第66話 焼肉
高跳びの決勝が終わった後、実親と紫苑は伊吹を夕食に誘った。
いつもなら食事制限の関係で断られるところだが、今日はコーチが特別に許可してくれたのだ。
しかし、伊吹は先に梅木達と食事を共にする約束をしていた。
梅木達も普段は食事制限をしているので、この機会に好きな物を
先に約束してしまった以上、実親達の誘いを受ける訳にはいかない伊吹は大変困った。
折角鳴門市まで応援に来てくれた友人の誘いを断るのは気が引けたのだ。とはえい先約がある以上は断るしかない。
申し訳なさを感じつつも断ろうとしたところで、話を聞いていた梅木が「一緒にどう?」と提案してくれた。
そして現在は、実親、紫苑、伊吹、梅木、町野、今帰仁の六人で鳴門駅の近くにある焼肉店にいた。
鳴門市は海に接しているので海産物が名産なのだが、普段食事制限を徹底している少女達はがっつり肉を食べたかったようで、焼肉に即決したのだ。
実親、紫苑、伊吹が一つのテーブル席を囲い、その隣のテーブル席に残りの三人が腰を下ろしている。
一同は既に思う存分焼肉を堪能しており、箸が止まる気配が全くない。
普段食事制限をしている所為なのか、ここぞとばかりに肉を平らげていく高跳び選手の四人は、会話も忘れて肉に夢中になっていた。
平らげているとはいっても、流石に年頃の女の子なので上品に食事をしている。
「ちゃんと野菜も食べなさい」
梅木が隣に座っている今帰仁の皿に焼けた野菜を乗っける。
肉だけではなく、確り野菜も食べているあたりはやはり意識が高い。
焼き奉行になって今帰仁と町野の世話を焼いている梅木は本当に面倒見が良い。
「梅ちゃんがあーんしてくれたら食べるー」
「はいはい」
梅木は先ほど皿に乗せたかぼちゃを箸で摘まむと、今帰仁の口元に運ぶ。
それを嬉しそうに迎え入れた今帰仁はもぐもぐと咀嚼する。
「私も……」
「……一回だけよ」
「うん」
羨ましそうに眺めていた町野が呟くと、梅木は呆れながらもピーマンを箸で掴む。
そして対面に座っているので身を乗り出す態勢になった町野の口に、優しくピーマンを運んだ。
今帰仁と町野は梅木のお陰で幸せなひと時を過ごせていて何よりである。
「そういえば椎葉さん」
そんな二人を放置して梅木は伊吹に視線を向けた。
「なんですか?」
伊吹は箸を止めて首を傾げる。
「私来年は東京の大学に進学する予定だからよろしくね」
東京にいれば顔を合わせることもあるかもしれない。
都合をつけて一緒に遊びに行ったり、食事に行ったりも出来るだろう。
「私は殆ど学校と寮の往復しかしてないのであまり詳しくありませんが、それでもよければこちらこそよろしくお願いします」
「それなら一緒に開拓しましょうか」
わからないなら足を運んでお気に入りの店や場所を見つければ良い、と梅木は微笑みを向ける。
「私も東京の大学に行くよ」
町野が会話に加わる。
「お二人共東京の大学なんですね」
「うん。ウメと一緒に暮らすことになってるから」
「え、もしかして同じ大学なんですか?」
「ううん、大学は別」
伊吹の問いに町野は首を左右に振って答える。
「二人共全国各地の大学から誘われてるけど、マッチは梅ちゃんほど頭良くないから」
「そう。ウメが行く大学は偏差値高すぎて私には無理」
今帰仁の補足に町野は無表情で頷く。
梅木と町野は有望な高跳び選手として多くの大学から勧誘されている。
二人は元々進学予定だったので、誘われている中から進学先を決めることになった。
「でもウメと一緒にいたいから別の大学だけど私も東京に行くことにしたの。勿論、練習環境や指導者のことも考慮した上でだけど」
「町野さんは関西の大学に行くのかと思ってました」
「誘われてたけどね」
町野は三重県在住だ。
