第2話
ここレジェンヌでは最近、人々を悩ませている暗い話題があった。
魔族の横行である。
ほぼ毎晩、魔族が街で暴れていて、その度に大量の犠牲者を出していた。
それはまるで伝説となっている妖魔の騎士のような残虐さで。
妖魔の騎士は現在では、ほとんど伝説扱いされているが、実在した妖魔の王である。
その残虐さはどの魔族と比べても抜きん出ていて、またその強さも圧倒的だったという。
彼の姿が最後に確認されたのは、このレジェンヌの隣国、大国メイディア。
西方地区では最大の繁栄を誇る国である。
それだけに彼がメイディアで起こした宴は前代未聞の規模であり、またその残虐さでも歴史に名を残すほどだったと言われている。
だが、何故か妖魔の騎士は宴を自分から中断してしまった。
近隣諸国では当時王子だったメイディアの名君、ネジュラ・ラセン王が彼を退けたとして英雄扱いをしているが。
どちらにせよ、彼は妖魔の騎士を退けたことにより、後にメイディアで名君の呼び名を受けることになる。
しかしやはり彼との戦いで無理をしたのか。
ネジュラ・ラセン王は早世している。
名君と呼ばれているが、その治世は決して長くはないのである。
そのこともまた人々を煽るのかもしれないが。
悲運の英雄として。
これは現在より50年ほど昔の話である。
50年前のメイディアでの宴以来、妖魔の騎士は姿を眩ましてしまっていて、以後、彼の姿を見かけた者はだれもいない。
だから、今このレジェンヌで起きている魔族の蛮行を、そのまま彼の宴だと結びつけるのは無理があるとショウは思う。
ショウは別に役人ではないし、ごく普通の家に住むごく普通の少年である。
だから、自分の考えをだれかに言ったことはないし、これからも言わないだろうと思っている。
しかしショウ個人の考えとしては、現王家が結びつけるほどには、関連性はないと思っている。
むしれ彼の仕業に見せたがっているように見受けられた。
「他国におもねるばかりが上手とは、国の先行きが不安だな」
呟いてショウは遠くの大通りで始まっている騒ぎに目を向ける。
ショウは町外れに構えるこの大きな屋敷にひとり暮らしをしている。
決して暮らしに不自由しているわけではないが、使用人を雇っているわけでもない。
雇えるだけの余裕はあるが、敢えて雇っていなかった。
自分で栽培した高価な茶葉であるリョガーザを飲みながら、さりげなく視線を向けている。
人々の熱狂の理由は知っている。
魔族の横行に悩まされている現王家が、とうとうメイディアへと救援を請い、ついに世継ぎの王子がレジェンヌを訪れることになったのだ。
あの大騒ぎはそのためである。
その歓迎ぶりはそれだけ魔族の横行に、みなが苦しめられている証拠でもある。
レジェンヌにはふたつの王家が存在している。
永久的な継承権をもつ旧王家ラスターシャ王家と、火事場泥棒的に成り立った現王家である。
現王家はラスターシャ王家が国と王位を捨てたときに、火事場泥棒のように現れ王位をくすねていった。
それだけに不満を抱いている者は多く、現王家は旧王家に対して常に暗殺者を放っているともっぱらの噂だった。
レジェンヌの法律によれば、旧王家の者は死ぬまでその継承権を放棄できない。
特に世継ぎが受け継ぐ継承権は絶対だとされている。
言ってみれば現王家がどれほど足掻こうと、正統な世継ぎが登場し王位の返還を望んだら、とても拒めないのである。
そのせいで暗殺の噂が消えないのだ。
現王家にとって旧王家はまさに目の上のこぶなのである。
「たしかメイディアの世継ぎの王子って、俺より3歳年上だっけ。ネジュラ・ラセン王の孫に当たるんだよな」
すこし皮肉な気分でショウは呟く。
近隣諸国では英雄で通っているネジュラ・ラセンだが、ショウには素直にそれに同意できない面があった。
彼は妖魔の騎士を退けてはいない。
そう思うからだ。
本当に退けたのなら行方不明ではなく、完全に滅んでいるべきだろう。
妖魔の騎士は自分から宴を中断した。
それは間違いないはずだ。
それはたしかに中断させたのは、ネジュラ・ラセンかもしれないが。
ショウにはふたりのあいだに、第三者は入れない事情があったような気がしてしかたがなかった。
もちろんそんなことを言ってひんしゅくを買う気はなかったけれど。
「顔を見に行ってみるのもひとつの経験か?」
