第83話 勝ち逃げ

 とうとう速応大学との試合の日がやってきた。お互いにここまで三勝を稼いでいる。つまりこの試合に勝った方がこの五大学野球の優勝者となるのである。お互いが並びあって礼をして試合は始まりを告げたのだが、どういうことか速応の選手たちのうちのけっこうな人数の顔色が明らかにすぐれない。


「なあ楪大監督さんや」


 先攻となった皇都大学。ベンチで俺は楪に話しかけた。


「ええ、言いたいことはわかります。速応大学の選手たち明らかに士気が低いです。いまなら勝率は五分五分まで持ってけます。でもどうして…?」


 楪の膝の上に乗っているノートパソコンには速応大学のキー選手たちの華麗なるプレイが写されていた。だがそれと比べるといまマウンドに立っている彼らの動きは精彩に欠けている。マウンドでピッチングしている今給黎は調子が良さそうだ。だけど彼は他の選手たちを見てあからさまに嫌そうな顔をしていた。素人目から見ても速応大学野球部はガタガタな状態のようだ。


「ねぇ常盤、楪。あいつ嗤ってるんだけど」


 ヘッドコーチな綾城が親指で背中の後ろを指す。ベンチの奥で読書に興じる葉桐がいた。いつも本を読んでいるときは神妙な顔をしているのに、今日はどことなくにちゃついている。


「おまえ、みんなの前でスポーツマンシップに則ってうんちゃらって誓ったよね?」


「なんでもかんでも僕のせいにしないで欲しいね」


「ついこの間までノリに乗ってたチームが一瞬にして瓦解してんだぞ。お前以外にこんな状況をつくれる奴いる?」


 俺がそういうと葉桐は本から顔を上げて微笑を浮かべる。別に褒めてないのに、褒めらて嬉しそうな子供みたいな顔してる。悪事を指摘されて喜んじゃうこいつのメンタルはマジでゴミだと思う。


「勝利はすべてを肯定する。ゆえに勝利につながる行動のすべては善に属するんだよ。だから僕はなにも悪いことをしてないんだよ。わかるかい?」


 こんなのは屁理屈にすぎない。だが俺だって二進も三進も行かなくなれば、なんだってするだろう。そういう点では反論しがたい。だけどやはり言っておかなくてはいけない。


「そんなのかっこよくねぇんだよ」


「わからないなら、むしろそのままでいてくれ。君が勝利にこだわらないような人間なら対処はしやすいのだからね」


 俺らは絶対に噛み合わない。ポリシー、イデオロギー、どんな言葉でもいいが決して交わることはない。まじで腹立たしい。いつか絶対に泣かしてやりたい。




 そして試合は俺たちにとってわりと優位に推移していった。今給黎以外の選手はみんなやる気がない。なにかに怯えているような雰囲気だ。それでももとの能力が高いから、ヒットやらは出てくるのだが、いずれも守備でなんとか捌けた。今給黎以外はだが。今給黎がバッターボックスに入る前に、皇都大学側のスタンドに向かって大声で叫んだ。そこでは皇都大学のチア部とミランのダンスサークルたちが可愛らしい応援パフォーマンスを行っている。


「君に今から特大の愛を捧げるから!!」


 外野の俺のところにも聞こえてくる愛の告白。五十嵐への今給黎のポロポーズだろう。なんかすごく青春の香りがする。羨ましいことこの上ない。だけどとうの五十嵐さん、恥ずかしがるでもなく、嬉しがることもなく、まるで能面のような顔で今給黎の声を聞き流していた。こわ。あの顔本当に嫌だな。だけど悲しいかな、あの能面のような顔は、ひどく美しいのだ。人狂わすくらいに美しい…。そして今給黎はバッターボックスに立つ。バットで堂々と外野にある得点盤を指している。それにイラっとしたのか、葉桐が眉を吊り上げる。本当に挑発にすぐに乗る男だ。その時だ。楪が青い顔で葉桐に向かってサインを送っていた。そのサインは本大会では初めて使用するものだった。それは『敬遠』のサインだった。いまはツーアウトで走者はいない。なのに楪がそれを出すっていうのは相当ヤバいって証拠だ。だけど葉桐はそのサインをシカトし、いつものペースで投球を始めた。一球目はカーブだった。それは鋭い曲線を描きキャッチャーのミットに入る。


