第二章(1)

 冬を引きずったような春が去ってようやく初夏の息吹が風に混じり始める頃、芳乃は放課後わたしに付き合うことが少なくなった。原因はもちろん彼氏。今日はふたりでお茶。明日はショッピング。


彼氏とふたりでショッピングモールに買い物に行ったという次の日、芳乃はふたりきりのトイレでこっそりわたしに彼氏から買ってもらったという指輪を見せてもらった。学校でつけていたら即行で没収されちゃうから、チェーンで首からぶら下げて制服の胸元に忍ばせるのだと言う。



 そんな芳乃に対して黒々とした感情をふくらまさずにいられたのは、沙智子のお陰だ。芳乃が彼氏とデートしている間わたしは沙智子に会い、パパ活についてレクチャーを受けた。



「十八歳以上ならパパ活アプリやサイトがいっぱいあるからそれ、使えるんだけど、うちら十八歳未満じゃん? だからSNS使うしかないんだよね」


「SNS……わたし、使ったことない」


「うそ、それでも今どき女子高生!? さすが聖マリアの人は違うなぁ。いいよ、あたしがアカウントの作り方教えてあげる」



 本名の「澪」とさよならして「いつき」という名前でふたつのSNSに登録した。ひとつは文字中心のSNSで、ひとつは画像中心のSNS。プロフィール文は沙智子に作ってもらった。『夢に向かってがんばってる十八歳の女子大生です! 応援してくれる優しいパパ募集してます♡』



「なんで女子大生なの? わたしたちせっかくJKなんだし、そこを利用したほうがウケると思うけど」


「JKに食らいつく男もいるけど、そうじゃない男も多いんだよー。今いろいろ厳しいからさ。警戒されちゃうの。それより年齢ひとつ上にして、夢に向かってがんばってることをウリにしたほうが手広く客掴めるよ。夢にがんばってる女に男は弱いから」



 夢。そう言われてイメージするものが、ないわけじゃない。でも真剣に目指したことなんてない夢で、とてもそんなものになれるなんて思えなくて、ましてやパパ活のウリにしていいものなのかと疑問ばかりが湧いてくる。



「澪は小学校の卒業文集、将来の夢の欄に何書いた?」

「……小説家」

「じゃあそれ目指してるってことで!」



 モヤモヤをきっぱり払拭する笑顔を沙智子はわたしに向けてくれる。



「あとは服と髪型、それにメイクだね。そのまんまじゃどう見てもJKだから。女子大生に見えるような服買って、メイクもしないと」

「わたし、私服ろくに持ってない……メイクもしたことないや」

「じゃあ買おう! 文学大好き清楚系女子大生に見える服! あとメイク道具も」

「えー。お金かかる……」

「澪、お年玉は?」

「全部貯金してるよ。中学からは自分で管理しなさいって通帳持たされてるけど、一度も使ったことない」

「じゃあ今それ、使わなきゃ」



 四年分のお年玉をはたいて、わたしは沙智子に言われるがまま「文学大好き清楚系女子大生服」とメイク道具を一式そろえた。


ファンデーションも髪を巻くコテもいかにも「文学大好き清楚系女子大生」が着ていそうな春らしい桜色のワンピースも、沙智子に言われるがまま初めて買った。本当にわたしが袖を通していいのかと悩むほど可憐なワンピースは二万四千円もした。



「ねぇ、本当にパパ活って稼げるの?」

「稼げるよ! 何、稼げなかったら、今使ったお金全部損になるって思ってるの?」

「思ってるっていうか、その通りでしょう」



 生まれて初めて散財していくつもショッピングバックを抱えた日曜日の渋谷で、ため息の代わりにそう言った。



「キャバでも風俗でもパパ活でもそうだけどさ、女を売る仕事っていうのは初期投資が大事なの、初期投資が。不安になるぐらいのお金使って、後でこの二倍も三倍も稼いでやるって気持ちを養うんだよ」

「気合を入れろってこと?」

「パパ活は、気合が大事だよ」



 沙智子は小さくウインクをしてみせた。



 渋谷のファッションビルの最上階、メイクスペースの一角で沙智子から化粧の仕方と髪の巻き方、ネイルの整え方のレクチャーを受けた。初めて触るアイライナーもつけ睫毛もチークも、全然思い通りになってくれない。