バカ騒ぎに混じる気はなかったが、隣国の王子の姿を一目みたいという気持ちにも嘘はなかった。
「早く行かないと見える位置が確保できないな」
慌てて上着を羽織るとショウは館を後にした。
大通りまでやってくると、すでに人で賑わっていた。
最前列は確保されてしまっている。
ショウは年齢のわりに(まだ16なのだ)背が高いので、それでも馬車が通るために区分された道がはっきりみえたが。
「よかった。俺、背が高くて」
呟いたとき傍らで何度もジャンプしている奴がいることに気づいた。
覗こうとしているのか、しきりにジャンプしている。
それでもショウの肩ぐらいまでしか届かない。
可哀想なくらい小さな奴だった。
まだ子供で通るような身長だ。
年齢的にショウよりふたつか3つ年下といったところか。
なら無理もないかと思った。
おまけに悲しいくらいジャンプ力がない。
跳んでいても立っているときとほとんど差がないのだ。
これは憐れである。
露店にやってくるとショウは出来合いのおかずを中心に買い物をしていった。
ラーダはどうして肉や魚が焼いてあったり、煮込んだ野菜などを置いているのかわからなかったのだが、買い物をしているときにショウに聞いたのだ。
「どうしてそれ、焼いてあるの?」
「最近、レジェンヌで流行ってるんだよ。ひとり暮らしが増えてるから、手軽な食事の方法として出来合いのおかずを売るっていうのが」
「出来合いのおかず?」
「見たとおりすでに調理されてるおかずってことだよ。これに一工夫加えれば、ひとりでも簡単に手軽に本格的な料理が食べられるだろ?」
「便利になってるんだね」
「レジェンヌでは全盛期を迎えてる商売だけど、外国ではやってないのか?」
「俺の知るかぎりやってないよ。メイディアだってやってないと思う」
「あれ? メイディアはレジェンヌから輸入されて、この商売、すでに流行ってるって聞いてるけど」
「そうなの? 俺がメイディアにいたのって子供の頃だからね。知らなかったよ」
「子供の頃って……」
この出来合いのおかずを売るという商法が流行ったのは、今から二十年ほど前である。
当然メイディアにもすぐに伝わり、同時期に流行りだした。
ラーダの歳なら何歳のときにメイディアにいたとしても、知っていなければおかしいのだ。
ショウは疑問を持ったが、ここは問いかけることはしなかった。
自分も詮索されたくないのだ。
ラーダは詮索しないと誓ってくれた。
ショウがラーダの嘘を暴いて騒ぐのはルール違反だろう。
肉を食べたい気分ではなかったので、スープ用の野菜と焼いた魚を買ってショウは家路についた。
「この道って王都の外れに続く道だけど、ショウの家って王都の外れにあるの?」
「ああ。怖いか?」
魔族たちが頻繁に現れるのは王都の中心地だが、外れまできてしまうと違う意味で寂しい。
知り合いにもよく心配されているショウは、意地悪だなと思いつつもラーダにそう聞いていた。
「別に怖くはないよ。この時期に王都の中心に住んでいるほうが怖いんじゃない?」
「でも、回りには家はないんだぜ?」
「静かでいいじゃない」
呑気なラーダに本気でそう思っているのか、それとも虚勢かわからなくて、ショウは肩を竦めてみせた。
ふたりで歩きだしてすこしして、王都が遠ざかるとショウの住んでいる屋敷が見えてきた。
3階建ての壮麗な屋敷にラーダが感嘆の吐息をついている。
「すごい屋敷だね。あれがショウの家なの?」
「意外か?」
「意外だよ。ひとり暮らしだっていうから、もっと小さな家を想像してたから。人を雇う余裕だってあるんでしょう? どうして雇わないの? そうしたら家事をショウがやる必要もなくなるのに」
「詮索するなって言わなかったか?」
「だったね。ごめん」
謝ってからラーダは改めてショウの屋敷を見てみた。
如何にもレジェンヌらしい建物である。
柱はすべてアラベスク。
象嵌細工の飾りが、ところどころに入っていて、更に印象を華麗している。
築年数は古くもなく新しくもなくといったところだろうか。
こんな大きな家にひとり暮らしなんて、確かに家にきたら詮索したくなるだろうなと、ラーダは思う。
入ってすぐのところが吹き抜けの広間になっていて、天井には見事なシャンデリアがぶら下がっていた。
正面に左右に別れる形で階段がある。
