第三章(2)

「キスしちゃった」



 ゴールデンウィーク明け、校舎の端っこのいつものトイレで、芳乃は頬を赤らめてそう報告してきた。廊下からがやがやと女の子たちの嬌声が響いてくるけれど、トイレの中にはタイミングを図ったように誰もいない。



「キスって、彼氏と?」



 動揺を抑え、手を洗いながら答える。四月までは冷たくて仕方なかった水は、今は初夏の暑さのせいで心地良い。



「当たり前でしょー。彼氏いるのに他の人とキスしたらやばいじゃん」


「芳乃、展開早過ぎ。彼氏できたって言ってから、一か月も経ってないよ」


「そーぉ? うちらもう、高二だよ? 彼氏できて一か月以内にキスなら普通だと思うけどなぁ」



 悪気なく言う芳乃に対して、胸の奥で黒い感情が静かにふくらんでいく。こっちは彼氏どころか、キスだってデートだってまだなんだ。パパ活ではいろんなパパさんたちとデートをしているけれど、好きな人とはしたことがない。


 というか好きな男の子すら、できたことがない。



「塾の帰りだったの。彼、うちの近くだから自転車二人乗りして、家の近くまで送ってもらって。その後、いつもみたいにバイバイってするのかと思ったら抱き寄せられて。もー心臓バクバクよ。そのままキスしていい? て聞かれて、キスされた」



 興奮を滲ませた早口で芳乃は言う。その時のことを思い出したのか、頬が真っ赤になっていた。わたしは嫉妬に似た感情をなんとか胸の奥に押し込んで、聞いた。



「舌は入ったの?」


「ううん、普通のキス。でも三回ぐらいしたかな。やばーい、思い出したら頭爆発しそう! この後授業なのに、絶対集中できないよぉ」



 そんなことを言いながらも芳乃は嬉しそうた。うがった見方かもしれないけれど、芳乃の言葉には親友のわたしを追い越して先に経験したという優越感がちらちらしていた。そんなことを考えてしまうこと自体、ちょっとおかしいのかもしれないけれど。



「今日のホームルーム、何するんだろうね」



 廊下を今にもスキップしだしそうに歩きながら芳乃が言う。廊下のあちこちで、井戸端会議中の女子高生のグループができている。どの子もピーチクパーチク、スズメみたいに楽しそうだ。



「どうせ、いつものお説教でしょう」


「まぁそうだけど。夕べ、女子高生がいじめで自殺したってニュースやってたじゃん? その話題かなぁ。自殺は神様が絶対に許さない罪だとか、そういうこと。耳にタコができそうなほど聞いてるっつの、そんなん」



 教室についたらチャイムぎりぎりで、笑子と琴美と合流する暇もなく、ホームルームが始まった。起立、礼の号令の後、シスターは神妙な面持ちで黒板を背にして言った。



「今日は、パパ活について話したいと思います」



 身体のまんなかで、心臓がどきんと大きく宙返りをした。


 自殺じゃなくて、シスターが今日のホームルームに選んだ題材は、よりにもよってパパ活だった。



「今、みなさんの間でパパ活というものが流行っているそうです。パパ活という言葉を聞いたことがある人、手を上げてください」



 三分の二くらい手が上がった。琴美と笑子は手を上げず、なんのことだかわからないという顔でシスターを見ている。



「知らない人もたくさんいるので説明すると、パパ活とはSNSなどを通じて男性と知り合い、デートをしてお金をもらう行為です。


最初は女子大生やOLさんなどで今の経済的生活に不満があり、お小遣いをもらおうとして広まりましたが、最近ではみなさんの年齢でパパ活をする人も増えてきました」



 心臓がまだ、身体の真ん中でがんがん震えている。


 シスターはいつになく神妙な顔をしていた。それなりに裕福なお嬢様ばかりが集うこの教室は、しんとしていた。



「別にいいんじゃないですか」



 静音が言った。



「最後までしないで、デートだけなんでしょう? 最後までしちゃったら売春になるけれど、デートだけだったら法律の範囲内だし。そんなの、大人が口を挟むことじゃないと思います」



 いつもシスターに反抗的な静音が、こっそり塗った色つきリップで彩った唇でぴしゃりと反論した。



「大久保さんみたいな考え方もあるのかもしれませんね。でも私はみなさんの年齢で、パパ活でお金を稼ぐことには反対です」



 シスターはあくまで冷静に、言うことを聞かない子どもを説きふかせるように、そう言った。



「お金とは、仕事をして稼ぐものです。この高校はアルバイト禁止なので、みなさんはまだアルバイトすらしたことがありません。お金を稼ぐというのは、アルバイトですら大変です。コンビニ、ファミレス、単発の派遣の仕事。


