第13話白拍子、同心と約束する
まつりは――走っていた。
ことが職人町の西、銀杏通りと呼ばれる小道に『いる』と教えられたからだ。
道行く人の注目を浴びても気にしない。息を切らしても、汗を流れていても、構わない。
今は、今だけは、真実を知らねば――
「ことさん、ことさん、ことさん――」
彼女の名を呼びながら駆ける。
あの角を曲がれば銀杏通りだ。大丈夫、いつもどおりの光景が広がっているはずだ――
人が群がっていた。
何かを見下ろしていた。
「ああ、ああああ……」
まつりは近づくまでに、顔中を覆うほど滂沱の涙を流していた。
それに気づいた野次馬は気の毒そうに道を空ける。
誰かが横たわっていて『ござ』がかけられていた。
死体。血の跡。血の臭い。
殺された。誰に? あの人斬りに?
まつりの混乱は意味なく思考を素早く回転させていた。
止めどめもない考えが巡り、それが散っていく。
物言わない死体。物悲しい死体。物静かな死体。
誰がどうして、何のために……
「おい、しっかりしろ」
ござからはみ出た手。青白い。見覚えがある。
髪結いをしてくれたときを思い出す。
女性の手。まつりの髪を結った手。まつりのことを綺麗にしてくれた手――
「しっかりしろって! おい!」
肩を乱暴に揺すられて、ようやくまつりの気が確かになる。
これ以上に無いくらい気分が悪い。
涙を拭って、声の主に気づく。
「赤松殿……」
「正気に戻ったようだな」
かつてまつりとことの窮地を救ってくれた同心の赤松だった。
彼は酷く疲れていた様子だった。連日連夜、人斬りを追っているからだ。
「どうして、あなたがここに……」
「死体が出たのだから、拙者の仕事だ。それよりどうしてお主がここに?」
「え、あ、その、ことさんが……」
人斬りに殺されたとは言えなかった。
認めたくなかったから。ことがいなくなってしまったという現実を。
だけど現状を見てしまった。もはや否定できない。
赤松は「ああ。人斬りに殺された」とあっさり言う。
「かなり苦しんで死んだと分かる顔だ。死ぬまで時間もかかったようだ」
「…………」
「……すまなかった。お主に聞かせる話ではなかったな」
ばつの悪い顔になった赤松。
まつりは首を横に振った。
「いえ。赤松殿はお優しいですね。私のようなものを気遣うなど」
「気遣うのは当たり前だ。今にも死にそうなくらい、顔色が悪いからな」
「赤松殿、少し話せますか?」
周りは野次馬が大勢いる。同心や岡っ引きも少なからずいた。
赤松自身には話すことなど無い。だから、そんな暇はないと断ろうとして、まつりの瞳に何か宿っていると気づく。大事なことを伝えたいのだと赤松は悟った。
「いいだろう。おい、ここは任せたぞ」
他の同心に現場を託して、二人は人気のない小道へ向かう。
誰も近くにいないことを確認したまつりは「人斬りが誰だか目星ついているのでは?」と単刀直入に大胆なことを訊ねる。赤松は沈黙した。
「以前、あなたは心当たりがありそうな顔をした。誰かのことを思い当たったはずです」
まつりが追及すると「そんな身なりなのに、目敏いのだな」と赤松はため息をつく。
「前にも言ったが、お主が関わる事件ではない」
「いいえ、関わるべき事件です……私の大切な友人が死んだんです! 人斬りに殺されて!」
まつりは再び、涙を流した。ことを失った悲しみと人斬りへの怒りが籠っていた。
赤松はまつりを気の毒に思った。純粋ゆえに友人の死を悲しみ、人斬りへの怒りに転嫁させて、なんとかしようと足掻いている。大人である自分が解決しなければならないことを、小さくて幼い身で――
「昔の話だが、拙者がかつて通っていた道場で、ある男がいた」
閉ざした心が開いたのは、仕方のないことだった。
赤松は若い武士でそれなりの正義感と務めに対する使命感を持っていた。
そんな彼だからまつりに示唆を与えてしまった。
「その男は同門の誰よりも強かった。僅かの間に目録となり、免許皆伝まで目前だった……しかし途中でやめてしまった」
「それはどういうわけですか?」
「学び終えてしまったからだ。入門して半年も経たないうちに。そしてもう一つ……師匠を半殺しにしてしまった。彼はもう剣を振るうことすら叶わない」
道場破りならまだしも、自分の師匠を半殺しにする――それができるのは凄まじい。いや、おぞましかった。
赤松はまつりのぞっとした顔を見て「分かっただろう?」と告げる。
