第76話 歔欷
冷えた身体を温める為に浴室に入った紫苑は、両腕で膝を抱えてしゃがみ込み、頭からシャワーを浴びていた。
濡れた髪が顔に掛かっていて表情がわかり難い。
先程まで流していた涙が今も溢れてしまっているのかはわからないが、仮に収まっていなくてもシャワーと共に流れてしまっているだろう。
身を守るように自分の身体を抱き締めている紫苑の身体が微かに震えている。
寒くて震えているのではなく、何かに怯えている小動物のような身震いだ。
紫苑は体勢を変えることなくシャワーを浴び続ける。
豊満な胸が膝に押し潰されて窮屈そうにしており、隙間がなくなった谷間にお湯が溜まる。溜まったお湯が溢れると、逃げ場を求めるように身体を伝って零れ落ちていく。
まるで目元に溜まった涙が零れ落ちている様を演出しているかのようだ。もしかしたら今の紫苑の情緒を表しているのかもしれない。
そのまま数分の時を過ごした紫苑は、俯いたままゆっくりと立ち上がる。
一度シャワーを止めると、シャンプーボトルに手を伸ばした。
シャンプーで丁寧に洗った後は、コンディショナーを髪に馴染ませる。
充分に馴染んだコンディショナーを洗い流すと、元々綺麗な髪がより一層肌触りが良くて艶のある髪に進化した。光沢のある黒髪は、鏡のように相対するものを映すような煌めきを放っている。
顔に掛かる前髪を横に流すと、ボディタオルにボディソープを馴染ませ、愛撫するような力加減で身体を擦っていく。
紫苑は腕、背中、脚、腹と順に洗っていたが突然手を止め、嫌悪感に満ちた歪んた顔を顕にしながら自分の胸を見下ろす。
そして一度深く溜息を吐いた後に、今まで優しく愛撫していたのが嘘かと思う程の力強さで胸を擦り始めた。
嫌悪感を振り払うかのような手付きであり、敏感な肌が摩擦で赤くなっていく。
穢れた身を清めたいかの如く胸部を擦っていると――
「っつ……!」
不意に痛みが走った。
無我夢中で胸部を擦っていた紫苑は、突然の痛みに平静でなかったことに気が付く。
「あ……」
痛みを感じた胸に目を向けると、すっかり赤くなっていた。
傷が出来ていなかったのは幸いだ。
(これじゃ黛に見せられないよ……)
自分で「抱いて」と言っておきながら肌のケアを怠ってしまった事実に頭を抱えたくなった。
(少し冷やそ……)
ボディソープの泡に包まれた身体をお湯で流した後に、シャワーを冷水に変えて胸部に浴びせる。
「つ、冷たっ……!」
冷たいのはわかっていたことなので
すぐにシャワーを止めて冷水を回避する。
しかし、それでは意味がないので、覚悟を決めて再び冷水を流す。
(い、一分くらい冷やしたらお湯に戻そう……!!)
先程までの怯える小動物のような震えではなく、今度は寒さに耐えるように身震いしている。
歯をカチカチと小刻みに打ち鳴らしながら身震いする紫苑は、胸中で秒数を数えて体感では非常に長く感じる一分間を過ごす。
一分間冷水を胸元に浴びせたら、目にも留まらぬ速さでお湯に切り替える。
お湯を浴びて「ほっ」と一息吐いた紫苑は、逃げるように自宅を飛び出した時からずっと心ここにあらずだったが、冷水を浴びたお陰で頭が冴えて、冷静な思考力を取り戻すことが出来ていた。
「そういえば……どのくらいシャワー浴びてたんだろ……?」
長々とシャワーを浴びていた気がした紫苑は首を傾げながら呟いた。
「そろそろ出ないと……」
いつまでもシャワーを流し続けるのは水道代とガス代が勿体ない。
自分で支払いをしているのなら兎も角、厚意で使わせてもらっている身なので無駄遣いをする訳にはいかなかった。
そもそも実親のことをずっと待たせてしまっている。
突然夜遅くにびしょ濡れになりながら目元を腫らした姿でやって来てしまった。
間違いなく心配を掛けている筈だ。
そんなやきもきした状態でいつまでも待たせ続けるのは申し訳ないので、早く安心させた方が良いと思い至った。
◇ ◇ ◇
「おまたせ」
浴室から出た紫苑は、リビングのソファに腰掛けて待っていた実親に声を掛ける。
「少しは落ち着いたか?」
「うん。お陰様で」
「そうか」
少々慌て気味に脱衣所を出た紫苑の髪は湿っており、身に付けているのは下着だけであった。
下着は上下黒で布面積の少ないシースルーのランジェリーだ。
ショーツはTバックで、彼女の張りのあるプリっとした尻が強烈な存在感を放っている。
セクシーな下着で惜しげもなく肌を露にしている紫苑は、恥ずかしがることなく実親の隣に腰を下ろす。
「ねえ……抱いてくれる?」
紫苑は実親にしなだれかかって耳元で囁く。
「……本当に落ち着いたのか?」
先程のやり取りはなんだったのか? と問いたくなる紫苑の発言に、実親は溜息を吐きそうになった。
「冷静になった上で言ってるの」
紫苑は実親のことを押し倒してしまう。
仰向けになった実親の腰に跨った紫苑は、微かに潤んでいる瞳で見下ろす。
実親は男なので紫苑に押し倒さることなく座ったままでいられたが、いくらでもサンドバッグになるつもりだったので今は抗うことなく彼女の好きにさせていた。
セクシーなランジェリーを身に付けた美少女に跨られているシチュエーションは、一般的な男子高校生なら鼻の下を伸ばして興奮すること間違いなしだろう。
しかし実親は眉一つ動かさずに泰然自若としている。
果たして本当に健全な男子高校生なのだろうか? とツッコミたくなるところだが、紫苑は実親の家でも下着姿で過ごすことが多々あるので、今のような状況にはすっかり慣れていた。
勿論実親だから下着姿を晒すのであって、他の男の前では絶対にしない。
それだけ紫苑が心を許している証拠だ。ついでに誘惑しているのもある。残念ながら今のところ全て不発に終わっているが。
「ならまずは事情を説明しろ。話はそれからだ」
「流れに身を任せて抱いてくれれば良いのに……」
下着姿で迫っても相変わらずその気になってくれない実親の態度に、紫苑は自分に魅力がないのかと落ち込んでしまう。
「言っておくが、お前のことを抱きたいか抱きたくないかで言えばめちゃくちゃ抱きたいぞ。そこは勘違いするな」
実親は紫苑の引き締まった腹を優しく撫でる。
「そっか……」
ずっと覇気のない沈んだ表情だった紫苑の頬が擽ったそうに緩む。
「だからまずは何があったかのか話してくれ」
実親だって紫苑のような美少女に迫られるのは悪い気はしないし、情欲を掻き立てられる。だが、如何せん脈絡がなさ過ぎるし、目元を腫らした顔を見せられたら情欲よりも心配の方が上回ってしまう。
「……わかった」
ことを急いていた自覚があったのか、紫苑は素直に頷いた。
「あのね――」
わなわなと唇を震わせて絞り出すように言葉を紡いでいく。
その間は終始怯えのような影が顔に差しており、今にも泣き出してしまいそうな弱々しさがあった。
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