2階へと続いているようだ。
螺旋階段になっていて更に上を見れば3階へと続いている。
ショウは入ってすぐの左側の扉へとラーダを案内した。
「中に入って待っててくれ。すぐに食事の準備をするから」
「手伝おうか?」
「平気だよ。おかずは出来合いの物にすこし手を加えるだけだから。それに」
ショウは何気なくラーダの手を持ち上げた。
水仕事なんてしたことないような手をしている。
白魚のような手とは、こういう手のことを言うのだろうか。
「この手を見ればわかるよ。家事なんてやったことないんだろう?」
「……ばれた?」
「わかるって。水仕事なんてしたことない手をしてるから」
「別に手入れをしてるわけじゃないんだけど」
「すぐに戻ってくるから中で寛いでいてくれ」
それだけ言い置いてショウの姿は館の奥に消えた。
ラーダは時間を持て余して指定された部屋に入った。
部屋の中もやはり品のよい調度品で占められていて、この屋敷にどれだけお金がかけられているかが一目でわかる。
ショウはどうやら財産家らしい。
立っているのもなんだったので長椅子に腰掛けようとして、ふと壁にかけられている肖像画の存在に気がついた。
ショウの両親なのだろうか?
金髪に青い瞳をした美丈夫と黒髪に灰色の瞳をした美女が描かれている。
ショウは両親の特徴を平等に受けた容姿の持ち主だったようだ。
金髪の男性の首元を覆っている首飾りにハッとする。
双頭の鷲に似た空想上の動物の首飾り。
「双頭のラジャの首飾り……」
双頭のラジャはラスターシャ王家の紋章である。
王家の紋章が双頭のラジャだったのだ。
双頭のラジャの首飾りは王位の象徴。
歴代の世継ぎしか受け継ぐことが許されない代物だ。
つまりショウは……。
「なるほどね。詮索されるのをきらうはずだよ。ショウ・ザ・デザイアね。それが略称なら推測が正しければ正式名はショウ・ザ・デザイア・レ・ラスターシャ。現在の正式なる世継ぎの君、か」
ラスターシャ王家の者と、今頃になって再会しようとは思わなかった。
「俺にできることはなにもないのか? 今頃になって罪滅ぼしをしようなんて都合が良すぎるかもしれないけど」
ショウはまだなにも気づいていないだろう。
ラーダと自分との関わりも。
気づいてしまったことを黙っておきべきだろうか。
それとも疑われないように、先に言っておくべきだろうか。
ショウの力になりたい。
ショウがもし王位を取り戻したいと思っているなら、その手助けがしたい。
それで過去の罪が消えるなんて思わない。
でも、なにかしたい。
ショウのために。
ラスターシャの王子のために。
「なにを見てるんだ?」
突然の声にハッとして振り向いた。
ショウが料理を片手に現れたところだった。
「肖像画を見てた。ショウのご両親?」
「うん。俺は両親のことを覚えていないから、その肖像画が唯一の記憶なんだ」
「そうなんだ」
こんな所にもラーダの犯した罪がある。
本来なら王宮で蝶よ花よで育てられていてもおかしくない境遇なのに。
「これ、双頭のラジャの首飾りだね」
テーブルに料理を並べているショウに向かってそう言えば、その手が一瞬止まった。
警戒している目をしてラーダを見ている。
「本で読んで知ってたんだ。確か双頭のラジャは、このレジェンヌの旧王家、ラスターシャ王家の紋章だったよね。そしてその王家の紋章を首飾りとして所有できるのは、代々の世継ぎのみ、ショウが現在の正式な世継ぎの君ってことだよね?」
悪意はないのだと分かってもらうために、あえて両手をあげる。
白旗の意味で。
そんなラーダを見てショウが苦い表情で呟いた。
「よく双頭のラジャのことを知ってたな。普通は知らないんだけど。もう双頭のラジャのことなんて人々の記憶から消えてるだろうと思ってたし」
「最近見て知ってたから。それに皆忘れてないと思うよ。今だって現王家より旧王家のほうが慕われているし」
「そうかもしれないけど生き残ってないと思われてるのも事実だ。だから、肖像画を隠すことなく飾っておけたんだから」
知っている者はいないと思ったから、家の中とはいえ飾っておけたのだ。
これがまだ知っている者が大勢いると思っていたら、いくら家の中だけとはいえ、肖像画を飾っておくことはできなかっただろう。
正体が露顕するから。
