第37話 姓

 映画研究部の一員として忙しなく動いていた紫苑は、実親が腰掛けているベンチに腰を下ろして隣り合う。

 するとシャンプーと汗の匂いが実親の鼻腔を擽った。不快感はなく、寧ろ心地よい。

 元々紫苑から発せられる匂いは嫌いではなかったが、最近は一緒にいることが多いのですっかり安心感を与えてくれる香りになっていた。実親の家にあるシャンプーを使うことも多々あるので、それが影響しているのもある。


「黛はずっとここにいるね」

「ああ」


 実親は映画研究部と演劇部が炎天下の中でも汗を流しながら撮影に励んでいるところを一人だけ木陰で見学していた。


「仕事してたの?」

「時間がもったいないからな」


 ポメラ――正式な製品名はポケット・メモ・ライター。実親が愛用しているのは折りたたみキーボード搭載機種――で小説を書いていたので楽をしていた訳ではない。仕事をしながら見学していただけだ。

 そもそも彼は映画研究部でも演劇部でもないので日陰で見学していても誰も不満をいだかない。


「それなら邪魔しちゃ悪いね」

「気にするな」


 仕事の邪魔をするのは悪いと思った紫苑は席を立とうとするが、実親はポメラを閉じて鞄にしまった。


「良いの?」

「ああ。お前と話す時間は好きだからな」

「……口説いてる?」

「事実を言っただけだ」


 傍目には口説いているようにしか見えないが、実親にそんなつもりはない。純粋に紫苑と話す時間が好きなだけで他意はなかった。

 紫苑も表情を変えていないので真に受けている訳ではなさそうだ。


「私じゃなかったら勘違いするよ?」

「本心を口にしただけなんだが……」


 彼女の場合は実親と共にいることが多いので普段から甘い言葉を口にするのは知っている。なので誤解することはないが、耐性のない人なら真に受けてしまってもおかしくない。


 苦言を呈する紫苑は足を組んで膝に右肘を置いて頬杖をつき、呆れた表情を浮かべながら「ほんと罪作りだよね」と呟く。

 その呟きは風に乗って流れて行ったのか、実親の耳には届かなかった。


 沈黙が場を満たすが二人は喋ることなく時間の流れに身を任せ、休憩している面々の様子を眺めている。

 時折風が吹いて髪が靡く。穏やかで居心地よい空間だ。


 二人はこういった時間を好んでいる。

 特に何かをするでもなく、会話をするでもなく、沈黙していても居心地が悪くならない。

 共に過ごすことが当たり前になっているからか、元々相性が良いからなのかはわからないが、二人にとっては心が安らぐ時間だった。


 一人木陰に突っ立ってスポーツドリンクを飲んでいる伊吹に視線を向けた実親は、ふと疑問をいだいておもむろに呟く。


「そういえばインターハイは来週だったよな? 椎葉は本番に向けた調整で忙しくないのか?」

「どうだろ? 大丈夫だから協力してくれているんじゃない?」


 どうやら紫苑も伊吹の都合を把握していないようで首を傾げている。


「無理してなければ良いが……」

「本人にいてみよっか」


 そう言うと紫苑は息を吸い――


「伊吹ー!」


 伊吹の鼓膜に届く声量で呼び掛けた。手招きつきでだ。

 右手で頬杖をついているので左手で手招きしている。


 確りと声が届いていたようで伊吹が顔を向けた。

 そして呼ばれていることに気付いて歩み寄って来る。


「どうしたの?」

「ま、座って座って」


 伊吹は首を傾げて要件を尋ねるが、紫苑は問いに答えずに自分の右隣のスペースを右手で軽く叩いて座るように促す。

 素直に伊吹が腰を下ろしたので、左から実親、紫苑、伊吹が並んで座る形になった。


「休憩時間になってから伊吹ずっと一人でいたけどこっち来れば良かったのに」


 現在この場にいる一年生は実親、紫苑、伊吹の三人だけだ。他は二、三年生しかいない。居場所がなくて孤立してしまうのは仕方がないだろう。

 勿論先輩達も気に掛けて声を掛けたりしているが、それでも居心地は悪い。親交が浅い相手だと尚更だ。


 その点同級生で親交のある紫苑と一緒にいれば孤立することはない。実親とも何度か顔を合わせているので肩肘を張ることはない筈だ。

 しかし伊吹は一人でいた。紫苑が疑問を抱くのは尤もだろう。