「ストライク!!」


 葉桐はニヤリと笑っている。今のカーブはプロレベルの玉だ。得意顔になっても無理はない。そして次は高速のスライダー。152kmの速度を記録してキャッチャーのミットに収まる。


「ストライクツー!!」


 観客席がわーっと歓声に包まれる。観客には葉桐は今やスター選手のごとく輝いてみているのだろう。そして葉桐は三球目を投げた。それは切れのいいホークボール。確実にバッターの空振りを誘うような軌道を描いていた。だけど。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!大好きだぁあああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 なんと今給黎はそのホークボールを救い上げるように打って見せたのだ。


「え?まじ?!おいおいおい!!」


 ボールはピッチャーの頭の上を越え、センターの上を通ってギリギリのところで外野のフェンスを越えてみせた。


「「「「「「わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」」」」」」」


 スタジアムは大きな声に包まれた。今給黎は堂々とダイヤモンドを回る。今日まで一点も許さなかった葉桐のピッチングを今給黎は超えてみせたのだ。そしてホームベースを踏んで、速応大学に一点が入った。葉桐はひどく不機嫌な顔をしていた。初めてあんな顔を見るような気がする。荒れてそう。だが次のバッターからはちゃんと三振を取って攻守交替となった。俺は外野からベンチに戻っていく。そして皇都大学の応援席に目をやったチア部もダンスサークルもどこか意気消沈としている。ミランは俺を見ると微笑んで旗を振ってくれた。応援の暖かい気持ちが伝わってきて嬉しかった。そして五十嵐はというと、どことなく紅潮したそして得も言われぬ色気がある笑みを浮かべていた。瞳はうっすらと濡れている。その瞳で俺を見詰めていた。そして視線が絡み合ったときに、彼女の唇が動いた。一応読唇術の心得があるので、何を言おうとしているのか読み取ってみた。


『ワタシハドコニサラワレチャウノ?』


 その言葉の意味を理解したときにドキッと心臓が揺れた。俺は五十嵐に負けたら、連れ去るからと約束した。彼女はそれを憶えていた。そのことにひどく昂揚する自分がいる。そうこのまま負けてもいいのだ。そうしたら俺は五十嵐を攫っていくだけなのだから。勝利にこだわる理由が俺にはなかった。男たちの全身全霊をかけた勝負を横から俺は台無しにすると五十嵐に誓ったのだ。甘い甘い約束。それに俺は浮ついてしまったと思う。気分よくベンチに入り、ニヤついてしまう頬を必死に抑えていた。


「なんで君は嬉しそうにしている?チームが負けそうなのに?そんなに僕の失態がうれしいか?」


 葉桐が俺のことを睨んでいた。不機嫌さを隠しもしない。そのせいでベンチの空気がすごく悪くなっていく。だけどそれでも俺のニヤつきはちっとも消えてくれない。


「いや違うそうじゃない。お前は関係ないよ。うん関係ない。関係ないところの話で笑っちゃってるだけだから気にするな」


 どうやって五十嵐を攫ってしまおうか。さっきからそればかり考えている。そしてどこへ行こうか。彼女の手を握ってどこまでも行けるのだから。


「…君はまさか…!理織世と何かを約束したのか?!」


 恐ろしい程に優れた勘だった。さすが幼馴染様だ。


「ああ、そうか。この番狂わせはそういうことか…!」


「いやお前が今給黎を舐めてただけでしょ。あいつはプロレベルなんだし」


 今給黎で思い出したけど、あいつの目の前で五十嵐を攫って行くのはどうだろうか?あいつはきっと悔しがるだろう。キリンさんの時のようなほっぺたにチューなんて生ぬるいやり方はしてやらない。舌を絡めあうところをみせつけてやろうか?