まぁラーダを招いてしまったときから、こうなる可能性は承知していたといえばしていたのだが。
「それより夕飯にしよう。ご飯が冷めるから。」
「うん」
頷いてからショウの正面に腰掛けて、並べられている料理の数々を眺めた。
焼き魚もキチンと盛り付けがされていて、イチゴソースがかかっている。
緑色の野菜が主となったグリーンスープもついていて、これをショウひとりで作ったと言うのは、ちょっと意外だった。
いくら出来合いの物を使ったとはいえ、ここまで本格的だとは思わなかったので。
ついでに買っておいた野菜が中心のだが前菜まであって、 ちょっとしたフルコースとなっている。
凝り性なのかなとショウを見た。
「どうかしたか?」
焼き魚を口に頬張ってから、ショウが訊ねてきた。
食べ方もスマートで、だれに教育されたのかなと疑問が沸いてきた。
ショウは5歳のときに両親を亡くしたと言っていたから。
5歳の子供が自分ひとりで暮らすことはできないだろう。
いくら遺産が莫大な旧王家の王子とはいえ。
しかし第三者を近づけることが危険なショウが、うかつに人を近づけるとも思えない。
機会があったら訊ねようと心に決める。
「これをショウひとりで準備したなんてちょっと意外だと思って。いくら出来合いのおかずを使ったといっても、これだけ徹底するの大変だったでしょ?」
「そうでもないさ。基本的な調理は済んでるんだから」
「このイチゴのソース。すごく魚に合うね。美味しい」
「ありがとう」
食べ終わる頃に気になっていたことを訊いてみた。
「ショウはだれに育てられたんだ? たしか両親は5歳のときに亡くしたんだろう? でも、ショウの境遇で第三者を近づけることは、危険すぎてできなかっただろうし」
「流しの戦争屋だよ」
「え?」
意外な答えに絶句した。
流しの戦争屋?
「戦場から戦場を渡り歩く一匹狼で、たまたまレジェンヌにきていたときに、父さんたちと知り合ったって言ってた。それで父さんたちが暗殺された場面に立ち会って、とっさに俺を助けてくれたんだ」
「へえ。そうだったんだ?」
「それから5年間ほど一緒に暮らしたな。それに育ててもらったっていっても、ひとりで生き抜くために必要な知識を与えてくれただけで、普通に想像する子育てとは、まるで意味が違ってたから。
一緒に暮らすようになってからの5年間で、俺は必要なことのほとんどを覚えられたから、実際10歳になってからひとりでも暮らせたよ」
「流しの戦争屋なら戦い方も教えてもらった?」
問いかけるとショウは、なんでもないことのように、あっさりと頷いた。
「1番熱心に習ったな。生き抜くためには必要だったし」
「両親の敵討ちとか考えてた?」
「いや。それは考えなかったな。育ててくれた奴が言ってたんだ。生き抜くための剣を覚えろって。過去に復讐するための剣なら教えないって」
厳しい言葉だが正論だ。
それに僅か5歳の子供が、これから先の長い人生を復讐のために費やすことは、やはり褒められたことではない。
そういう意味で正しく育てられたのだろう。
結局、復讐はなにも生み出さないのだから。
過去に向かって生きるより、未来に向かって生きた方がいい。
その方が亡くなったショウの両親だって安心できるだろう。
「普通の育ての親とは違うみたいだけど、正しい育てられ方をしたみたいだね。話を聞いているとわかるよ」
「そうかな? かなり型破りだったと思うけど」
それから食事を終えるとショウはお茶の準備を始めた。
食事の後に軽いお茶を楽しむのが、レジェンヌ風なのである。
差し出されたお茶を一口飲んで、ラーダは驚いた。
「これ、リョガーザじゃない?」
「そうだよ。口に合わなかったか?」
「合わないもなにも。リョガーザって高級茶葉だし、その中でもこの口当たり。最高級の物じゃないの? ここまでのリョガーザはメイディアの王宮でも出るかどうか。一体どうしたの?」
リョガーザは栽培が難しく、また現在では入手困難になってきている幻の高級茶葉である。
王室の者などなら、リョガーザも普通の物なら飲み慣れているだろうが、ここまでの高級品は滅多に口にできないだろう。
ショウは自分もリョガーザを飲みながら、笑って口にした。
「以前リョガーザがすこしだけ手に入ったときに、栽培してみようと思い立ってさ。裏庭に生い茂ってるよ。だから、少々のことではなくならない。俺の家では普通に飲めるよ、このリョガーザ」
