Rain(レイン)

木原式部

1.『Penny Lane(ペニーレイン)』にて

 新潟駅近くにあるバー、『Penny Lane(ペニーレイン)』。

 更科さらしな藍子あいこは店のテーブル席で、大学の友達のめぐみと楽しそうに話し込んでいた。


 ――外に出たら、別れを切り出そう。


 おしゃべりに夢中になっていた藍子の頭の中に、男性の声が飛び込んで来る。

 藍子は反射的に店の入り口に目を向けた。

 店の入り口のレジでは、若い男女のカップルが会計をしている。カップルは会計をしながら何か小声で話していた。

 さっき頭の中に飛び込んで来たのは、カップルの男性の心の声だ。


 一見どこにでもいるような普通の恋人同士。

 でも、男性は心の中で確かに「――外に出たら、別れを切り出そう」と言っていた。


(あの男の人、これから一緒にいる女の人を振っちゃうのか)

 藍子は入り口を見つめたまま、ため息を吐いた。

 自分はまた、知らなくても良い他人の心の声を聞いてしまったのだ。


 藍子は中学二年生の時、交通事故に遭って頭を打った。それ以来、なぜか他人の心の声が聞こえる体質になってしまったのだ。

 普段は誰かの心の声が聞こえないように注意しながら生活している。気を抜かないようにしていれば、心の声はほとんど聞こえてこない。

 でも、気を抜いてしまった瞬間、さっきの男性のように頭の中に誰かの心の声が飛び込んで来ることがある。


 藍子はバーを出て行く男性を見つめながら、表情を暗くした。

 本当は誰かの心の声なんて聞きたくない。

 他人の見てはいけない部分を覗き込んでいるようで罪悪感があるし、知らなくてもいいような真実を知って悲しくなったことが数えきれないほどある。


 どうしたら、心の声が聞こえる体質が治るのだろうか。

 どうしたら、他人の心の声が聞こえなくなるのだろうか。

 藍子は心の声が聞こえる体質になった中学二年生の頃から、ずっと考えていた。



「藍子、どうしたの?」

 向かいの席の友達のめぐみが、様子がおかしいことに気付いたのだろう。藍子に声をかけて来る。

 藍子は我に返って、めぐみの方に視線を戻した。

「ううん、何でもない」

 藍子は慌てて首を横に振った。

「藍子ってば、またどこかへ行ってしまったような顔をしていたよ! 何かあった?」

 めぐみは心配そうな表情をしている。

 めぐみは藍子が誰かの心の声を聞いて悲しい気持ちになっている時、良く「藍子がどこかへ行ってしまった」という表現をする。

 誰かの心の声を聞いてしまうと藍子は、今のように罪悪感や悲しい気持ちに囚われて周りが見えなくなってしまう。めぐみにはそれが「藍子がどこかへ行ってしまった」ように見えるらしい。

 めぐみは藍子に心の声が聞こえる体質があることを知らない。藍子は自分の体質を友達のめぐみだけでなく、家族にも誰にも話していないのだ。

 でも、めぐみは友達として藍子の表情から何かしらの感情を読み取っているのだろう。


「やだ、本当に大丈夫だよ」

 藍子が笑顔でまた首を横に振ると、めぐみは藍子とあのカップルが出て行ったバーの入り口を交互に見比べた。

「だったら良いけど。でも、このバーの入り口、今日はちょっと怖いんだよね。普段はそんなことないのに、さっきから寒気がして。今日はあそこに何かいると思うんだ」

 めぐみはドアを指さしながら、小声で藍子に耳打ちした。静かなバーの中では意外と声が響いてしまったらしい。近くの席に座っていた客が驚いた表情でめぐみを見た。

「えっ? そうなの?」

 藍子は目を見開くと、再びバーの入り口を見た。


 めぐみが言っている「今日はあそこに何かいると思う」というのは、幽霊のことだ。

 めぐみは霊感が強く、心の声が聞こえる藍子にさえも見えない何かが見えるらしい。

 めぐみは明るくて裏表がなく、言いたいことをはっきりと言う性格だった。霊感が強いことも包み隠さずあっけらかんと話す女の子だ。見た目も特徴的で、ブリーチした髪の毛先をピンク色に染め、白地にイチゴ柄のワンピースを着ている。瞳の色もカラーコンタクトでうっすらしたピンク色をしているから、まるで外国のお人形のようだ。

