第7話 宴の準備

 最初に感じたのは、甘いお花の匂いだった。お花畑の真ん中に放り込まれたみたいな、むせ返るほどの匂い。少し匂いが強いなとは思うけれど、不快に思うほどではなかった。お花には甘い蜜がある。お花がいっぱいということは、たくさんの甘い蜜にありつけるということだからだ。

 いい夢が見られそうな予感がして、にゃんごろーは深く息を吸い込み、少しむせた。遅れて、焦げ臭いにおいと煙の臭いがやって来たのだ。お魚やお肉が程よく焦げていく匂いは好きだけれど、これはそういうワクワクする匂いではなかった。燃やしてはいけないものが燃えてしまった時の、よくない臭いだ。

 顔をしかめてケホケホしつつも、にゃんごろーはまだ眠りの淵でユラユラと微睡んでいた。固く閉じられた瞼は、ピクリとも動かない。安眠を守るため、嫌な臭いから遠ざかろうと、にゃんごろーは寝返りを打った。

 それが、大失敗だった。

 動いたことで空気が流れたのか、頼んでもいない新しい臭いがお鼻にお届けされたのだ。


「にゃ!? くちゃ! くちゃ! くちゃ! くちゃーい!!」


 にがーいお薬のような刺激臭にお鼻を襲撃されて、にゃんごろーはたまらず飛び起きた。明るい茶色の背中を丸めて、肉球のお手々で小さなお鼻を抑えながら、涙目で叫ぶ。

 すると、少し、しわがれた優しい声が聞こえてきた。


「おお、起きたか、にゃんごろー。ひとりで、よく頑張ったな。えらかったぞー」

「あ! ちょーりょー!」


 顔を上げると、すぐ目の前に、長老のお顔が見えた。ネコーの住処で消火活動を頑張っていたはずの長老が、穏やかに微笑みながら地面に座っている。ご自慢の白い毛並みは煤けているが、特に怪我もないようだ。

 どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。お昼寝がまだなのに、森の中を走ったり転んだり、地面にダイブして笑い転げたりと大忙しだった。おそらく、寝転んでいたせいで、自覚のないままスムーズにお昼寝タイムへと突入してしまったのだろう。

 にゃんごろーが惰眠を貪っている間に、長老たちは一仕事終えて、お船までやって来ていたらしい。救援班が森で宣言した通り、まだ夕暮れ前だった。

 にゃんごろーは顔を輝かせながら、むくりと威勢よく起き上がった。長老の、毛足が長くて、もっふもふのお腹に飛びつこうと両方のお手々を広げたが、その広げたお手々を「むぐっ」小さなお鼻に押し当て、長老からお顔を背けた。

 長老の煤けた毛並は、にゃんごろーを気持ちの良いお昼寝から呼び戻して、たたき起こした、香りの三段活用の発生源だったのだ。


「にょ!? くちゃ!? ちょーりょー、くちゃーい! ありゃって! ありゃってきちぇー!!」

「むぐぐ。しょうがないじゃろうが。これでも、川の水で汚れと臭いを洗い落としてきたのじゃぞ? これ以上は、お風呂でシャンプーをしないと、無理じゃ」


 にゃんごろーは、お顔どころか、長老に背中を向けて丸くなる。長老は、もっふもふの胸元の毛をさすりながら、憮然としたお顔で言った。

 そんなふたりを取りなすように、寸胴鍋をかき混ぜていた恰幅のいい女性が、快活に笑いながら話に入って来る。


「そう言うにゃんごろーも、草の汁と土埃で酷い汚れだよ? あとで、みんなまとめてお風呂に入って、匂いも汚れも綺麗に流してきな。でも、まずは、これを一杯飲んでからだよ。長老さんも、お疲れのようだからね。すこーし、お腹に何か入れないと。お風呂でひっくり返ってもいけないからね」

「そうじゃー! コーンスープ! 長老は、これが一等、好きなんじゃー。早く飲みたくてうずうずしとったわい! なのに、先に飲んだりしないで、にゃんごろーが起きるのをちゃーんと待っていたんだぞ? 感謝せい!」


 長老が恩着せがましく、むんと胸を張ったが、にゃんごろーには、まるで届いていなかった。

 女性の言葉で寸胴鍋の存在を思い出したにゃんごろーの全神経は、今再び、いい匂いを漂わせている鍋の中身へと向けられてしまったからだ。

ずっとお預け状態だった寸胴鍋の中身に、ようやくありつけそうなのだ。

 長老の存在は、にゃんごろーの頭の中からすっかり締め出されていたが、鍋の中身についての情報だけは、しっかり脳にインプットされていた。


「…………にょーんシューピュ?」

「にょーんではない! コーンスープ! トウモロコシのスープじゃ!」

「ちょーもろろしのシューピュ…………ジュル」

「こやつめ。トマトとキュウリは、何時如何なる時でも、ちゃんと発声魔法を使えるくせに…………」

「トマトとキュウリは、おいしぃれしょ。れも、いみゃは、にょーんスープの、はにゃしれりょ。ジュルリ。ちょーりょーの、いっちょーすきにゃ、にんれんのおりょうり…………」

