嘆きの月とオリオンの騎士

俤やえの

前編 嘆きの塔

 セレーネはむせかえるような血の匂いにたまらず目を覚ました。ひどく痛む頭を抑えながら身を起こし、喉をひきつらせる。


「お父さま……?」


 玉座の上で事切れた父が視界に飛び込んでくる。震えながら辺りを見回すと、謁見の間には大勢の人が倒れていた。

 そこへ、宰相トリーアが現れる。トリーアは皺だらけの顔を歪ませた。瞳には、蔑みの色があった。

 穏やかな老翁しか知らないセレーネは震え上がった。

「王女が魔女に堕ちた」

 と、トリーアがしわがれた声で言う。宰相が引き連れてきた衛兵たちが、みな一様に顔を見合わせる。

 そして、セレーネを指さして叱責した。人殺し、魔女、忌むべき嘆きの子。

 混乱しながらセレーネは頭を振った。


「違います。わたしは、何も」

「嘆きの子はみなそう言って欺こうとする。──魔女を捕らえろ!」



 大陸歴七七〇年・冬。

 聖教圏諸侯に聖王庁から通達が走った。

『フェアリール王国にて凶事あり。第一王女セレーネ、嘆きの力により、国王と臣下を殺す。その咎により、ベルクフリートに幽閉。聖堂騎士団に告ぐ。十二の門を開き、速やかに魔女を【調律】せよ。これは聖王の神命しんめいである』



 鉄格子の向こうで、雪がちらついている。あれから何日たったのか、セレーネには分からない。寒さも空腹も感じなかった。

 外では、魔女の死を求める民の声がずっと響いている。王城に詰めかけた彼らは塔に向かって石を投げていた。

 その礫がセレーネに届くことはない。しかし、セレーネは民に八つ裂きされても構わなかった。

 謁見の間でぶつけられた言葉は、セレーネの胸に深く突き刺さっている。十六年間傍にいた乳母でさえ、セレーネに怯えていた。

 自分が犯した罪は、償いきれないほど大きい。

 嘆きの力は、強いショックを受け異能が制御できなくなる状態をいう。己を守るために、外部へ力を放出してしまうのだ。それは見えない牙となって、人の命をたやすく奪ってしまう。

 聖教圏では神官や騎士以外が異能を使うことは許されていない。フェアリ―ル王家は、精霊の守護を受けて生まれる。その歴史から聖王庁が特例として見逃していたに過ぎない。

 セレーネは王女としての特権をはく奪された。フェアリール王国は、聖王庁の直轄領になる。そう、トリーアが言っていた。

 魔女によって、この国は終わるのだ。セレーネがこの国のためにできるのは、悪しき力もろとも消えることだけ。

 石造りの塔を、ゆっくりと登ってくる気配がした。足音はやがて最上階に辿り着き、閉ざされた扉が開く。

 セレーネは窓辺に腰掛けたまま振り向いた。

 目の前に、黒の外套をすっぽりと被った男が立っていた。外套には銀の糸で古代アビレア文字を組み合わせた刺繍が施され、彼が聖堂騎士の身分にあることを教えてくれる。

 彼が顔まで覆う黒い外套を下ろすと、雪がぱらぱらと零れ落ちた。くすんだ金髪と、琥珀の瞳があらわになり、セレーネは息をのむ。


「セレーネ」


 その声は、記憶にあるものより低い。そして、彼の体格も少年から青年へと変わっていた。


「エアロスさま……」


 目の前にいるのは、紛れもなく幼なじみだった。

 彼がここにいる理由をさとり、セレーネはそっと立ち上がる。細い手足には魔力を封じるために銀の枷がはめられたが、部屋を歩くことは可能だ。

 凍えた手足を叱咤して、優美に裾をつまむ。エアロスを見上げて、ふんわりと微笑む。


「エアロスさまが、わたしの命を終わらせてくれるのですね」


 その言葉から、セレーネがすでに覚悟を決めていることが伝わったのだろう。

 エアロスの眉が静かに寄せられる。彼の苦しむ表情は見たくなくて、セレーネはそっとまなざしを伏せる。

「宰相から聞きました。嘆きの力は、調律を司る聖堂騎士のみが消せると。魔力を零にするのと同時にこの身も朽ちることも」

 それは、死ぬということ。両手をかたく組んで、セレーネはうなだれる。

「ごめんなさい」

 静かに告げるのと同時に、エアロスが一歩距離を詰めた。

「どうして、セレーネが謝るの?」

 エアロスの声は掠れていた。ああ、彼と言葉を交わすのはいつぶりだろう。

 六つ年上のエアロスは、セレーネの初恋の人だ。曾祖母を同じくする又従兄妹でもある。エアロスのオリオンベルク侯爵領とフェアリールが近いこともあり、お互い年頃になるまで親しくしていた。

 エアロスが聖堂騎士に選ばれてからは会っていないはず。もう、五年は経つだろうか。


 罪を犯した自分が、最期に好きな人の声を聞くことが出来るなんて。


 張り裂けそうな胸の痛みを堪えながら、セレーネは精一杯背筋をのばした。

「エアロスさまの手は人を救う手です。それなのに、私の血で汚してしまうから」

 本来であれば〝調律〟は医療現場で活かされる能力だ。なにより、エアロスが医者を目指していることを、セレーネは知っている。穏やかで優しい彼にとって、医者は天職だと思う。それを応援していたはずなのに。


