第57話 被害者
「あ、町野さんが跳びますよ」
いつの間にかスタッフがバーを上げ終えており、試技開始の合図が出た。
最初の試技者である町野が助走を取り始めていたのに気付いた伊吹が呟くと、三人は一斉に町野へ視線を向ける。
「ほんと憎たらしいくらい余裕綽々としているわね」
「梅ちゃんはギラギラし過ぎなんだよー」
「あんたは不真面目すぎるのよ」
「いてててっ!」
助走を取る町野は平静を保っている。緊張している気配がなく、萎縮しているようにも見えない。
いつもの作業を淡々と
梅木が思わず愚痴を漏らしてしまうのは仕方がないだろう。
軽口を叩いた仕返しに頬を抓られた今帰仁は涙目になる。
町野は一度深呼吸をすると、軽やかな足取りで走り出した。
左側から半円を描くように助走し、右足で踏み切ると同時にバーに背を向ける。左手と頭部から飛び込み、身体を反ってバーを越えた。そして、そのまま背中で着地する。
無駄一つない洗練された跳躍に誰もが見惚れてしまう。
「流石マッチだねぇ。まだまだ余裕あるよ」
胡坐をかいて背後の地面に両手をついてる今帰仁が呟く。
バーよりだいぶ高い位置を背中が通過しており、まだ実力の全てを出していないのが傍目にも察せられる。
「全く……嫌になるわね。こっちは苦戦しているっていうのに」
「梅ちゃんはギアが嵌まればもっと跳べるでしょ」
溜息を吐く梅木を今帰仁がフォローする。
梅木の実力なら一メートル七十六センチを跳ぶことは可能だ。実際に彼女の自己記録はもっと高い。上手くギアが嵌まってリズムに乗ることさえ出来れば間違いなく跳べる高さだ。
「そもそも高校の女子高跳びは、一メートル七十六センチを跳べれば優勝出来てもおかしくない記録なのよ」
「まあねぇ。ただマッチがいるからここ三年くらい記録がバグってるけど……」
三年前のインターハイ優勝者の記録が一メートル七十六センチだった。
年によって記録は前後するが、本来は既に優勝者が決まっていてもおかしくない高さなのだ。
それこそ今年の今帰仁の記録でも、違う年なら優勝出来ていたかもしれない。
「本当に生まれる時代間違えたよねー」
力なく「ははは」と乾いた笑いを漏らす今帰仁からは生気が感じられない。
「まあ、一番の被害者は梅ちゃんだけど」
最も割を食っているのは梅木だ。
同級生にどんでもない怪物がいるばかりに優勝出来ないのだから。
町野が出ていない大会では優勝出来るが、出ている時は準優勝に甘んじる。
仕方がないとはいえ、今帰仁は同情せずにはいられなかった。
「まあ、目標になるライバルがいた方が燃えるから望むところよ」
「流石梅ちゃん、強気だねー」
いくら努力しても越えられない壁がずっと立ち塞がり続けていても、腐らずにひたむきに努力を続ける梅木は心が強い。
落ち込むどころか逆に燃える。だからこそトップアスリートになれるのだろう。
「もう少ししたら二人共引退するから私は良いけどさー」
「椎葉さんに負けてるあんたが何言ってんの……」
「……もしかして次からは私が梅ちゃんの立場で、ブッキーがマッチの立場になる?」
「今のままならそうなるでしょうね」
町野と梅木が部活を引退したら自分の天下が来ると思って余裕をぶっこいていた今帰仁は、現実を突きつけられて呆然とする。
そんな残念な姿を晒す彼女に対して、梅木は可哀想なものを見るような視線を向けた。
「それじゃ次は私の番だから行ってくるわね」
試技を行うのは町野、梅木、伊吹の順だ。
町野の番が終わったので次は梅木の番だった。
梅木は背を向けたまま片手を振り、マーカーへ向かっていく。
マーカーは助走位置の目安となる目印のことだ。各自二つまで置くことが出来る。
「ブ、ブッキー大魔神が私の前に立ちはだかる世界になってしまう……!?」
「誰が大魔神ですか……」
真面目に高跳びをしているだけなのに大魔神呼びされてしまった伊吹はジト目を向ける。
今帰仁が打ちひしがれている間に、助走位置についた梅木が走り出した。
助走位置は右側だ。そこから半円を描くように助走すると、左足で踏み切り跳び上がる。
右手と頭部から飛び込み、バーを越えていくが――
「当たっちゃった……」
伊吹がポツリと呟く。
梅木の尻がバーに接触してしまったのだ。
マットに背中から着地した梅木は「落ちるな!」、と念じているかのような目線を揺れているバーへ向ける。
しかし彼女の祈りも虚しく、バーは落下してしまった。
その瞬間、会場が溜息に包まれる。
息を殺してバーの趨勢を見守っていたので、落下したことで一斉に息を吐いてしまったのだ。決して梅木に落胆した訳ではない。
落ちていくバーを目で追っていた梅木は一瞬悔しそうに唇を噛むが、すぐに気持ちを切り替えて平静を取り戻し、マットから降りた。
「梅ちゃん惜しい……!」
いつの間にか正気に戻っていた今帰仁は頭を抱えて悔しがる。
「相変わらず豪快な跳び方でかっこいいけど、その分バーに当たる衝撃も大きくなるからなー」
「そうですね。でもあれが梅木さんのスタイルですから」
「ギアが嵌まりさえすればだねー」
博打上等のスタイルをやめれば良いのではないか? と思うかもしれないが、そんな簡単なことではない。人にはそれぞれ適したスタイルがある。
梅木の場合は安定感を重視するとそれなりの結果を残すことは出来るが、肝心の記録が伸びなかったのだ。寧ろ博打上等の時より低下してしまう始末である。
今まで色々と試行錯誤してきた末に、博打上等が彼女には最も合っているスタイルだと判明した。その結果、トップ選手の一員になれたのだ。
「次は私なので行ってきます」
「うん。頑張ってー」
立ち上がった伊吹は気を引き締めると、今帰仁の声援を背に自分が置いたマーカーを目指して歩き出した。
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