第16話 もう一仕事

 二学期が始まると、先生たちの表情もどこか引き締まっているようにも見える。体育祭も終わり、お盆に帰省し、夏を満喫した私たちは余裕のできた心の隙間に自分たちのやるべき使命をすっぽりとはめて仕事に臨む。私も例外ではなく、大きな声で朝の挨拶をした。


 始業式が終わると案外、あっさりといつもの授業風景に戻る。冷房のいらない教室は久しぶりだ。窓の外を覗くと、ずんぐりとした体つきの鳥が膨れた木の実をつついている。


 丸山先生の退院が九月に決まったこともあって、私の心の中ではあとひと踏ん張り頑張ろうという気概が風船のように膨らんでいた。より一層張り切って授業に参加する。そうすることで、ちょっとでも眠気に目を擦る生徒にも楽しい時間になってくれたらいい。


 夏休みが明けて一週間が経った。週の中日である水曜日という日は、風船が萎れないように、どこかで空気を入れ直さなければならない。


 職員室を出ると、ちょうど西口にしぐちさんとばったり出会った。


「あれ、西口さん。何か用事?」


 西口さんと話すのは体育祭のときぶりだ。西口さんの肌は雪のように白い。あんまり外には出なかったのかな?


「小山先生に用があってきたんです。部活のことで」

「そうなんだ。でも小山先生今は会議でいないよ? 伝言でもよかったら私があとで伝えておこうか?」

「あ、大丈夫です。そしたらまた明日来ます」

「そっか」


 西口さんはペコペコと頭を小刻みに下げた。ちょっとだけまだおっかなびっくりだけど、これでも体育祭の前に比べたらスムーズなコミュニケーションがとれるようになったと思う。ちょっとでも私に心を許してくれたのなら嬉しい。


「あの廊下に貼ってある絵って、西口さんが書いたんだって? すっごく可愛いね」


 職員室の前の壁に「廊下は静かに渡りましょう」という紙が貼られている。そこには口元に手を当てた女の子の絵が描かれている。素人目に見ても、上手だった。


「ほ、本当ですか。あ、ありがとうございます。ちょっとオタクっぽいかなって思ったんですけど」

「別にいいと思うけどな。それに私だってアニメとかよく見るし、あれって前期やってた奴でしょ? 私も見てたよ」

「え! そうなんですか! 先生もアニメとか見るんですか!?」


 西口さんにしては珍しい声だった。目をキラキラさせて詰め寄ってくる西口さんに気圧されながらも、私は答える。


「うん、最近は忙しくてちょっとしか見れないけど。同じ会社の、ふれプリも見てたよ?」

「う、うそ! 誰推しですか!?」

「私はねー、ニーミちゃんだったなー」

「ニーミちゃん! いいですよねー! わたしはリッカ推しでした。リツニミも好きなカプだったので! わー! なんだかすごく嬉しいです、こんな身近にふれプリの話をできる人がいたなんて、しかも先生だなんて!」

「あ、あははちょっと声がおっき――」

「今度リツニミの絵書いてきます! 他にもいろいろ、あ、地雷とかありますか!?」


 廊下に声が響いちゃってるので注意しようかと思ったんだけど、それすらも遮られてしまった。


「ちょっとにっしー探したんだけど、何してんのー? こんなところで」


 すると後ろの方から細川ほそかわさんが現れた。今から帰りだろうか。


「本屋行くって言ったじゃん。玄関でずっと待ってたんだけどー」

「あ、ご、ごめん細川さん今行くね」


 向かえも来て、西口さんはもう一度頭を下げた。細川さんも、手首についたブレスレットを見せつけるように手を振ってくれた。


「気をつけて帰ってねー」


 二人の背中を見送る。なんだか、仲良さそうにしていたな。西口さんにも、友達が一人増えたようでよかった。細川さんも見た目の割には問題事も少ないし、安心かな。


 ホッと一息ついて職員室に戻ろうとすると、


「人気者ですね、灯波先生」

「うわあ!?」


 いつのまにか隣に立っていた和久井さんに気付いて慌てて飛び退く。全然気付かなかった・・・・・・!