「最後のお祈りは済ませています。怖くはありません。だから、わたしの死を、どうか苦しまないで」


 エアロスの引き結んだ唇が、震えている。彼の握り込んだ拳を見下ろすと、白い手袋に血が滲んでいた。

 優しい彼をこれ以上苦しませてはいけない。

 セレーネは指を組んで石の床に膝をつく。しかし、エアロスは想定外の言葉を口にした。


「調律の前に、聞きたいことがある。君が嘆きの力を引き出したのはなぜ?」

「え……」

「きっかけもなく、嘆きの力は発現しない」

 セレーネは碧い瞳を揺らして、ゆるく頭を振った。

「言いたくありません」

「セレーネ」

「わたしの罪は、聖王さまから聞いていらっしゃるでしょう?」

「僕が聞いたのは、謁見の間で国王と近臣が死んだこと。その中に君の許嫁も含まれていたこと。そして唯一の生き残りが君だったことの三つだけ。僕は何故そうなったのかを知りたい」


 エアロスは距離を縮め、セレーネが逃げないよう壁際に追い詰めた。


「やめて、エアロスさま」


 エアロスは聖王に忠誠を誓った騎士だ。神に背く存在であるセレーネを消すことが、彼の使命である。忌まわしい魔女と、こうやって会話をすることさえ禁じられているはずだ。


「わたし、思い出したくないの」


 言いたくないのだと、白い息を乱して訴えても、エアロスは引かない。


「君が思い出せないなら、調律することはできない。神官からは、自分で命を絶つことを禁じられたはずだ。つまり、僕が調律しない限り君は死ねない」


 エアロスがセレーネの二の腕を掴んで引き寄せる。セレーネは離れようとしたがびくともしない。

 薄いショールが落ち、手枷が外れ、月光の下に細い手首がさらされる。そこに刻まれた痣をみて、エアロスは眉間に皺を寄せた。

 それは、力任せに掴まれたような傷で、白い首筋や細い肩にもあった。

 一番見られたくない人にそれを見られて、セレーネは我を失った。


「わたしが、いけないの。ダミアン兄さまを、受け入れなかったから……!」


 叫ぶように言って、冷たい石の床に座り込む。これ以上、エアロスに汚れた身体を見られたくなかった。


「お願い。はやく、殺してください。誰かをまた傷つけてしまう前に」


 透明な涙がこぼれるのと同時に、きつく抱きしめられる。セレーネの冷え切った身体を、エアロスの熱が包み込む。セレーネは切なさと愛おしさで、頭がおかしくなりそうだった。

 エアロスの手がセレーネの銀の髪をかきよせ、少女の顔を上向かせる。そのまま、淡く唇が重なった。驚くより先に口付けが深くなり、セレーネはもがくように両腕をエアロスの背に回した。

 抱擁も、口付けも、絶望の淵にいたセレーネの心を温かく満たした。これで、自分は幸せなまま死んでいける。

 重なる唇の隙間から、冷たい液体が流れ込んでくる。セレーネはもう抗わなかった。白い喉を震わせて飲み下せば、たちまち意識が遠のいていく。

 

 セレーネの全身から力が抜けると、エアロスは外套で少女の身体を包み込んだ。

 涙のあとが残る頬に、銀の髪がかかっていた。それを慎重にはらってやり、エアロスはセレーネを横抱きにして立ち上がった。


「おい、エアロス」


 部屋の扉は、いつの間にか開いている。赤髪の青年が石壁に背中を預けて立っていた。エアロスと同じ外套を纏っている。


「本当にこの塔に火をつけていいんだな。いくら十二家の誼とはいえ加減はできんぞ」

「ああ。頼む、ラウル」


 とエアロスは返すが、彼の視線はセレーネに注がれたままだ。その横顔があまりにも静かなので、ラウルは眉をしかめた。


「おまえ、そのお姫さんと死ぬ気じゃないだろうな」

「まさか」


 と、エアロスがシニカルに笑う。ラウルは長々とため息をはいた。


「それを聞いて安心した。俺はこう見えてお前より繊細なんだ」


 言うやいなや、ラウルが指を弾く。彼の指先から走った細い火は瞬く間に大きくなった。椅子や寝台が燃え、壁や床を炎が這い回る。

 すると、セレーネの身体を中心に冷たい風が吹き荒れた。セレーネを守る風の精霊が批難をこめて炎に対抗する。

 しかし、エアロスが詠唱を始めると、風が弱まっていく。セレーネの魔力を極限まで小さくしているのだ。加護の精霊が慌ててセレーネに力を送ろうとする、そこにラウルの炎がぶつかった。

 炎が風を孕み一気に膨れあがるその瞬間、エアロスが陣を描く。爆発音とともに空間にわずかな亀裂が生じた。エアロスはセレーネを抱きかかえて、その狭間に飛び込んだ。

 二人の姿が、あとかたもなくかき消える。それを見届けたラウルは口端を上げて、燃えさかる塔を後にした。

 塔は三日三晩燃え続け、跡形もなく焼け落ちた。嘆きの魔女は火あぶりとなったのだ。

 フェアリール王国の滅亡とともに、トリーア司教区が産声を上げた。


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