第30話
□■□■
時はさかのぼり、セブンスがカジノに到達したころ。
マリーとシロは、ベッドの上でよりそってスクラップブックを眺めていた。
そうすることで気も紛れるし、マリーはセブンスという人間のすさまじさを再確認して安心できる。シロには難しい文字が読めないのでちんぷんかんぷんだったが、それがセブンスの活躍を表すものだと知ると興味を持ったらしく、ほえーほえーとしきりに感心した様子を見せていた。
「セブンスのことをね、みんなが凄い凄いって褒めているのよ」
「それはすごいです! せぶんすはなにしてるヒトです?」
「セブンスはねえ。悪者と戦っているのよ」
「わるものです?」
「そうよ」
まさか暗殺者とは言えずそれとなくぼかして教えるマリー。
どちらかといえば世論的には、そしておそらくは実際にもセブンスのほうが悪者だったが、幼気な少女にわざわざそんなことを伝えてもいいことはない。
「たとえばそうね。あなたを捕まえようとしていた怖い人たちやっつけるのがセブンスのお仕事よ」
「はわぁ……だからクロちゃんはせぶんすをさがすっていったです」
「そうかもしれないわ」
シロの純粋な納得にうなずきを返しながら、マリーも同じように納得していた。
なにせ魔王の関係など単なる法的機関が太刀打ちできるような相手でもない。地方警察と魔王が繋がっていることなど一般常識とさえ言える。だからセブンスと出会ったのは、ともすればシロが助かるたったひとつの可能性だったのかもしれない。
セブンスのいるこの国に運ばれ、事故に遭い、逃れ―――出会った。
まさしく幸運と呼ぶべき運命にマリーは少しだけ肌が冷える。
(……けれど、そう考えると、シロが『助かる』なら私たちも無事なのかしら)
断片的には聞いたクロの予言、セブンスに会えば助かるという内容を思い出すマリー。
助かる、というのは、単にあのときの追っ手を振り切るだけとは思えない力強い言葉だ。ともすればこれからの安全までもが保障されるような、そんな不思議な安心感がマリーにもあった。
「せぶんす、いまもがんばってるです?」
「ええそうね。私たちの……シロのために頑張ってくれているのよ」
「えへへ」
はにかむように笑うシロの頭をマリーはそっとなでる。
そうすると嬉しくなって身体をすりつけてくる少女は無条件で愛おしく思えてくるほどに幼気で。
マリーにとっても、そしてきっと―――セブンスにとっても。
(……だからセブンスも、この子には甘いのかしら)
そんなことを思うと、胸の奥にほんの少しだけ揺らめくものがあった。
マリーはその正体をよく知っている。
―――学生のころだ。
当時付き合っていた女性は人気者で、恋人であるマリーといっしょにいても男女構わずよく話しかけられたし、そしてそのつどにこやかに対応するような八方美人タイプだった。そのせいでケンカになったことがなんどもあって、別れることになった発端もそうだった。
そのときの感情と同じものを、マリーはわずかではあるがシロに抱いている。
(嫉妬―――しているのね。私、こんな小さな子に)
それを自覚すると、自分がどうしようもなくくだらない人間のように思えてくる。
シロが愛らしく思えるのは事実なのだ。セブンスがシロに向けるものと自分に向けるものが違うことはよく分かっている。もしも優劣をつけるのならセブンスのなかでは自分が勝っているという自負がある。
だがそれ以上に、自分以外がセブンスの寵愛(ちょうあい)を受けているという状況に心が少し軋む。
(セブンスは絶対に私以外を好きにならないって、そう思ってたわ)
いつだったかセブンスに、殺しをするのはどんな感覚なのかと尋ねたことがあった。
そのとき彼女は、いつもと変わらぬ笑みを浮かべていて。
問いかけを口実に身体をすり寄らせながら、ひどくあっさりと答えた。
(『好きな人以外は物みたいなものだから』―――そう言ったのよね、たしか)
その後詳しいことを尋ねようと思う間もなく二回戦だか三回戦だかが始まったためそのときはスルーしていたが―――いまになってそんなことを思い出す。
実際に思い返してみるとセブンスは、会話のなかで固有名詞を滅多に口にしない。
カフェの店長やマリーの知り合いなんかにはにこやかに対応するが、直接的にも会話のなかで話題が出た時も、名前を口にすることは一度もなかった。
まるで、名前自体に興味がないように。
(ああ、だから、シロの名前を呼ぶのを聞いたとき、私なんだかショックだったのよ)
自分以外の人の名を呼ばない彼女の口を汚した、もうひとつ。
特別で唯一だったはずの自分を脅かす存在―――シロ。
「マリー? どうしたです」
「……ぁ、ええ。いいえ、なんでもないのよ」
ぼぅ、と考え込んでいたせいで不思議がったシロの頭をなで、そそくさとスクラップブックをめくる。