なので陸上に力を入れている関西の大学に進学すると思っている者は多い。伊吹のように。
「参考までにお聞きしたいんですけど、梅木さんはなんで東京の大学に進学することにしたんですか?」
伊吹も大学進学を考えている。
可能なら高跳び選手としてスカウトされた上で進学したいと考えていた。その方が学費の免除などを受けられて親の負担を軽減出来るからだ。
「私は学びたいことと高跳びの練習環境がマッチしている大学を選んだのよ」
希望に沿う大学から勧誘されていることが彼女の努力の証だろう。
「それと、これが一番の理由なのだけれど」
「?」
少々困った顔になった梅木は恥ずかしそうに続きの台詞を述べる。
「私が一人暮らしすることに母が反対していて、東京の大学に通っている兄と一緒に住むなら認めるという条件があったのよ」
「え、でも町野さんと一緒に暮らすんですよね?」
「マチは母のお気に入りなのよ。それでマチのことも心配だから、兄が住んでいるアパートの隣の部屋に二人で暮らしなさいって言われてね」
「そんなに都合良く隣の部屋が空いてますかね……?」
娘としては過保護な扱いを受けるのは気恥ずかしいが、親心としては可愛い娘が都会で一人暮らしするのは心配で仕方がないだろう。
何かあっても男がいれば心強いのは間違いないので、兄妹一緒なら親としても多少は安心出来る。
ついでに娘の親友も一緒ならより安心という訳だ。
しかし、隣の部屋が空いていなければ意味のない話なので伊吹の指摘は尤である。
「そのアパートはうちの所有物件だから問題ないのよ」
確かに梅木家が所有している物件なら都合はつけられるだろう。
だが、まさか東京に物件を所有しているとは思いもしなかった伊吹は驚いて目が点になっていた。
「吃驚だよねー」
今帰仁が「うんうん」と頷いて共感している。
「梅ちゃんはお嬢様なんだよ。お金持ちなの!」
何故か自分のことのように誇らし気に胸を張る今帰仁の口元には焼肉のたれがついていた。
「……確かに言われてみれば梅木さんはいつも言葉遣いが丁寧で淑女って感じでしたね」
「母が厳しい人なのよ。礼儀作法は勿論、習い事も色々させられたわ」
「お母様の一存で全てが決まるんですね」
「そうなのよ。だから大学選びも苦労したわ……」
梅木が真面目で責任感があり、言葉遣いが丁寧で簡単に諦めない強い心を持っているのは幼い頃から厳しく英才教育された賜物であった。
「町野さんと一緒に暮らす理由はわかりましたけど、寮に入るのは駄目だったんですか?」
当然の疑問だろう。
寮によるかもしれないが、門限、寮母、食事など安心出来る要素が多々ある。母親の心配も軽減出来るに違いない。
「父の仕事関係の人や、家と繋がりのある人との付き合いで門限までに帰宅出来ないこともあるのよ。それに続けなきゃいけない習い事もあるから寮で暮らすのは難しいの」
「大変ですね……」
「もう慣れたわ」
住む世界が違うブルジョアの事情を垣間見た伊吹は、簡素な感想しか浮かんでこなかった。
「今もこうやって焼肉を食べに来ていることを母に知られたら叱られてしまうかもしれないわね」
女の子が焼肉屋なんてはしたない、と眉を顰める母の姿を容易に想像出来てしまった梅木は乾いた笑いを漏らす。
「なら今は焼肉を堪能しないとですね」
「そうね。今は母のことを忘れることにするわ」
友人達との楽しい食事中にしんみりとした空気を流して水を差すのは良くないと思った梅木は、箸を手にして食事を再開した。
「はい梅ちゃん、あーん」
「ウメ」
そして立て続けに今帰仁と町野からあーん攻撃を食らうことになるのであった。
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