「拙者の頭に思い浮かんでいる男が恐ろしいほど強いと。そして残念ながら確証がないのだ。あの男が人斬りであるという確証がな」
「……つまり、下手に手を出せないと? 居場所すらも分からないんですか? 氏素性も?」
「…………」
そこで赤松は不自然に黙り込んだ。
なおも問おうとしたまつりは――口を閉じた。
赤松の態度から察してほしいと受け取ったのだ。
自身の問いを自分で繰り返すまつり。
『下手に手を出せない』そして『居場所と氏素性も分からない』の二つ――
「……っ!? まさか!?」
「……それ以上言うな」
まつりの気づきを肯定するように、赤松は口止めした。
居場所と氏素性が分からないのではなく、分かっているから下手に手を出せない人物だということ。
そこから導き出されるのは――武士の中でも上位の家格。
「拙者たちも情けなく思っている。それだけしか言えない」
「……お気持ち察します」
全てを悟ったまつりに言い訳がましいことを言ってしまった赤松。
しかしまつりは責めなかった。
耐えるような苦悶の表情の赤松から、無念さがひしひしと痛いほど伝わったからだ。
「ありがとうございます。これでようやく、目途が立ちました」
「止めても無駄なのだろう。お主の目を見れば分かる。ならばこれだけは言っておく」
赤松はまつりに懸けることにした。彼女が人斬りに勝てるとは思っていない。しかし何かをしてくれそうな気がしたのだ。
「生きてくれ。もう拙者は女の死に顔など見たくない。頼りない拙者に感謝を述べた者の死体など検分したくない。そしてこれ以上犠牲者を増やしたくないんだ」
まつりは自分だけではなく、ことの分も言ってくれていると分かった。
赤松の言葉を重く受け止めたまつりは約束する。
「はい。絶対に死にません。必ず生きてみせます」
◆◇◆◇
興江は自分を責めていた。
ことの死の原因が自分にある気がしてならなかった。もしも想いを受け入れて一緒に帰っていれば死ななかったかもしれない。いや、絶対に死ななかった。
全てが嫌になってしまう。罪悪感で全身が震えてしまう。どうにもならないことをいつまでも考える。苦しくてつらくて、誰かに赦しをもらっても逃れられないほどの重荷。
「こと。俺はお前が嫌いではなかった……でも……」
店の棚の前で髪結いのために作ったはさみを見つめながら、一人呟く興江。
彼は初めてことと会ったときを思い出していた。
『あんたが腕の良い鍛冶屋の興江かい? これからよろしくね!』
ことはそのとき、満面の笑顔だった。
新参者をわだかまりもなく受け入れる態度。表には出さなかったけど、とても感謝したのを覚えている。彼女は暇があると店に来て、どうでもいいことを話していた。それを鬱陶しいと思いつつ、楽しんでいた自分がいたことを興江は忘れない。
だけど、もう話なんて二度とできない。笑顔も見えないし、笑い合うことなんてできやしない。
興江は心の底から武術を習っていないことを悔やんだ。自分の手で人斬りを倒してやりたかった。しかしそれは叶わない願いだった――
「興江殿。あまり自分を責めないでください。そして無茶なことを考えないでください」
後ろから聞き覚えのある声――まつりだ。
振り返らずに「責めるに決まっている。それに無茶とはなんだ?」と興江は笑った。
「責めてもことさんは戻ってきません。そして無茶とは人斬りに復讐すること」
「分かっているようだな。まあ当然か」
「ええ。私も同じ気持ちですから」
つまり自分を責めていて、人斬りに復讐したいと考えている。
興江はふっと息を吐き「それで、何の用だ?」とはさみを見つめたまま言う。
「刀を打ってほしいのか? 生憎、打てる心境ではない」
「いいえ。銀十蔵殿と引き合わせてください」
予想もつかなかった要求に振り返って「なんだと?」と問う。
そして興江は息を飲んだ。
まつりの目は赤く充血していて、まぶたも腫れあがっていた。
ことの死を悲しんでいる証だった。
「私はあの人に会わないといけません」
そう語るまつりは覚悟と決意に満ちていた。
「会ってどうするんだ? 親分に若い衆でも借りるのか?」
「それも違いますね。あの人は――人斬りとつながっています」
まつりのとんでもない考えに「なんだって!?」と身を乗り出す興江。
彼女には確実な根拠があるらしい。それも目を見ていれば分かった。
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