飼われていたらしい。九太郎が籠野家の玄関先に馴染んで間もなく、朝から晩まで「キーキー」「コケコッコ」を飽きもせず繰り返す。これには家族皆、閉口した。
こんな九太郎を宥め賺し、悪癖を正してくれたのが、ほかならぬベニコンゴウインコのよし子である。
よし子は、30年前、朱鷺が雛から手塩にかけて育てた。当然、朱鷺を親だと思っている。だから、よし子は朱鷺にだけは心を許している。ほかの者には一定の距離を置いてしか接しようとしない。
「冷たい女だ!」
といつも皆から謗りを受けてしまう。
それが、不思議なことに、九太郎にはぞっこんなのだ。
──こんな
朱鷺は首を傾げたくなるが、
──
と妙に得心する。
九太郎の不倫相手は野生化したオカメインコだった。
縁側の軒下に、九太郎の鳥籠を吊り下げておいたのが事の発端である。九太郎は籠の戸を自ら開けてオカメさんを招き入れた。
止まり木に仲睦まじく寄り添う姿を、よし子は偶然目撃してしまった。
よし子は、九太郎の棲み処を破壊し、オカメさんを突っつき出して、正妻の威厳を辛うじて保った。
当のオカメさんは恐れをなしてか、九太郎に言い寄ることは二度となかった。
その後、よし子の九太郎に対する執拗な制裁劇の幕が切って落とされた。よし子はうわ言のように
「ハイイロオカメ、ブス、ヨシコ、アカイ、キレイ」
を連呼していた。
よし子にしてみれば、自分より容姿も知性も劣る女に、亭主を寝取られたことが妻としてのプライドをズタズタに傷つけられたのだろう、と朱鷺は同情する。
逃げ惑う九太郎が助けを求めてきたので、朱鷺は止む無く居を移してやることにしたのだ。それ以来、二人は一度も会ってはいない。お互い、声だけを頼りに探りを入れ合っているようだが。
爺さんの葬儀の翌日、11月4日土曜日の昼下がりの情事であった。
*
朱鷺は、よし子の心中を慮ってやると、九太郎に苦言の一つでも呈してやらねば、どうにもおさまりがつかなくなった。
「この浮気者。二度と女房を泣かすんでねえ。反省しねえか。さもねえと……今度こそ、焼き鳥だ! ええか、九太郎!」
「ホー……ケキョ……」
九太郎は、声もうまく出せず、剥製のように動きを止めた。目をパチクリしていたが、朱鷺が睨みを利かすと、完全に目を閉じ、寝たふりを決め込んだ。
朱鷺はゆっくりと身を沈めた。下駄箱の上の鳥籠を見上げ、九太郎の様子をうかがった。
しばらくすると、九太郎が羽を広げて伸びをした。
──くつろぎ始めやがったな?
ホッと一息ついた頃を見計らって、九太郎のお株を奪ってやった。
「ニャーオー! ニャーッ!」
鳥籠の下部を爪で引っかいた。
九太郎は慌てふためいて狭い籠の中を逃げ惑う。
──この辺で許してやるか……
突然、朱鷺は九太郎の前に顔を出した。
「ウゥー……」
九太郎は朱鷺を見ながら、荒い息遣いで首を傾げる。
「してやったり!」
朱鷺は九太郎に踵を返すと、階段を駆け上った。
*
長男夫婦の寝室のドアを開けると、すかさず中へ忍び入り、静かにドアを閉める。
六畳の和室だ。鴻之助はベッドの沈み込みが子供の頃から苦手だった。ずっと、畳の上に敷いた煎餅布団でしか寝たことがない。この家の唯一の洋間は孫の鴻太郎が使っている。一階の玄関を入って、左へ台所、突き当たりに居間と連なって、居間と廊下を挟んだ北東の角部屋である。丁度この部屋の真下になる。
丸椅子は部屋のど真ん中にあった。木製三本脚のかなりの年代物で大分ガタがきている。
入り口のスイッチを押してみた。蛍光灯が明々と室内を照らす。蛍光灯を取り替えたあと、椅子はそのまま置き忘れたらしい。古い蛍光灯が部屋の隅っこにあった。
この家の家電製品は殆どが旧式もいいところで、およそ文明から取り残されたきらいがある。
──いや、取り残されたわけではない、時代に背を向けてきたのだ!
──流行に縛られず我が道を歩んできただけだ!