これも大切な宝物で、いつもはそうしてめくるだけで胸が躍るのに。
(これだって、私だけだったのに)
スクラップブックに張り付けられた『白無垢』の名。
それは世界中の誰もが知っていて、けれど『セブンス』を知っているのは自分だけ。
いつもはスクラップブックをめくるたび、そんな優越感があった。安堵があった。
けれどいまは、そのふたつを結び付けられる人間がもうひとりいる。
「わぁ! ここもいっぱいあるです!」
(えぇ……そうよ……こんなにもたくさんの、セブンスを知らない人たちがいるの……)
そのたくさんのなかで唯一であること。
それはマリーにとっての誇りであり、拠り所でもあった。
(―――どうして、私はセブンスの恋人になれたのかしら……)
世界を股に掛ける暗殺者であるセブンスと打って変わって、自分はいたって普通の人間だ。彼女と出会うよりも以前から、記事の裏側にある非日常の世界に憧れていた。それだけの一般人だ。
セブンスとの出会いはぐうぜんだった。
通り魔かなにかに襲われて、腕を斬りつけられて。
驚いて転んだ拍子に頭を打って、意識を失ってしまって。
その時ぐうぜんその場にいて、病院に見舞いに来てくれた彼女と仲良くなって。
彼女はとても格好のいい人で、まさにマリーのタイプそのものみたいで。
そしてそう、病院でも、他の人に目もくれず、自分だけを見てくれたから。
(ずっと。ずっとセブンスは、私だけだったのに)
どうしてと、そう問いかけたことがあった。
あれは初めて彼女に抱かれた日だった。
彼女は、あのときも同じような笑みを浮かべていて。
そして、すこしだけ恥ずかしそうに答えた。
(『マリーは甘い蜜の匂いがしたから』……だったかしら)
意味が分からなくて自分の身体をくんくんと嗅ぎ始めた自分に、彼女が苦笑しながら説明をしてくれたのを覚えている。
―――セブンスには、すこし特殊な感覚があるという。
魔力に匂いや味を感じるという、そんな感覚。
それも、魔臓から染み出して血液に溶けた魔力だけに。
それは人によって違うものらしく、マリーの血液に惹かれてしまったのだと。
最初はおかしな理由で好かれたものだと戸惑ったものだが、その後彼女が大量の血を浴びてきた裏の住人であることを知ってマリーは―――歓喜したのだ。
たくさんの血を匂い、味わってきた彼女が、そのうえで見初めてくれたのだという感動があった。人殺しであることがどうでもよくなるほどに衝撃的だった。
だからセブンスには自分だけだと思った。
しかし。
(シロも……そうなのかしら)
甘い蜜の匂い。
それとも、もっと惹かれるような。
(もしかして、私より前にも……?)
不意に過(よぎ)った思考に血の気が引く。
それは、これまで考えたこともないことだった。
セブンスという冷酷な裏の世界の存在と、恋愛という要素があまりにも乖離(かいり)していた。
寝物語にセブンスの過去を聞いたことはある。その中には一緒に仕事をした人間がいたという話もあった。けれど恋人がいたなどと語られたことはない。
いるわけがないとそう思っていたから、マリーも尋ねなかった。
(でも、もしかしたら)
もしかしたらと。
そう思うだけで、マリーは気がつけば奥歯を噛み締めていた。
自分以外の、誰か。
自分の知るセブンスよりも―――もっと深い姿を知るかもしれない誰か。
いるはずがないという気持ちが疑いに染められ、いるに違いないという被害妄想めいた確信へと変貌する。
その誰かを心の底から憎んだ。
それを秘密にするセブンスになにかやましいことがあるのではないかと疑ってしまう。彼女に抱かれる心地よさが誰かによって作られたものかもしれないと思うと反吐が出る。もしかしたらいまだって、いつかだって、彼女は本当は仕事にかこつけて誰かと―――
(ああ……そんなわけがないのに……)
そんなわけがない。
理性ではそうと分かる。
いままで一切の疑いなく彼女を愛してきたのは、少なくともいまは、彼女が間違いなく自分だけを見ているという実感があったからだ。
それに昔のことだって、セブンスもいい年をした女性だ。自分だって彼女が初恋ではない。それが元カノのことをぐちぐちと気にするのは馬鹿らしいことだ。本心からそう思う。
(この嫉妬深さのせいでフラれたのに、まったく成長できてないわ、私……)
誰かに向いていた嫉妬心が一転、自分の情けなさを責め立てる。自分のために命を張るセブンスを恨もうとする身勝手さにほとほと呆れてしまう。
(セブンスが帰ってきたら話を聞いてみて、そして嫉妬をちゃんと伝えて、それからいっぱい愛してもらえばいいわ)
マリーはそう結論付けて、不毛な思考にケリをつけた。
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