どの仕事も、たいへんな苦労と労力を伴ないます。今私がここでみなさんに話すのも、仕事です。毎日みなさんに何を話すか、どう話すか。仕事だからとても考えます。工夫します。それもなかなか、大変なことなのです」



 琴美と笑子が大きく頷いていた。芳乃は頬杖をついてじっと何かを考えていた。わたしはかろうじて、シスターの顔をまっすぐ見つめることができていた。



「パパ活とは、本当の労働ではありません。あくまで遊びです。パチンコや競馬など、ギャンブルでお金を稼ぐのと大して変わりません。それがみなさんの初めてお金を稼ぐ体験になってしまうのは、絶対に避けなければいけないことなんです」



 耳が痛い、というのはまさにこのことだ。



 実際、わたしはデートを楽しみ、可愛い服やアクセサリーを買ってもらうことを楽しみ、食事や遊びを楽しんでお金を手にしている。これが「労働」なんて、たしかに胸を張って言えることじゃない。



「何度も繰り返しますが、みなさんは私にとって特別な生徒です。ひとりひとりが生まれながらにして、特別なのです。どうか自分を大切に、特別な存在であるように振る舞ってください」



 いつも通り神様に祈りを捧げた後、ホームルームは終わった。


 ホームルームから始業までのほんの十分程度の休み時間、もともと騒がしい教室はさらに騒がしくなった。SNSをやっている女の子たちは、多かれ少なかれ、パパ活というものを知っていたからだ。



「うち、この前会いたいですってDMで言われたー。四十歳ぐらいのおっさん! それもパパ活なのかなぁ」


「決まってんじゃん。会ったら大変だよ。お茶から始まって、ホテルに誘われて、なんだかんだ最後までされて買いたたかれるよ。三万くらいでさ」



 比較的おとなしいグループの子たちですら、そんな話をしている。


 親の方針でSNSを禁じられている、笑子と琴美ですらパパ活に興味を持っていた。



「そういうのってさぁ、どうなの? ほんとに最後までしないの? 最後までして、結局お金もらうってことじゃない?」



 セックスに関して十七歳にしては知識の薄い琴美が、ニキビのちらばった頬で首を傾げる。



「琴美さぁ、最後までするって何するかそもそもわかって言ってる?」



 琴美に比べると、笑子はちゃんと知識があった。知識があるからこそ、責任が取れない年齢でこっそりそういうことをする子たちを見下しているんだ。



「え、あれでしょ? つまり、入れちゃうんでしょう?」

「なんだ、わかってるじゃん」


「それって、ちゃんと入るの? 男の人って、すごく大きくなるんでしょう?」

「子どもが通るくらいなんだから平気なんじゃない?」



 にわか知識で話す琴美と笑子の横で、芳乃はじっと顔をしかめていた。何か言いたいことがあるのに言えない、そんな顔だった。



「パパ活でそんなことしちゃうなんて、マジてサイテーだよね」

「ほんと。初めてはやっぱり、ほんとに好きな人でしょ」

「琴美はいくつでロストバージンしたい?」


「えー。今は赤川先生以外興味ないから、考えられない。でも、高校卒業したら、かな」


「私は結婚するまでしないつもりだけど」

「うわぁすごい! 笑子偉い!」



 前時代的なことを堂々と言ってのける笑子を琴美が褒めたたえる。わたしたちの学校で「スクールカースト上位」とされているグループは、静音たちみたいな子じゃない。大人とも子どもと上手くやれて、浮かなくて、空気が読めて、勉強も学校行事も真面目に取り組む。そういう子たちだ。



「でもさ、結婚する前に本当に好きな人ができちゃったらどうするの? 笑子」



 芳乃が真剣な調子で言った。笑子の花が咲くような笑顔が、固まった。



「本当に好きな人なんて、そんなのできないよ。ひーくん以外にありえない」

「ひーくんじゃなくて、普通の、一般の男の子で、だよ」


「だからそれがありえないんだよ! 普通の一般の男の子なんて、見た目は下品だし、しゃべり方も下品だし、女の子のこと変な目でしか見てこないし。そんな男の子と私が恋愛すること自体、ありえないよ」


「でも変わるかもしれない」


 芳乃がきっぱり言い放ち、笑子は黙った。


 黙り込んだ四人の間に気まずい空気が立ち込め、他のグループたちの話す声がやたら大きなBGMとして耳の中で渦巻く。



「本当に好きな人だったら、結婚前でもそういうことをしてもいいと思うよ、わたしは。たとえ結婚できなかったとしても、その人のこと一生の思い出になって、それだけで残りの人生を励みに生きていけると思うんだ。好きな人とそういうことするって、きっと、素晴らしいことだから」



 セックスは汚い。大なり小なり、大人にそう思い込まされている笑子と琴美が、一歩大人の階段を上った芳乃を気高いものに対する目で見つめていた。


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