「玄人でも失敗するリョガーザの栽培に成功した? ショウってものすごく頭が良くない?」
「どうかな? 俺は普通だと思うけど」
ラーダに対する警戒はほとんどなかった。
正体を知られたときにすこし警戒したが、ラーダが刺客なら殺すチャンスはいくらでもあっただろう。
それでもなにもしないどころか、知っていることを隠さなかったことで、却ってショウはラーダを信頼していた。
もちろん完全には信頼していない。
だが、今すぐ裏切るとも思っていなかった。
それに何故だろう。
ラーダを放っておいてはいけない気がする。
この出逢いは必然だった。
そんな気がするのだ。
これからなにが変わるだろう?
不安定なこの日々の。
メイディアの王子、ネジュラ・グレンは王宮に辿りついてから、抜け出したいと思いながらも、それができない日常の中にいた。
やってきてすぐに歓迎の宴。
その後で昨夜襲われたばかりの現場に行ったのである。
そこは街の一角で住宅街だろうと思われたが、不思議なことに血が海のように溜まっていた。
悲惨な現場を見てグレンは首を傾げる。
「変だな」
「なにが変なのでしょうか、ネジュラ・グレン王子?」
付き従ってきたレジェンヌの将軍に、グレンは馬に乗ったまま血の海を指さした。
「現場に血痕が残りすぎてる」
「これは魔族に襲われたときには常識と思っていましたが」
「おれが呼ばれた理由は、この虐殺が妖魔の騎士によるものかどうか、調べてほしいとの内容だっただろう?
おれもここへくることが決まってから、過去の資料をひっくり返して調べてみたんだ。奴が宴を行っているなら、現場に大量の血痕が残るはずがない」
「と申されますと?」
「奴にとって人間の血は最高の美酒だ。我が国で宴を行っているときも、奴は進んで人間の血を飲み干したとあった。奴が行う宴で殺戮現場に大量の血痕が残るということは、まずありえないんだ」
「ではこれは妖魔の騎士の仕業ではないと?」
「これだけでは断言できないが、腑に落ちないのは確かだ。我が国で奴が起こした宴と、あまりにも現状が違いすぎる」
カポンと馬の脚が血の海に沈む。
そのとき、声がした。
「さすがに詳しいな、メイディアの王子」
妙に生気の感じられない声だった。
人のぬくもりがまるで感じられない。
いつのまにか周囲は薄闇に覆われていて、空には月が出ていた。
不気味なほどに辺り一帯が静まり返る。
その中で声だけが聞こえていた。
人間らしさを感じさせない声が。
「たしかに俺にとって人間の血は最高のご馳走だ。こんなに大量に残すような真似はしない」
「おまえはまさか」
「妖魔の騎士!?」
その場にいた全員が叫んだ。
突然の登場に馬たちまでが騒ぎ出す。
怯えて暴れる馬たちを制御するので、人間たちは手一杯だった。
「今頃出てくるということは、この国で暴れているのは、本当におまえだったのか?」
「俺は関係ない、と言いたいんだがな。完全には無関係ではないようだ。闇神はなにがなんでも俺を引き戻したいらしい」
「闇神? 闇世の? おまえを誘き出すための罠だって言うのか?」
「俺の姿が最後に確認されたのは、どこの国だ?」
この言葉にはグレンも返す言葉がなかった。
そういう意味ならレジェンヌに災厄を運んだのは、メイディアとも取れるので。
尤もグレンに言わせれば、妖魔の騎士がはじめから宴など起こさなければ、なにも問題はなかったのだとなるが。
「それがすべて事実だったとして、今頃になって出てきたのはどういうわけだ? 闇神の下に戻るつもりになったのか?」
「闇神のことなど興味はない。だが、もう一度妖魔の王として戦う気もない」
「なに?」
「そう奴に誓ったんだ。おまえの祖父ネジュラ・ラセンにな」
「じい様?」
「俺のために早世した奴のためにも、俺はもう妖魔には戻らない。メイディアで宴をやって中断するとき、奴に誓ったんだ。二度と宴は起こさない、と。二度と人間を手にかけないと」
「どうして」
祖父と妖魔の騎士のあいだで、一体なにがあったのか、グレンはとても気になった。
近隣諸国のあいだで祖父は彼を退けたことになっていて英雄扱いされているが、それ以上のことがあったような気がして。
祖父と妖魔の騎士のあいだには、一体なにがあったのだろう?