と朱鷺は豪語するのだが、その実、夫婦して面倒臭がりで、世情に疎いというのが専らの原因である。
「満足できりゃあええ、見栄は身を滅ぼす」
というのが朱鷺の口癖なのだ。
てな具合で蛍光灯のストックも製造中止前に20年分まとめて買い溜めしてあるし、困ることはない。ただ、この辺の一般家庭に比べて、毎月の電気料金は格段に嵩むのが難点ではある。
スイッチを切って、目的を果たすべく室内を物色し始めた。目指すは一箇所だけだ。この部屋にあるものは全て熟知している。目を瞑っていても手に取るように分かる。
和箪笥の、上から二番目の引き出しを開けた。狙った獲物は、引き出しの一番上に載っかっていた。上下対の上だけをブラウスの胸元へ忍ばせると、下は同系色のテッペンに置いてカムフラージュを謀る。証拠は完璧に隠滅した。引き出しを閉める。
事を成し遂げると丸椅子をつかみ、部屋を出た。長居は無用だ。
急いで階段を下り、九太郎に口止めすると、自室に戻り“ぶら下がり健康器”の中へ丸椅子を据えた。椅子に上がりゴムひもをグリップに通して準備完了。
「さてと……」
朱鷺は畳に胡坐をかいて鏡台に向かった。栗毛色の髪を束ねて団子をこさえる。そろそろ染め直さないと、白髪交じりの毛が、生え際からはみ出し始めていた。入念に化粧をして、最後に紅を引く。顔をあらゆる角度に向け確認し終えると、立ち上がり全身が映る距離まで後ずさる。
今年最も
モンペといってもデザインは様々で、裾を紐で縛るもの、リボンがついた少女趣味的なものなど、個性豊かである。一番人気は海外ブランドである。今やモンペは世界を席巻するほどの女性ファッションの代名詞として高い地位を確立した。
若者はカラフルな色彩が主流だが、年かさが増すに従って地味な柄が好まれる。とりわけ60代半ばをすぎた辺りから、上下迷彩色で身を固め街の片隅に生息する。まるで、自分の存在をかき消すかの如く、ひっそりと息を潜めているのだ。
爺さん達は
上下虎柄の老人達も少なからずいる。彼らは比較的緑地を中心に出没するようである。春には、竹の子目的の虎の群れが、竹やぶに観察できる。『新・竹の子族』と呼ばれることもある。
豹柄は一部の地域を除いて廃れた。
著名な経済評論家が彼らを称して『擬態老人』と命名し、今年の流行語となった。
朱鷺は違う。断固『擬態』を批判してきた。隠れて生きるなど真っ平だ。
──なぜ、老人が社会の片隅に追いやられ、身を縮めなければならぬ!
──最早、老人は人ではないというのか!
擬態老人を目撃する度に怒りが込み上げて、いつも一喝してやる。
「若えもんの策略にまんまとはまりやがって、バカヤロー!」
──老人を蔑ろにしくさる社会などいつか破綻する!
と朱鷺は強い信念を抱いている。
朱鷺は社会の大道を肩で風切って闊歩するのだ。
鏡に映る己の姿に、朱鷺はうっとりした。
上は白とライトブルーのストライプのブラウス、少々ブラが透けて見えるのが何ともセクシーだ。袖を肘まで捲くり上げ、胸元はブラが覗くぎりぎりまでボタンを留めない。肌の露出を心がけている。
下はもちろん流行りのモンペだ。デザインは至ってシンプルな伝統的日本モンペを日々着用している。凝った装飾がけばけばしい西洋モンペは朱鷺の趣味に合わない。洋裁、和裁の心得のある朱鷺はウエストのひもを、わざわざゴムひもに取り替えている。いちいち結ぶのが面倒だからだ。
鮮やかなピンク地に、尻の両方のポケットと右の膝下から裾にかけて黒バラの刺繍を自ら施した。かなり目立つ。痩せのトカゲ、と誰もが不気味がるが、朱鷺がバラと言えばバラなのである。
モンペならほかに四本持っている。そのうち二本は同じ木綿のピンク地だが、それぞれに深紅、ブルーの刺繍を同一箇所に、これは普段着だ。あとの二本のうち一本は
朱鷺は、長男夫婦の寝室から失敬してきたものを胸元から引っ張り出し、口に咥え、徐にブラウスのボタンを外し始めた。ブラウスは両腕から足元に滑り落ちた。次にブラを外し、両手で丸めると思い切り後ろへ放り投げる。
鏡に映る己の裸身をじっくり観察する。
先端は臍辺りまで到達している。両手を腰に当て、前かがみになる。その姿勢で腰をブルブルと振った。振り子の原理に従って、周期的に振動する。突然動きを止め姿勢を正した。直前、慣性の法則によって、しばらく揺れた。
時折、重力を恨むこともある。
──重てえやい!