「やはり祈りは重ならず、それぞれは愛を分かち合うこともなく、誰の願いも叶わない…」


 俺が妄想にうつつを抜かしている間に、葉桐はひどく神妙な顔になっていた。そしてスマホでどこかへと電話をかけ始めた。まあなんか陰謀をしているのだろう。勝手にやってくれればいい。今の俺は甘い妄想の中で遊びたくて仕方がないのだから。






 そして葉桐の打順が回ってきた。葉桐はバッティングでも優れた能力を発揮する男だ。だけどこの状況では無理だろう。速応大学のピッチャーは有能だった。葉桐の順が回ってくるまでにすでに三振を二つ取っている。ホームランでも打たない限り、ここであいつができることなんてないのだ。だが葉桐はどこか余裕そうな笑みを浮かべていた。そしてピッチャーをひとにらみする。するとピッチャーはあからさまに恐怖のような表情を浮かべている。


「なんだ…?勝ってる側のピッチャーの顔じゃねぇぞ?」


 俺と同じ違和感を綾城も感じているようで、首を傾げている。楪はノートパソコンとピッチャーを見比べて、突然立ち上がり。


「カナタさん!タイムを!タイムを早くとってください!」


「どうした?何が起きるんだ!」


「タイムを!早くタイムを!!」


「いや楪。タイムは葉桐の許可がないと取れない。それが俺たちのチーム加入条件だ」


 実質的なチームの支配権は葉桐にしかない。タイムなんかを取ることは俺にはできないのだ。


「ああ…そうでした…カナタさん…お願いです。わたしの目を後ろから塞いでください。優しく塞いで…タイムが取れないなら、この先は見たくないんです…」


 楪は恐ろしさに震えている。何を彼女は予測してしまったのだろうか?とりあえず俺は楪の言うとおりに彼女の目を後ろから両手で塞いだ。そしてピッチングが始まる。


「ストライク!」「ボール!」「ボール!」「ストライク!」「ボール!」


 あっという間にツーストライクスリーボール。とくに何も起こる様子がない。だけど楪はガタガタと震えている。


「怖いです。あの本当に怖い!いかれてます!あんなことをやる気になったなんて!怖い!いやぁ見たくない!」


 楪の怖がり方は尋常ではない。そして六球目が投げられる。それはかなりの速球だった。そして高めの軌道を描いてバッターボックスの方へ飛んでいく。そう。そのボールの軌道は…。ぼぐぅっと鈍い音が響いた。


「きゃああああああああああああああああああああああ!!!ひろぉおおおおお!!」


 スタンド席から悲鳴が上がった。真柴の悲しみに満ちた痛々しい声だった。そしてスタジアムはざわざわとした声で満たされる。


「…ああ…そういうことか…くそ野郎…!」


 俺は楪を後ろからぎゅっと抱きしめる。綾城も俺たちに抱き着いてきた。


「勝負に負けそうになった時に、ひっくり返す方法が一つある。負けても仕方がない理由を作ってしまえばいい。でも本気でそれをやる奴なんて初めて見たわ…イカれてるわね」


「…だから見たくないんです。狂気なんてみたくない!こんな幼稚な狂気は見たくない!気持ち悪い!!」


 バッターボックスに救護員が集まってきていた。みんなが倒れている葉桐を心配そうに見つめている。そう、六球目はストライクでもボールでもなくデットボール。ヘルメット直撃のきわめて危険な球。それを投げてしまったピッチャーは青い顔で俯いている。


「勝てないなら被害者ポジションについて、賭け事そのものをうやむやにする。ふざけたやり方だ。信じられない…!」


 おそらくさっきどこかへ電話したのがそれだったのだろう。きっと速応大学野球部も今給黎以外は弱みを握られているのだろう。ピッチャーに命じて葉桐は自分を標的にわざとデットボールを発生させた。これならば試合に負けても、悲劇のヒーローとして人々から同情を買うことができる。今給黎だって勝負で五十嵐のことを持ち出せなくなるだろう。葉桐はデットボールで勝ち逃げしてみせた。俺は内野スタンド席にいる五十嵐に目を向けた。彼女はぺたんと力なく座り込んでいた。その顔は恐怖か悲しみか何かよくわからない何かに満たされている。ミランがそばに寄り添って、必死に慰めているようだ。さっきまで五十嵐は俺のことを見てたのに、その気持ちさえも葉桐は卑劣な手段で持ち逃げした。俺は葉桐という男の恐ろしさを改めて知ることになってしまったのだ。

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