いってはいけない想いでも、いってしまえば恋になる

K-enterprise

いってはいけない

「きみ、最近、好きな人ができただろ?」

「……そんな相手いませんよ、別に」


 医師は、診察台で横になる僕の診察を続けながら、少しだけ楽しそうに聞いてきた。

 僕は動揺を抑え、平静を装いながら答える。


「体は正直だね。はい、もういいよ。体温が高いのと心拍数が多いのは記録しておかないから」

 

 検査用のケーブルが外されたので、起き上がり衣服を整えながら言い訳を告げておく。


「ほんとうに、彼女とはそんなんじゃないですから」

「ん? 誰とは言ってないけどね」


 医師はカルテに数値を書き込みながら笑う。


「だいたい、僕が誰かを好きになれるわけないじゃないですか」


 だから認めたくなかったのに、医師の言葉で浮かんだ彼女の顔が頭から離れない。

 離れないどころか、その顔は僕の心の中で“親しい人”から“好きな人”の領域に移動していることを自覚していた。

 でも、それを公言することはできない。


「……二度と、会えなくなるからかい?」

「ええ、そうです。いなくなる僕のことなんて、誰も覚えていない方がいい」

「どんな人間もいつかは死ぬ。だからといって生きていたことが無駄になるなんてことはないよ。きみは確かにここにいて、誰かの記憶に残る。それはきみを知る人を構成する大切な要素になるんだ」

「構成する、要素?」

「きみの思い出も含めて、その人の今があるのさ。もちろん私もその一人だ。きみの主治医としてだけじゃなく、きみに出会えてよかった」


 医師は真面目な顔になって僕に右手を差し出した。


「僕のことなんて、忘れてしまってくださいよ」


 少し悩み、言いながら彼の大きな手を握る。


「きみとの記憶は私の物だ。そうだな、心の金庫にでも仕舞っておくさ」


 仕舞ったまま思い返す事もない。

 そんなふうにも聞こえたが、不思議と大事にされた気がして悪くなかった。



「お疲れ様でした」


 診察室を出ると、待っていた彼女が労いの言葉をかけてくれた。

 柔らかな笑顔を向けられるが、さっきの会話のせいで、まともに顔が見られない。


「何かありました? 先生に失礼なことでも言われたとか?」

「あ、いや、なんでもないよ。さよならを言っただけ」

「そう……ですか。なんだか嬉しそうな、寂しそうな不思議な顔をしています」

「えっと、次はどこだっけ?」

「検査室で最後の検査をしたら、所長と会って……それから、ご家族と最後の面会です」


 予定なんて、本当は聞くまでもなく知っている。

 心の機微を悟られたくなくて、なんとなく事務的な会話を続けたかっただけだ。


「所長か……あの人さ、僕に対して冷たいから会いたくないな」

「冷たくは、ないと思いますよ」


 彼女は言いながら歩き出す。

 並んで歩きながら、彼女への挨拶はいつすればいいか考える。


 僕がここに来てから今日までずっと、彼女がサポートをしてくれた。

 それは、僕のことが好きでとか、大切だからとかではなく、それが彼女に与えられた仕事だからだ。

 そして僕は、彼女や他の人たちの前から消えてしまう存在。

 共に未来を歩けない相手には、期待や想像を働かせてはいけない。

 そう心がけていても、二年も一緒にいれば必要以上の情が芽生える。

 ダメだと頭が命じても、心は無邪気に彼女を追った。



「ここまでよく頑張ったね。もう私たちにできることは何もない。それでも、所員全員が君を笑顔で見送ろう」


 出会った時から冷たいと感じていた所長は、小さく笑いながら、少しだけ涙ぐんでいるように見えた。

 最初から、そしてずっと、こんな顔で接してもらえたら僕は、もっと所長のことを好きになっていたのに。

 軽く抱擁されながら、それは逆なのだと知った。


 好きになってはいけない。

 未練を残してはいけない。


 運命を許容してからずっと言われていたことだ。

 再会する可能性があれば、いつかまた、と言える。

 でも僕は違う。

 所長も、医師も、家族も、そして彼女とも、もう二度と会えない。


 それは予想でも想像でもなく、確定事項なのだ。


―――――


「えっと、今日もお疲れ様でした」


 与えられた自室の前で、いつものように彼女が頭を下げる。


「あのさ、少しだけ話せないかな」


 そんな言葉が自然にこぼれた。


「ごめんなさい、業務中に、二人で話をする予定はありません」


 過去、何度か繰り返された返事をもらう。 

 最初はただの社交辞令のつもりで誘い、興味本位で誘った数回の後、困らせたくなくて声はかけなくなった。


 でも、業務外なら?


 午後5時を告げるチャイムが鳴る。

 今日はいつもより予定が立て込んでいたから、5時を越えるタイミングを測っていたんだ。


「もう定時になったよ。残業代は出せないけど、コーヒーくらい奢らせてよ」


 少しだけ悩んだ彼女は、真っ直ぐ僕を見て静かに首を縦に振り、こうして僕らはラウンジに移動した。



「コーヒーで良かったかな?」

「はい、ありがとうございます。お手数をおかけしてすみません」


 夕食前のラウンジは閑散として、僕らは窓際の特等席に並んで座った。


「最後くらい、君に何かしておきたいと思って」

「ふふ、コーヒーサーバーのボタンを押すだけじゃないですか」

「ここまで運ぶって作業もある。両手に持ってこぼさずに歩くのって大変なんだよ?」

「そんなに大変な作業だったなら、私が忘れるわけにはいきませんね」


 彼女は両手で受け取ったコーヒーカップに口をつける。

 

「そんなこと、忘れていいよ」


 僕も苦笑しながらコーヒーを飲む。

 これまで、休憩時間などで一緒に食事をしたりお茶を飲んだりすることはあったが、プライベートな時間を一緒に過ごすのは初めてだ。


「……どうでした? ご家族とのお別れ」


 彼女は僕を見ずに聞いてきた。

 家族との面会は僕と両親だけで行われていたし、30分もかからなかったからどんな内容だったか気になるのだろう。


「思ったほど大変ではなかったかな」

「大変?」

「もっとさ、泣いたり嘆いたり、感情に溢れる時間になる気がしてたんだ」

「悲しく、なかったんですか?」

「そんなことないよ。でも、いまさらだからね。この状況になった二年前の方が感情的だったけど、今日までの時間で僕も両親も、折り合いをつけたんだ」

「折り合い?」

「諦める時間を貰えたから、それを有効に使えたってこと」


 時間は期限を区切ることで、やるべきことを無駄なく済ませることができた。

 そして僕の場合は、終わった後の事を考えなくてよかったから、新しい予定は足されなかった。


「別れは、あなたにとって諦めなのですか?」

「別れたくなくても、二度と会えないなら、諦めた方がいい」


 僕は自分の発言で、始まってもいない恋が終わることを感じた。


「でも、人は誰でも、いつかは死んでしまいます。終わりが来ることを知っていても、懸命に生きるのではないでしょうか」

「それは、終わりがまだ確定していないからだよ。終わりが明確になった時に、人は諦めたり、自暴自棄になったりしてしまう。誰かと強い結びつきを持っているほど、辛い別れが待っている。だから、君も知っていると思うけど、僕らがここに来て強く言われたルールがある」


 いつの間にか僕を見つめている彼女をしっかりと見返しながら。

 彼女の顔を、目に焼き付けながら。

 心をこめて僕は言う。


「誰のことも好きと言ってはいけない、と」


 それは、彼女を困らせない為に僕ができる精一杯の告白だった。

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