 めぐみの姿はバーの暗い照明の中でも、ひときわ目立っている。真っ黒な髪と瞳に、紺のシャツワンピースを着ている藍子とは対照的だった。


「うん、今日は何かいるみたい。普段はこんなの感じないんだけどね。今日だけかな?」

「そうだったんだ。私、占いはやるけど、霊感ないから全然わからなかった。幽霊とかそういうのはもちろん信じているけど」

「そうそう! 藍子、占いのバイト始めて2か月くらいだっけ? すごいじゃん! もう売れっ子占い師みたいになっていて。今度、私のバイト先の同僚も連れて来るね」

「うん、ありがとう。そう言えば、めぐみ、友達から連絡来た?」

 めぐみはテーブルに置いていた自分のスマホをちらりと見た。

「まだ! そろそろ連絡来ると思うんだけど」


 藍子はめぐみに向き合うと、再び笑顔を見せた。

「めぐみ、今日はありがとうね、他の友だちと用事があるのに、その前にわざわざ私のバイトの様子見に来てくれて。いきなりめぐみが来て驚いたけど、すごく嬉しかった」

 藍子が改まったように言うと、めぐみも笑顔を見せた。

「ううん。私も藍子の占い師のバイトが気になっていたし、今日、頑張っている藍子の姿が見られて嬉しかったよ。藍子のバイト先の占いサロン、すごくおしゃれで素敵だったね! 他の占い師さんも優しそうな人ばかりだったし。いい場所でバイト見つかって本当に良かった」


 めぐみは別の友達と会う約束をしていたが、会う前に時間ができたと藍子のバイト先の様子をわざわざ見に来てくれたのだった。

 ただ、肝心の友達の仕事が押しているらしく、バイトの終わった藍子とバーでおしゃべりしながら待っているのだが、なかなか連絡が来なかった。



 その時、さっきめぐみが「今日はあそこに何かいると思う」と言っていた店の入り口のドアが開いた。

 藍子は(もしかして、幽霊?)と反射的にドアを見たが、入ってきたのは人間の男性だった。


 藍子は入ってきた男性の容姿に目が釘付けになってしまった。

(えっ? リズ?)

 藍子は思わず、自分が世界で一番憧れている人物の名前を心の中で呟いた。

 男性が入ってきたドアには、藍子が大好きなイギリスのロックバンド『アドラー』のポスターが貼ってある。

 ポスターの中のボーカルのリズと入ってきた男性が似ていたので、藍子は憧れのリズがポスターから出て来たのだろうか? と錯覚してしまったのだ。


 男性は二十代後半から三十代くらいだろうか。仕事の帰りらしく、仕立ての良さそうなスーツを着てポーターのビジネスバッグを持っていた。

 体格が良く、短く切った髪や肌や瞳の色が薄く見えるので、日本人以外の血が混ざっているのかもしれない。

 男性はリズに似ていると言えば似ているが、良く見るとそこまでそっくりではなかった。

 でも、辺りに漂う空気というか雰囲気みたいなものがライブ映像で観るリズにとても良く似ている。


「おおっ! 龍司りゅうじ、久しぶり!」

 カウンターにいるバーのマスターの久住くすみが、親しそうに男性に声をかける。龍司と呼ばれた男性は軽い身のこなしでカウンターの席に座ると、久住に優しそうな瞳を向けて、笑顔を見せた。

「久しぶり、久住さん」

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