「うむ、その通りじゃ。コーンスープは、長老が一等好きな、人間のお料理じゃ。よく覚えておったのぅ」

「うん…………。ジュルジュル…………」

「う、うみゅ。ジュルリ」


 長老に背中を向けたまま、にゃんごろーは、涎交じりのお返事を繰り返した。にゃんごろーに、コーンスープの発声を指導しようと頑張っていた長老だったが、最後には子ネコーの涎に釣られて、自分もお口をジュルジュルと鳴らした。

 人間たちは、笑ってそれを見ていたが、そうでないものもいた。炊き出しスペースには、長老とにゃんごろー以外にもネコーがいたのだ。

 ひとりは、ミルクベージュ―の女性ネコー、ルシアだった。もうひとりは、黒ブチの男性ネコー、にゃんごろーの畑魔法の師匠でもあるハミルだ。ふたりとも、長老に連行されてきたのだ。今回の騒動の原因であるルシアは、現場から自然な流れで連れてこられた。ハミルは、長老の手伝いにこそ行かなかったものの、森へ逃げ出したりせず、トマトとキュウリの菜園を守るために住処に残っていたようで、消火活動終了後に住処を見回った長老に発見されて、半ば無理矢理連れ来られたのだ。

 にゃんごろーは、長老との再開後はコーンスープにすべてを奪われてしまったため気づかなかったが、ふたりのネコーは、長老の背後にずっと立っていた。まあ、ふたりのネコーも、にゃんごろーが起きたことに気づいていなかったり、気にしていなかったりで、特に声もかけてこなかったので、お互い様かもしれなかった。

 ルシアは、長老と子ネコーのやり取りよりも、今日の失敗に思いを馳せているようで、腕組みをして何やらブツブツと呟いている。人間慣れしていないハミルは、周りが人間ばかりの状況が落ち着かないらしく、緊張した面持ちで、ソワソワと尻尾を揺らしていた。

 さて、ジュルジュルの子ネコーはというと、ルシアとハミルどころか、長老の存在すら忘れた様子で、コーンスープの鍋にトコトコと近づき、鍋をかき混ぜている女性をキラキラのお目目で見上げる。それから、にゃんごろーは、女性に向かって、肉球のお手々を両方とも差し出した。


「にょーんシューピュ。にゃんごろーに、くらしゃい」


 頑張ったご褒美をもらおうと、にゃんごろーは無邪気に女性を見上げた。おねだりをする声には、喜びと期待が込められている。お目目だけじゃなく、お口の周りも涎でキラキラしていた。お手々だけでなく、お口の準備もお腹の準備も万端だった。しかし、女性は無情にも「待て」を言い渡した。


「はいはい、ちゃんとあげるよ。でも、スープを味わうのは、もうちょっとだけ辛抱しておくれ」

「え!?」


 すぐにスープを飲ませてもらえると思っていたにゃんごろーは、まさかのお返事に、お手々を差し出したまま、ガーンと固まる。

お鍋の女性は、絶望のお顔で固まっている子ネコーを見下ろして、大笑いをした。


「あっはっは! そんな顔を、しなさんな! みんなにスープを配り終えるまでの我慢さね。長老さんだって、にゃんごろーが起きるまで、待っていてくれたんだからね。それくらいは、待てるだろう? 『いただきます』は、みんなで一緒にしようじゃないか。ああ、そうだ! 『いただきます』の合図は、にゃんごろーがやってくれるかい?」

「にゃ!?………………は、はい!」


 危うく、絶望の子ネコー彫刻になるところだったが、続く女性の言葉を聞いて、にゃんごろーは、もふりと復活を遂げた。

 おあずけの理由が、みんなで一緒に「いただきます」をするためならば、少しくらいは我慢できる。にゃんごろーだって「いただきます」は、みんな一緒の方がいい。その方が、お料理がおいしく感じるからだ。そのためなら、もう少しくらい我慢できる。我慢する。

 それに、「いただきます」の合図をするという、大役まで仰せつかってしまったのだ。

 あまりの嬉しさに、もふっと小さなお耳がピーンと上を向いた。

 高揚感が、子ネコーの全身を駆け巡っていく。

 もふもふした体を駆け巡る喜びの波動が、もふ毛の一本一本から、キラキラと解き放たれていった。巻き散らされた、目に見えないはずのキラキラは、炊き出し場全体へと満ちていき、そこにいるみんなの心に作用していく。

 恰幅のいい女性の采配により、炊き出し班は全員で、『いただきます』の準備に当たった。

 キラキラ子ネコーに、早くコーンスープを飲ませてやりたくて、もっとよろこばせてやりたくて。炊き出し班のメンバーは、うまく連携を取り合い、手際よく準備を進めていく。


 その甲斐あって。


 ほどなくして、にゃんごろーが待ち望んだ時がやって来た。

 コーンスープの宴の準備が整ったのだ。

 宴には、消火活動に勤しんだ救援班と、避難というよりは連行されてきたネコーたちだけでなく、炊き出し班も参加した。本来ならば、炊き出し班は避難ネコーをもてなす立場なのだが、新たな避難ネコーは当分現れる気配もないため、引き続きコーンスープの番人を買って出てくれた、お鍋をかき混ぜていた女性を残して、残りは全員宴に参加することになったのだ。

