第15話 ただそれだけ。
途端に、激しい剣幕も急に鳴りを潜める。
餌を待つ池の鯉がぱくぱくするように、秀紀は声を失った。
「わたしが知ってたことが意外?これは驚いた。てっきりわかった上での挙動だとばかり思ったわ。」
「な、なにを根拠にそんなことを」
明らかな動揺が見える秀紀の声は、呆れるほどに小さい。
美優は顔を上げずに、再び包丁を研ぎ続ける。
時折刃の部分をキッチンの蛍光灯に晒して、磨き加減を見た。
きっと、傍から見たら少し怖いだろう。刃物の刃の部分を凝視する女。そして、ずっとそこを研ぎ続ける女。有る意味ホラーかも知れない。
「じゃあ、あなたもわたしが浮気しているって、どんな根拠が有るというの。」
「そ、そ、それは、こっちにいる友人から聞いたんだ!お前が、よその男と遊んでいるって。」
「へえ?いつ頃?何日の何曜日の何時頃?場所はどこ?相手はどんな人?」
「そんな細かいことなんか」
「じゃあ、信憑性はないわよね。」
「うるさいっ!!お前のスマホをみれば、どうせやり取りがのってるんだろ!見せてみろ。」
そう言われ、美優は一瞬だけ凄く意外そうに目を丸くする。
それから、エプロンで軽く手を拭ってから、おしりのポケットから自分のスマホを取り出した。そして、カウンター越しにそれを差し出す。
「どうぞ。暗証番号はわたしの生年月日。」
その短い間に、彼女がなんらかの操作をした様子は一切無い。
近寄ってきた秀紀が、なんだか恐る恐るそれを受け取る。
受け取るが、また、すぐにそれを押し返した。
美優がスマホを平気で手渡すということは、その中身を見られても平気だと証明しているようなものだ。
「あら、見ないの?」
「もう、いい。」
押し返されたスマホを受取って、軽く表面を拭ってからまたポケットにしまう。
すっかり勢いをそがれてしまった夫の様子を見て、呆れたように眉根を寄せた。
「一つ聞きたい。なんで髪を切ったんだ?」
「切りたかったから。」
短く簡潔に答える。その答えに納得したわけもないだろうが、夫はそれ以上の追求はしない。そこで、美優も言葉を繋げる。
「わたしも聞いていいかしら?」
「なんだ。」
「あなたにわたしの行動を報告してくれたご親切なお友達ってどなた?」
瞬間湯沸し器のように秀紀の顔が怒りで真っ赤になった。
「お前の知らない奴だ!!俺の友人がだれだろうとお前に関係ない!!」
「ふーん。」
それが妻に言うことか。夫の交友関係が、妻には全く関係ないと言い切ることが。
「わたしの知らない人、ね。」
「もう、寝る!!」
「おやすみなさい。」
夜も更けているというのに、足音も高くリビングをでて寝室へ入っていく夫。ドアがしまった音を聞いて、ようやく美優は手元の包丁を置いた。
「ふぅ〜」
長く長く息を吐きながらその場に崩れ落ちて床にうずくまる。
夫が何かを嗅ぎつけて美優の浮気を疑っている。髪型を変えたことも面白くないのだろう。
どれほど疑ってみても無駄だ。無いものは掘り出せやしない。
ストーカー気質の秀紀は、妻が遠く離れていても自分の知らない行動を起こしていることが我慢ならないのだ。
そのくせ、自分は自分の好きにしていないといられない。単身赴任先で羽根を伸ばして、他の女と遊んでいる。それを妻に指摘されるとキレるのが常だ。
美優はもう、夫がよその女と遊ぼうと何しようと関心はない。ただ、生活費は送ってもらわないと困る。ただそれだけ。
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