「だが、その誓いを守るためには、このレジェンヌで起きている事件を、見てみぬフリはできないらしい。これは俺の責任だ。俺の責任において処理する」
「処理?」
「こういうことだっ!!」
ギャッと短い断末魔の声があがった。
紫色の血が飛び散る。
闇の中にあってなにが起きているのかは視覚できない。
だが、どうやら妖魔の騎士が短時間に魔族を殺しているらしい。
紫色の血に染めた細い指先が、闇の中に浮かび上がる。
それは不気味ですらあるはずの光景だが、何故だか視線が逸らせなかった。
「この辺に集まっていた魔族は処理した。これからも何度か繰り返す必要があるだろうが、これが俺の責任の取り方だ」
「妖魔の騎士」
「レジェンヌで起きている事件は俺が処理する。目障りな動きはするなよ、メイディアの王子」
「メイディアの王子、メイディアの王子と連呼するな。おれにだってネジュラ・グレンという名があるっ!!」
「ネジュラ・グレン?」
すこし不思議そうに呟いて、妖魔の騎士はその場から姿を消した。
闇の中で黒衣が翻る。
翻る黒衣は夜の闇に溶けるように消えていった。
「エスタッ。どうだ? 本当に魔族は死んでいるか?」
先程まで妖魔の騎士がいた辺りに、白魔法使いのエスタが様子を見に行って、グレンがそう声を投げた。
「どうやらそのようです。紫色の血が大量に残っています。魔族は死ぬと消滅しますから、死体を確認はできませんが」
「これはどういうことだ? 奴の言い分を信じるなら、これはすべて奴を誘き出すための罠だということになる。そして奴はそれを承知でこの国を助けると。一体どういうことなんだ?」
「我々はどうするべきなのでしょうか、ネジュラ・グレン王子」
「しばらく様子を見るしかないだろう? 奴と魔族の両方を相手にするのは、どう考えても自殺行為だ」
「信じてもよいのでしょうか、妖魔の騎士を」
「その点に関しては信じてもいいだろう。あいつは誓いを重んじると資料に載っていた。奴は誓ったことは、なにがあっても守るんだ。だから、じい様の死後、事件を起こしていないんだろう。あいつは嘘は言わない。それも確かなことらしいからな」
その言葉のどこまでを信じればいいのか、レジェンヌ側にはわからなかった。
妖魔の騎士に関することでは、わからないことの方が多いのだ。
断言できるグレンの気持ちも、また理解できないことだったのである。
それともメイディアにはそういう資料が残されているのだろうか。
「問題はこれからのことだ。奴と魔族たちの動きと闇神の狙いと。頭が痛いな」
考えなければならないことが増えて、頭が痛いのが現状だった。
『もう二度と人間を手にかけないでくれ。非情な妖魔の王には戻らないでくれ』
あのとき、初めて光を手に入れた。
短いあいだだった。
でも、幸せだった。
その幸せを永遠のものとするために、どれほど辛くても誓いは守る。
血の誘惑が心を狂わせても、二度と妖魔の王には戻らない。
―――あのとき、そう誓ったから。
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