 宴の会場となった空き地は、青猫号の後部から伸びている道の北側にあった。かつて、大空を自由に飛びまわっていた青猫号は、森へ墜落し、動けなくなってしまった。森に落ちた青猫号は、そのまま森を滑り降りて、森の先の砂浜に顔を突き出したところで停止した。大破は免れたものの、飛べなくなってしまった青猫号は、それ以降、乗組員たちの住処として使用されることになった。お船の背後の大きな道は、滑り降りてきた時の跡を利用して造られたものだった。

 空き地の西側には、低い木立が並んでいた。その向こうには、砂浜があり、海がある。潮風が砂浜を駆けあがり、木立の隙間を通って、空き地の中を吹き抜けていく。

 にゃんごろーは、ミルゥと一緒に炊き出し班に交じって、風上側に座っていた。長老を含む消火活動に励んだ異臭組と、連行されたネコーふたりは、風下に追いやられていた。にゃんごろーたちが座る場所から、適切な距離が取られている。理由は、説明するまでもないだろう。異臭対策だ。菜園にいたハミルは、直接的な異臭被害を受けてはいないが、異臭を発する長老と行動を共にしている内に、匂いがうつってしまっていた。人間になれていないハミルは、異臭組の真ん中に陣取る長老の隣に、ルシアと挟まれる形で座っていた。

 にゃんごろーはといえば、長老と向かい合う場所で、トマトの女神であるミルゥの膝の上にのせてもらって、ご機嫌だった。

 長老とは、お互いに手を伸ばし合っても触れ合えない距離だけれど、寂しくはなかった。大声を出せば会話が出来るし、何より、ミルゥにかまってもらえることが嬉しかった。

 ミルゥの方も、脳内でハートが飛び交っていますと言わんばかりの顔つきで、子ネコーの頭を撫でたりお腹を撫でたりしながら、子ネコーに話しかけている。

 にゃんごろーは大はしゃぎで、グインと首を逸らしてミルゥの顔を見上げてお返事をしたり、今か今かと配られたカップの中身を見下ろしたりと忙しかった。コーンスープへの期待とミルゥとのお話に夢中なあまり、正面に座っているハミルとルシアの存在にも、いまだに気づいていない。視界には映っているはずなのだが、その情報はスルンと脇に流されて、子ネコーの脳みそまで届いていないようだ。ご褒美の乾杯をしようと約束を交わし合った長老のことさえ、今はスルーだ。

 長老は、スープの匂いに胃袋を掴まれつつも、少しばかり複雑な気持ちを味わっていた。

 にゃんごろーが青猫号の人間と仲良くしているのは嬉しいのだが、こうも相手にされないと面白くないのだ。

 ずっと一緒に暮らしてきた長老よりも、出会ったばかりのミルゥの方が好きになってしまったのではと考えると、落ち着かない。つまりは、ヤキモチをやいているのだ。

 長老は、「むぅ」と唸りながら目の前の地面に置かれたカップを見下ろした。

 クリーム色のトロリとしたスープが、湯気を立てている。まだ少し、熱そうだ。

 コーンスープは、長老の大好物だった。

 宴の開始が待ち遠しくて、ソワソワともふ毛を震わせながら、チラチラとにゃんごろーを盗み見る。

 コーンスープそのものも、もちろん楽しみなのだが、長老の大好物を初めて食べる子ネコーが、どんな反応を見せるかも楽しみなのだ。

 きっと、にゃんごろーも気に入ってくれるに違いないと思ってはいるが、だからこそ、食いしん坊な子ネコーの反応が楽しみなのだ。

 焦れた長老は、この場の指導権を握るコーンスープの番人へと、催促の視線を送った。

 番人の女性は、長老にはまったく気づかずに、ミルゥとじゃれ合っているにゃんごろーを見つめていた。ふと周りを見渡してみれば、人間たちはみな、子ネコーの魅力にノックアウトされてしまっているようだ。

 手早く準備を終わらせた割には、なかなか宴が始まらないと思ったら、みんなコーンスープのことはそっちのけで、ミルゥと戯れる子ネコー観賞に夢中になっていたのだ。

 長老は、もふぁもふぁ尻尾をバフンバフンと地面に叩きつけた。スープが行き渡ったお食事の場で埃を立てる長老に、すかさず番人からお咎めの視線が飛んでくる。

 長老は、哀れみを誘うお顔で、カップを両手で持ち上げ、番人に無言のアピールをした。

 番人は、腰に両手を当てて長老を睨みつけていたけれど、長くは続かなかった。頬を震わせて、「仕方ないねぇ」と笑み崩れる。

 それを見て、お許しが出たことを察した長老も「ほわっ」と破顔した。


 これでようやく、待ちに待った、「いただきます」のお時間がやって来るのだ。

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