第3章
第11話 背徳カスタード
例年に比べて、猛暑が来るのが早かった。私が子供の頃は八月が暑さ本番というイメージだったけど、今年は六月の終わりには最高気温三十七度を記録して、逆に八月になると、日差しも弱くなり秋の訪れを感じさせた。
外にいる虫たちも混乱しているようで、一瞬涼しくなった頃にトンボが顔を出したけど、すぐに暑くなってまた見なくなった。再び気温が低下しても、トンボは出てこない。
地球の温度でさえ、毎年同じようにはいかないのだから、私たち人間が不変を望むなんて馬鹿馬鹿しいことなのかもしれない。それなのに、変化を億劫に感じ、進歩と捉えない風潮がどこかにある。
三十五度を超えた日を猛暑日というらしいけど、これから先、温暖化が続いて四十度が当たり前になったら、この猛暑日という言葉自体が廃れていき、四十度を基準とした新しい常識が組み立てられる。
結局、常識っていうのはどんどん変わっていくもので、今はおかしい、異端、右にならえができない。そういう風に非難されているものが当たり前になる日がいつかは来る。
要は生まれた時代に合わせて生きていかなければいけないのが私たち人間の宿命で、そこに優劣や善悪なんてないのかもしれない。
そもそも常識なんて、一体誰が作ったのか。顔も生まれも知らないどこかの誰かが作ったルールに従い、従わなければ罰せられる。もしかしたら、あと数年経てば許されている事柄かもしれないのに。
簡単に許してしまってはいけないということも分かる。一つを許してしまえば後に続く者が後を絶たない。そういう無限にも思える連鎖を断ち切るために、そもそもの原因を潰す、発生させない。そのために秩序というものが存在しているということも分かっている。
だけど、目の前に生きる人に対して、それは間違っていると言うのは、果たしてルールに則った回答なのだろうか。
当たり前に生きることのできる人と、当たり前には生きられない人がいるのに、どうやって基準というものを作ったのか。考えれば考えるほど、私たちが何に突き動かされて生きているのか、不明瞭になっていく。
「
病室に入ると、薄いカーテンが揺れていた。丸山先生は開け放った窓の先にある木々をじっと眺めながら、うんと背伸びをした。
「久しぶりだね、
丸山先生がシャツをめくると、大きな湿布が二枚、貼られていた。周りの皮膚が、微かに赤みを帯びている。
「今日はどうしたの? 今は夏休みだったと思うんだけど」
「駅前にシュークリーム屋さんができたみたいなので行ってみたんです。並んでなんとか買えたんですけど、それがすごく美味しくて。慌てて戻って、もう一度列に並んだんですけど、そこで丸山先生がシュークリーム好きだということを思い出して、ちょうど近場だったので寄り道させていただいたんです」
「えー! シュークリーム! 嬉しいなぁ。病院食って薄味だからさ」
丸山先生は子供みたいに目をキラキラさせて、こちらに向き直った。
保冷剤の入った袋からシュークリームを取り出して丸山先生に渡す。カスタードと抹茶があったんだけど、丸山先生はカスタードを選んだ。
「体育祭はどうだった? 楽しめた?」
袋を丁寧に開けながら、丸山先生が私を見上げる。春と比べると、少しほっそりとしただろうか。
「はい。生徒も先生たちも、なんだかいつもと雰囲気が違って、楽しかったです。見たことない一面も見れて、ちょっと仲良くなれた気がします」
「それはよかった。
「そうですね。最初の頃は怒られてばっかりで実はちょっと怖かったんですけど、最近は優しくなったというか・・・・・・親身に接してくれます」
「灯波先生の頑張りが伝わったんだろうね。時々厭味なことを言うけど、悪い人じゃないんだ。・・・・・・うわ、このシュークリーム美味しいね。皮に空洞がない!」
そうやってはしゃぐ丸山先生の口元に、カスタードが付いちゃってる。