──肩が凝ってしょうがねえ!
何とかしようと、ひもで先端同士をつないで首から提げたこともあるが、千切れるかと思うほど痛かった。あれは一回きりの試みであった。
朱鷺は思う。
──これは勲章だ!
と。なぜなら、子供を母乳で育てた証だし、何よりここまで垂れ下がるにはそれなりのサイズが必要だからだ。
黒地に朱の模様が施された派手なブラである。この前、千鳥がデパートから提げてきた紙袋の中身を探って見つけておいたのだ。朱鷺は狙った獲物は決して逃さない。どうやら未使用のようだ。
さっそく上げて寄せてを繰り返し、悪戦苦闘しながらもようやく装着した。
──自分の方が似合う!
感心しながら胸を持ち上げてみると、ポロリと下から片パイが垂れ下がった。仕方なく仕舞い込んで厳重に固定し、ブラウスを羽織ってボタンを留める。
鏡を覗きながら一度深呼吸をしてストレッチを始める。首周りは入念にやった。
15分ほど続け、最後にピョンピョンと二度爪先でジャンプすると、汗ばんできた。薄らと額に吹き出た汗を右手の甲で拭って、左右の足で一度ずつ四股を踏む。首をグルグル回しながら椅子に片足をかけ、ヒョイと上がると、グリップを両手でつかんで懸垂を四度、五度と繰り返した。少し息が上がってきた。汗が顎の先から一粒滴り落ち、畳の上で弾けた。日焼けした畳に放射状のシミが浮かぶ。両手で顔をこすり汗を落とした。
「ヨッシャ!」
気合を入れて顔と尻を二度ずつ両手で叩き、ゴムひもを手繰り寄せ、首に一回転させた。
頭はギンギンに冴え渡っている。朱鷺は覚醒した。
何か腑に落ちない。
「ハテ?」
と首を傾げた。それが何なのか分からない。
──なぜ、こんな真似を……?
──なぜ、自分が死ぬのだ!
さっきまで朱鷺の耳に囁いていた声は消えていた。そんな声を聞いたことすら今は記憶にない。
「バカバカしい!」
朱鷺は巻きつけたゴムひもを解くことにした。首の肉に食い込んだゴムひもに手をかけたと殆ど同時だった。
「キャーッ!」
誰かが叫んだ。
若い女の声だ。
窓の方から声は届いた。
朱鷺は左程驚きもせず、声の方向にゆっくりと首を左回転させた。その時、バランスを崩し、足元の丸椅子が揺れた。
両手を伸ばし、グリップをつかんでバランスを取ろうとしてつかみ損ね、椅子はグルグルと回転し始めた。咄嗟に首に巻きついたゴムひもを両手で外そうと、もがけばもがくほど、却ってバランスを崩す羽目になり、次第に汗で湿り気を帯びた首に強く絡みついてきた。仕舞いには両足の親指だけで椅子の縁を支え、辛うじて首を吊り下げられない体勢を保ちつつ、ついに力のバランスは崩れ、ガタがきて不安定な三本の脚は小刻みに震え出し、丸椅子は前方へと一回転してその場から朱鷺に別れを告げた。
一連の動作は一瞬の出来事だったろう。朱鷺にはスローモーションのように感じた。
懸命に畳の上に爪先立って耐えた。ゴムひもは執拗に首を締めつけながら伸び切った。
「ホーホケキョ!」
突然、九太郎がやって来て、頭のてっぺんにとまった。
朱鷺は目を閉じた。
次に目を開けた時、女の顔が迫ってきた。女は朱鷺の体を支えようとしてくれた。
また目を閉じる。
††† 「九太郎参上!」 †††
朱鷺は死んで、無事あの世。
「本日はお日柄もよく、ご愁傷さまでござんす!」
それとも……異世界か?
さてさて真相や如何に!
どちらにしたとて、この先、波乱万丈の人生真っ只中よホーホケキョ……失礼。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます