第二章(3)
十七時過ぎに沙智子と別れ、山手線に乗って新宿を目指した。土曜日の新宿はごみごみとしていて、駅構内は人で溢れている。待ち合わせのサザンテラスへ向かってもまだ人は多く、何度も知らない誰かにぶつかりそうになった。
心臓の鼓動が内側からどくんどくん、わたしを揺さぶる。このために毎日がんばっていたはずなのに、いざとなると臆していた。まったく初対面のおじさん相手に、いったいどんな顔をして会えばいいんだろう。
「君が、いつきちゃん?」
十八時を五分ほど過ぎて、その人は現れた。チェックのシャツにジーパン、ダイレクトメッセージに書いてあったのと同じ服装だから間違いない。歳の頃は四十歳ぐらい、人の良さそうなタレ目気味の目が目立つ、穏やかな雰囲気を醸し出しているおじさんだった。
「はじめまして、今日はよろしくお願いします」
「いいよ、そんなに固くならないで。ちょっとブラブラしようか」
「はいっ」
返事した声が思わず、上ずっていた。
中平と名乗った初対面のおじさんとふたり、高島屋の中をフラフラ歩いた。男の子とデートしたことすら一度もないのに、隣にいるのがお父さんと同じ年ごろのおじさんだという事実に緊張していた。
大学生なの? 家どのへん? などといった、無難な会話が進行していく。高島屋の中はきらびやかなアクセサリーや、ブランドもののバッグや、今の服に合わせたらぴったりな靴で溢れていた。アクセサリー屋さんの前でふと足を止める。蝶のモチーフにピンクの石をあしらったネックレスが特別な輝きを放っていた。
「あれ、いつきちゃんに似合いそうだね」
中平さんはわたしが目をつけたものと同じネックレスを指さした。手に取ってみると、繊細な光が指の間できらめき、物欲に火を付ける。値札を確認すると四千九百円。とても買えない。
「買ってあげようか?」
「え」
「いいよ、そんなに高いものじゃないし」
中平さんは温厚な目をより細めて、レジで会計し、プレゼント用のラッピングまでしてくれてネックレスを手渡してくれた。ありがとうございますと恐縮しながら受け取る。つい数時間まで存在自体知らなかった人から、いきなりこんな高いものを買ってもらえるなんて。
信じられないけれど、これがパパ活なんだ。
「いつきちゃん、お腹、空いてる?」
「少し」
「じゃあ、ご飯にしようか。何が食べたい?」
「えっと、あの……じゃあ、和食で」
「和食か。この近くにおいしい鰻の店があるから、そこ行かない?」
中平さんおすすめだという鰻屋さんは、休日の夕食時とあって賑わっていた。案内された席にはどっしり重いメニューがあって、開けてみてびっくりしてしまった。さっきのネックレスと同じくらい、いやそれ以上の値段がする。まさかここも、中平さんのおごりなんだろうか。
「おすすめはこの特上のセットなんだけど、それでいい?」
「はい」
「じゃあ注文するね」
やってきた店員さんに、中平さんは特上のセットを二つ注文する。待っている間、何をしゃべったらいいのかわからなくて出されたお茶をひたすら啜っていた。
「いつきちゃんは、大学卒業したら何するか決めてるの?」
「え、いや、ええと、まだ一年生だから、ぼんやりとしか。でも、どこかに就職するとは思います」
「今の子はいいよね、景気が良くて。僕の頃なんて就職氷河期で、大変だったんだよ」
しばらく、ただ中平さんの話に相槌を打っていた。やっと就職できた会社が二年目で倒産してしまったこと。次に務めた会社ですぐに海外転勤になったこと。目の前のことだけひたすらやっていたら婚期を逃して四十歳を迎えてしまったこと。
目の前でされている話が、テレビの中のことのように遠かった。
「いつきちゃんは結婚願望、ある?」
「まだ若いのでよくわからないけれど……いずれは、すると思います」
「そうだよね、まだ十八だもんなぁ。今のうちからいろいろな男を知っておいたほうがいいよ」
いろいろな男どころか、デートだって今日が初めてだ。そう言ったら、驚かれるんだろうか。
まもなく特上セットが来て、ふたりで食べた。きちんとした鰻屋さんで食べる鰻はスーパーの特売ものとは比べ物にならない。身がふっくらしていて、タレがほどよく甘くて、ご飯と絡んで口の中で素晴らしいハーモニーを奏でる。
今日会ったばかりの人からこんなものをご馳走してもらうなんて、本当にいいんだろうか。まったく何もしていないのに。
「はい、今日のお小遣い」
食事が終わった後、一万円を手渡された。ありがとうございます、とお辞儀をして受け取る。ネックレスと鰻を入れたら、二万円以上の金額を数時間で使わせてしまったことになる。
「いつきちゃんは、癒し系だね」
鰻屋さんを出て駅までの道を歩きながら、隣で中平さんが言った。
「そうですか?」
「うん。一緒にいると心がほぐれる。リラックスできるっていうか」
「そんなこと言われたの初めてです」
「よかったらまた、会ってね」
JRの改札前で別れ、お互い人ごみに紛れるとすぐ他人同士に戻る。
あらかじめ沙智子にレクチャーされていた通り、帰りの電車の中ですぐ今日はありがとうございますメッセージをした。笑った顔文字付きで返信が来た。財布の中で、さっきもらった一万円が落ち着かなさそうにしていた。
家に帰ると、今日も演劇部の練習だと信じ切っている両親に出迎えられた。お父さんはいつも通り口数が少なく、お母さんは今日も真緒の努力の足りなさを詰っていた。夕飯は食べてきたのでいらないとすぐに自分の部屋に引っ込んだ。
もう一度財布を確認した。たしかに一万円がある。働くってもっと大変なことだと思ってたのに、こんなことでこんな大金が手に入るという事実が、後ろめたさにアクセルをかけていた。
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