「私、頑張れているんでしょうか」
「頑張れていると思うなら頑張れているし、もっと頑張らなきゃって思うなら、もっと頑張ればいい。まあ僕から見たら、灯波先生はこれまで一緒に仕事をしてきた誰よりも熱心だと思うよ。時々頑張り過ぎちゃって大丈夫かなって不安になるときもあるけど」
「すみません・・・・・・」
「いやいや、灯波先生みたいな人は今どき珍しいからさ。生徒のことを何よりも大切にしてるってことは僕にも伝わってきたし、生徒ノートもそろそろ書くところがなくなってきたんじゃない?」
「実は、夏休み前に二冊目に突入したところです」
言うと、丸山先生は「わーお」と両手を上げて驚いたような仕草を見せた。
丸山先生はシュークリームをぺろりと平らげて、満足げに口元をティッシュで拭いた。
「お茶もありますので、どうぞ」
「ありがとう灯波先生。ごめんねぇ、木から落ちただけでいたれりつくせりで」
「そんな、私、丸山先生にたくさんのことを教えてもらいました。そのおかげで今もなんとかやっていけてます。もちろん他の先生方のサポートのおかでもあるんですけど」
副担任を掛け持ちでしてくれている太田先生や、指導経論の
本当にみんな優しくて、その分、私も頑張らなくちゃって前を向くことができる。
「みんな灯波先生のこと応援してるんだよ」
「はい。本当に、ありがたいです。私、もっと頑張ります」
みんな優しい。
この世界は、優しさに包まれている。
それなのに、何故だろう。
正体不明の焦燥感が、殺気を纏って私の背中を追ってくる。
優しいものに囲まれているからこそ、なのかもしれない。
「あ、あの。丸山先生」
「うん? どうしたの?」
「生徒と仲良くなりすぎるのって、いけないことですか?」
私があんまりにも変な顔をしていたからか、丸山先生は口元を綻ばせた。
「先生によるよ。野球部の関屋先生はしょっちゅう部員の子たちを食事に誘ったりしてるし、英語部のジョイ先生はよく自宅でリスニング教室と称して部員とお茶会を開いているみたいだし、先生が負担とならない程度なら、仲良しというのは良いことだと思うよ」
「そ、そうですか」
例にあがった先生たちの隙間に、私は入り込めるだろうか。ジグソーパズルのような規則正しい形ではない、こんぺいとうみたいな私に。
「まぁ、よく生徒と教師の関係で警察沙汰になることはあるけど。あれも節度を守らなかったってだけの話だし。灯波先生もまだ若いから生徒との距離が近くなることは当然あるだろうけど、灯波先生なら心配いらないかな。僕は灯波先生の思うように生徒と接してくれたらなって思うよ。灯波先生の生徒を思うその信念は絶対に間違ってないって僕は信じてるから」
丸山先生が、屈託のない笑顔を見せて、私の肩に手を置く。
「これでちょっとは、灯波先生の悩みに役立てたらいいんだけど」
「・・・・・・分かりますか?」
「入って来たときから神妙な顔をしてたからね。大丈夫、他の先生も付いてる。一人で抱え込まないで、本当に迷ったら、気軽に相談なさい」
「はい。ありがとうございます。丸山先生」
頭を下げて、病室を出る。
過ぎゆく人たちは、足を引きずったり、壁に寄りかかったり、手すりに掴まったり、必死に前を向いて歩こうとしている。それぞれ抱えるものがあるように、それぞれが自分の答えを見つけるために頑張っている。
病院の外に出ると、スマホが震えた。
『先生、今って会えますか?』
メッセージアプリに、私の生徒の名前が表示される。
『会いたいです』
続くその言葉が、頭の中に響き渡る。
それはまるで、ぎっしり中身の詰まったシュークリームみたいに。
私は車に乗り込むと、急いでエンジンをかけた。
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