第2話 一人前になるために
教室に入る前、緊張するのはいつものことで、隣にいつもいてくれた丸山先生がいない今、私の心の糸はピンピンに張り詰めていた。
そろそろホームルームが始まるというなかで、まだ廊下にいる生徒は多い。その一人一人に声をかけることは難しくって、見て見ぬふりをしてしまいそうになる。
「そ、そろそろホームルーム始まるよー! みんな教室に入ってー!」
それでもなんとか張り上げた声が廊下の奥まで響き渡ると、一斉に視線がこちらに向く。向くのと同時うわやっちゃったー! と顔が熱くなる。逡巡する思考を追い越していく私の慌ただしい声が、ようやく反響して返ってくる。
気付いたら行動してしまっていた私は、はたして勇敢なのか、それとも目の前が見えていないおっちょこちょいなのか。分からないけど、とりあえず今は、ぷるぷる震える唇を一生懸命締めるしかなかった。
「えー? もう?」
「ほら戻るよ。灯波ちゃんが言ってるんだから」
「はーい、また後でねー」
残っていた生徒がそれぞれ教室に戻っていく。普段こんな思い切ったことできないんだけど、丸山先生がいない今、私がやらなくちゃという使命感が背中を後押ししてくれた。
よし、今日は声が出るし、頭も冴えてる。毎朝続けてきたラジオ体操と発声練習がついに功を成したのかもしれない。
正直、まだ一年目なのに担任だなんて不安で仕方がない。なんで私が? 私で大丈夫? という思いでいっぱいだった。私はこれまで、私自身を信じ切ったことはあまりない。でも、私を頼ってくれた人がいる。私に託してくれた人がいる。
自分のことはいまだに信じ切れないけど、私を信じてくれた人を信じよう!
弾かれるように扉を開けて教室に入る。
「おはようございまーす!」
「灯波ちゃんなんか落ちたよ」
一番前の席の子に指摘されて振り返る。プリントが一枚、床に落ちていた。バインダーにきちんと挟んでおいたはずなんだけど、勢いよく扉を開けすぎて反動で落ちちゃったのかもしれない。
「お、おはようございまーす」
仕切り直して二回目の挨拶。心なしか一回目よりも尻すぼみになっていく語気。
いやいや! ここで凹んでちゃダメだよ
「えっと、それじゃあホームルームを始めますね!」
「あれー? 灯波ちゃん、丸山先生は?」
教卓の目の前に座る女子生徒、
「丸山先生は昨日から高部病院に入院されているの。あっ、怪我で。えっと、完治には四ヶ月ほどかかるそうだから復帰は秋くらいになるとのことです」
私がそう言うと、細川さんも目を丸くして、他の子たちもざわざわし始める。
「なので! 今日から私が丸山先生の代わりにこのクラスの担任となります。それで、副担任は太田先生が他クラスと掛け持ちでやることになりました。みなさん、よろしくお願いしますね」
頭を下げると、初めてこの教室に来たときのことを思い出す。
元気よく私が挨拶しても返事はなく、興味なさそうな視線だけが空気のように教室に漂っていた。おはようございまーす! なんて言うのは小学生までだっただろうか。自分の過去を洗うと、垢のような学生時代が浮き出てくる。
寡黙になるのが、大人になるということだったかもしれない。
教卓に映る私の顔はひどく不安に駆られていた。あれから二ヶ月、私は変われているだろうか。
「そっかー、灯波ちゃんいきなりで大変だね。がんばー」
「灯波先生優しいから俺は歓迎ー!」
「丸山先生怪我ってどうしたん? 事故?」
ハッとして、顔をあげる。
「えっと、ご自宅の庭に植えている木から落ちてしまったらしくて」
「なんだそれぇ、ただのドジじゃん」
「病気とかじゃなくてよかったね」
各々の意見が飛び交う。人間が全員同じことを考えているわけではないということを、改めて認識する。
人それぞれ思想があって、行動原理も違う。だから唯一の悩みもあるし、その人だけが持つ夢や目標もある。一緒くたにしてはいけない。教育学部での講習でも教わったことだ。
目の前に座る細川さんも小さく手を振って「がんばー」と私に声をかけてくれている。その隣に座る
薄々危惧していた、私に対しての猛反発! 暴動! ボイコット! みたいなことは起きなさそうで、とりあえずホッとする。
「今日の午後には避難訓練があります。五限の終わり頃か、六限が始まる頃だと思います。放送が鳴ったらすみやかに移動するように。それから、消防署の方々も来校されるので、お喋りは厳禁でお願いしますね」
「マジ? 社会潰れるじゃーん。やったー」
私も学生のときは、避難訓練がラッキーイベントだったな。グラウンドに集合するせいで夏は日焼けし放題だったからちょっと嫌だったけど、午後の授業は眠気との戦いだったのでそれよりはマシだった。
けど、教員になってからもこれがラッキーイベントかと言われたら、そうでもない。特に私は今回が初参加だから、太田先生に教わりながら失敗しないように頑張らなきゃだ。
「ねー! 灯波ちゃん!」
「うん?」
「避難訓練終わったら俺と飲み行こー!」
「・・・・・・放課後はお仕事があるから、あと! 未成年なんだからそういうお店は行っちゃダメだからね!?」
どっ、と教室が沸く。
私がここに就任して一ヶ月は彼氏いるの? とそりゃもう、何回も聞かれた。そのたびに私は「いないしいたこともないです!」と返していた。日によっては半ギレみたいになってたこともあったかもしれない。
私が新入りで、他の先生より頼りないからイジってくれているということは分かっている。でも、それがコミュニケーションになって生徒たちと仲良くできるのなら、悪い気はしないのだった。
それからはスムーズにホームルームを終えることができた。チャイムが鳴って、生徒も席を立ち始める。私はバインダーと一緒に持ってきたノートをパラパラとめくった。
そこには二年二組の生徒の名前と、特徴が書き記されている。私はあまり記憶力が良いというわけではないので、早く生徒たちの名前を覚えられるようにと一ヶ月ほど前に作ったのだ。
教室に入ったとき、最初にプリントが落ちてると私に声をかけてくれたのが
教卓の目の前に座る子は細川さん。部活には所属していないけど週四でコンビニでバイトをしているらしい。性格は明るく、よく私にも声をかけてくれる。
その隣の中宮くんはよく居眠りをしていて、テストの点数もちょっとよくないみたい。でも聞き分けはいいから今後については話し合い次第だと思ってる。
こんな感じでノートに書き記しているおかげで、生徒の名前と顔はすべて覚えることができた。
太田先生は小学生の先生じゃないんだから、と言っていたけど、やっぱり私は高校教員とはいえど生徒とのコミュニケーションは大事だと思ってる。
でもまぁ、太田先生の言っていることも正しくて、思っていたよりも、教師というのは生徒のいないところでの仕事が多い。あまり無駄なことをして労力を増やすなという忠告なんだろうけど、新人は頑張ることが仕事だし。ちょっとの無理くらいはしないと一人前にはなれない。
そろそろ職員室に戻らなくちゃ。
立ち上がると、着てきたスーツが私の背筋をピンと伸ばしてくれる。
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