「もう、どうしてあたしのときはそんなに驚くんですか? 西口さんのときはそんなんじゃなかったじゃないですか。あ、わかった。もしかして」


 飛び退いた私を追うように、和久井さんが顔を寄せてくる。


「あたしのこと、意識してくれてるんですか?」


 筆先で背中をなぞられたかのように、全身が逆立つ。


「和久井さん、学校ではあんまりそういうことは」

「ごめんなさい。でも、灯波先生の反応が可愛くて。その前髪のヘアピンも似合ってますよ」


 前髪が垂れてきて、美容室に行くタイミングもなかったので今日からヘアピンで留めることにしていた。学生の頃に使っていたものだからちょっと派手かなと思っていたけど、和久井さんに褒められてホッとした。というか和久井さん、気付いててくれたんだ。


 って、そうじゃない。


 あんまり立て続けに褒められると足が地面からふわふわと離れていってしまうので、一度雑念を振り払って、土踏まずのあたりに意識を落とした。


「なんでがに股に?」

「気合いをいれるため」

「なんですかそれ」


 和久井さんが肩を揺らして笑う。


 最近、和久井さんはこうして笑うことが多くなった。愛想笑いではない、お腹の奥から響くような、そんな笑い。


「あの、灯波先生。今夜も会えませんか? 特にどこかへ行きたいってわけでもないんですけど、今日は星もよく見えるらしいですし、灯波先生と一緒に過ごしたいんです」


 袖をつままれてそんなことを言われては、なかなか断りづらい。だけど今日は水曜日、とても大事な用事があるのだ。


「ごめんね和久井さん。今日は用事があるから」


 そう言うと、和久井さんはわかりやすいくらいにしょんぼりとして肩を落としてしまった。


「日曜日なら会えるから、ね?」

「・・・・・・はい。分かりました。ごめんなさい灯波先生、ワガママ言って」

「そんな風には思ってないよ」


 肩に手を置くと、和久井さんは溶けたように目を細めた。


「それじゃあ灯波先生。また明日」

「うん、気を付けて帰ってね」


 和久井さんが黒い髪を揺らして帰っていく。歩き方も、その風貌も、まるでモデルさんみたい。背中からでも伝わってくるそのオーラに、時々気付いたかのように圧倒されてしまう。


 あんな子に言い寄られたら、誰だって顔が熱くなる。私は両頬に手を当てたまま、職員室に戻って支度をした。


 仕事をある程度終わらせて、私は隣町にある魚の市場通りと呼ばれる場所に向かった。ここに和久井さんのお父さんが経営する直売店があるらしい。


 車を停めて外に出ると、潮と磯の混じったような香りが鼻奥を突く。砂浜を駆け回っていた、まだ小さかった自分を思い出した。


 夕方近くということもあって、もう店は閉まっていて魚も出ていない。


 ヒールを鳴らして歩くと、濡れた地面に滑って転んでしまいそうになる。私は慎重に和久井さんのお父さんの姿を探した。


 釣り竿を垂らしている人も、こういう手繰るような気分なのだろうか。


 市場は広く、中々か奥が見えてこなかった。当然だけど営業時間の過ぎた市場に人はいない。もしかしたら和久井さんのお父さんもとっくに帰ってしまったのかもしれない。そう思った矢先、台車が一つ、店前に止まっているのを見つけた。


 そろりそろりとそこを目指すと、突然、大きな木箱が現れて、目の前の台車にドスン! と乗せられた。


「それ運んでくれますかー!」

「え?」


 よく見ると、店の奥に人影があった。ピンクのポロシャツを着ていて、露出された腕にはたくましい筋肉が浮き出ている。風貌から予想するに、三十代くらいだろうか。


「次もありますんでー!」


 店の奥から聞こえる声は、どうやら私に向けられたものらしい。


 えーっと。


「そこの倉庫ー!」

「は、はい!」


 なにがなんだか分からないまま、私は台車に乗せられた木箱をせっせと磯臭い倉庫に運び始めた。


 ・・・・・・どういう状況?

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