沙智子はかなりのスパルタで、わたしは始終怒られながら三時間かけて髪と化粧とネイルを初めて自分で整えた。仕上げにトイレで今日買ったワンピースに着替えると、鏡の中には本当に「文学大好き清楚系女子大生」がいた。


ブラウンのアイシャドウとアイライナー、つけ睫毛で彩った目はぱっちり大きくて、そのせいか顔が全体的に小さく見える。ゆるくカールした髪はまるでお人形のようで、桜色のワンピースとちゃんと調和が取れていた。ワンピースの色とお揃いにしたピンクの爪には、控えめなラメが輝きを主張している。


 明日学校だからこの後帰ってからすぐに落とさなければいけないその輝きが、愛しかった。



「澪、可愛いじゃん。努力の甲斐あったね」

「これが自分なんて信じられない。この恰好、写真撮ってSNSに上げればいいんだっけ?」

「自撮りも撮り方があるから教えてあげる。顔は全部写さないほうが無難だよ」



 初めてSNSに投稿された「いつき」の写真は、『大学の友だちと遊んできました!』というタイトルにぎりぎり目元が写っていない写真。目を隠していても、素顔を隠していても、そこにはわたしでないわたしがいた。「いつき」がいた。


 「いつき」は平凡な佐久間澪とは違う。パパ活で初期投資の二倍三倍のお金を稼ぐ、特別な女の子なのだ。



 すっかり遅くなって慌てた帰り道は、いくつも抱えたショッピングバックが重く、沙智子に見立ててもらったワンピースとお似合いのミュールで走りにくい。


いくら見た目は女子大生でも中身は女子高生なんだ、夜十時以降に出歩いていると補導の対象になる。それ以前に、別に門限が定められているわけじゃないけれどこの時間の帰宅はまずい。


 後ろめたい思いでひっそり家のドアを開け、中に入る。しのび足で廊下を歩き、リビングルームを通り過ぎ、階段を上がりかけたところでリビングのドアが開く。



「遅かったじゃないか」



 お父さんが階段の下からわたしを眺め、ふっと目を見開く。驚くのも当然だ。出かけた時はこんな洒落たワンピース姿じゃなかったし、すっぴんだったし、髪も巻いてなかったんだから。



「あのね、演劇部に入ったの」



 咄嗟に出た嘘は自分でも呆れるほど稚拙だった。



「今までその練習してた。この服とかメイクとか、役作りだから」

 嘘はある意味本当だった。


 「パパ活」で「いつき」を演じることがわたしにとっての演劇部なんだから。



「どんな役なんだ?」

 お父さんは疑いの色を持たずに純粋な好奇心を見せる。ついたばかりの嘘が、ちくんとお腹の底を刺す。



「本が好きな女の子」

「そうか。澪は本、好きだもんな。ぴったりだ」



 お父さんはそう言って笑った。百パーセント疑われていないと思った。百パーセント疑われないと信じれるくらい、今までわたしはこの人の前で隙の無い良い子だったから。親に嘘ひとつつかない、真面目な優等生。



「でも、これから遅くなる時は言うんだぞ。せっかくスマホがあるんだから、連絡ぐらいしなさい」

「わかった」

「あ、真緒とお母さんが勉強してるから、静かにな。今日も大変そうなんだ」



 帰宅の遅い娘を叱らないお父さんを裏切って、わたしはパパ活に手を染めている。


 ふーっと長く息を吐いてベッドになだれ込むと、隣の部屋から真緒の泣き声に近い抗議の声とお母さんの責める声が同時に聞こえてきた。


五歳下の真緒は小学六年生。ふたりの娘をなんとしてでも自分の母校に入れようとするお母さんの元で、毎日塾が終わった後もこうして勉強を見てもらっている。というか、さんざん間違いを指摘され説教され努力が足りないと詰られる。


マリア行きたくないの? マリアはお母さんが出たとってもいい学校なのよ、なんて言われる。


わたしもそうだったから、よく知ってるんだ。

 

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