「二人が良い雰囲気を醸し出していたから近寄りがたかったの」

「そう?」


 紫苑がコテンと首を傾げた。


「良い雰囲気か?」


 実親も疑問を浮かべている。


「うん。まるで熟年夫婦かな? って思うくらいお互いに身を任せている感じだったよ」


 実親と紫苑は談笑していた訳でもなければ、乳繰り合っていた訳でもない。静謐な時間に身を預けていただけだ。心地よい時間で二人共穏やかに過ごせていた。

 それに普段一緒にいる時と雰囲気は変わらない。二人の中ではいつも通りの光景だった。

 故に二人は自分達が醸し出していた雰囲気に気が付いていなかったのだ。


 傍目には夫婦のように信頼し合っているようにしか見えず、二人だけの特別な空間に入り込む勇気を伊吹は持ち合わせていなかった。


「黛紫苑か……悪くないね」


 紫苑は「うんうん」と頷いて満足そうな顔になっている。


「久世実親かもしれないだろ」

「いや、それはない」


 実親のツッコミを紫苑は間髪入れず否定する。


「私は久世の姓を捨てたいし、そもそも黛は長男なんだから駄目でしょ」


 紫苑は母の姓である久世には微塵も愛着がない。寧ろ母と同じ姓なのが嫌だった。自分も将来母のようになるのではないかと思ってしまい嫌悪感すら抱く。可能なら捨ててしまいたかった。

 実親のことは信頼しているし、人として好きだ。なので黛姓になれるのは喜ばしいことだった。

 とはいえ二人は恋人ではない。あくまでも仮定の話だ。


 そして実親が長男であることと、妹が二人いることを紫苑は知っている。――妹が千歳であることは知らない。

 妹二人が嫁入りせずに婿を取る可能性もあるが、現実的に考えると嫁入りする可能性の方が高いだろう。そうなると長男である実親が婿入りしてしまったら家系が途絶えてしまう。


 前時代的な価値観かもしれないが大事なことだ。現代だと一般的な家庭には縁のない話かもしれない。しかし脈々と受け継がれてきた歴史や資産を守る為に由緒ある家柄や、富豪層などでは今も存在する価値観だ。家督を継ぐ、家業を継ぐ、と言えばわかり易いだろうか。

 一般家庭でも墓の管理や遺産分割、親の介護の問題などに発展することもある。


 多様性の時代である現代にはそぐわない価値観かもしれないが、少なくとも紫苑は気にする性分だった。


「意外と古風なんだな」

「そう? 大事なことだと思うけど」

「まあ、そういう考え方は嫌いじゃない」


 歴史書を好んで読んでいる実親は家を守るという価値観に触れることが多々ある。

 その価値観は理解出来るし尊いものだと思う。勿論価値観は人それぞれなので強要することはないし尊重すべきだと心得ている。

 ただ長男である身としては色々と考えさせられることだと実親は思っていた。


「そもそも今後弟が出来る可能性もあるが」

「確かに……」


 再婚して間もない悟と皐月のことなのでよろしくなっていることだろう。

 皐月の年齢的に厳しい面もあるかもしれないが、弟や妹が出来る可能性はゼロではない。


「でも駄目だよ。私が黛になるから」

「あくまでも夫婦になる前提なんだね……」


 目の前で繰り広げられるやり取りに伊吹は苦笑する。

 なんでこれで恋人じゃないんだろう? と内心で首を傾げていた。


「私は結婚しよって言ってるんだけどねぇ」

「え」


 紫苑は左肩で実親の右肩を軽く小突く。


 予想だにしない言葉を耳にした伊吹は、まさかプロポーズしていたの!? と呆気に取られて口を半開きにさせていた。


「でも黛が首を縦に振らないんだよー」

「お前本気で言ってないだろ」

「半分、ううん、八割方本気だよ」

「十割になってから言え」

「えー、厳しいなー」


 一向にまともに取り合わない実親の態度に紫苑は口を尖らせる。


「ラブラブだね……」


 伊吹は思っていたこと無意識に呟いていた。


「私の一方通行だけどねー」

「それも冗談で言ってるだろ」

「あ、バレた」


 二人はその場のノリでふざけているだけなのだが、傍目には乳繰り合っているようにしか見えない。

 伊吹が「私ここにいて邪魔じゃないのかな?」と思う程だ。


「まあ、もしお前が本気になったのなら俺も真剣に向き合うけどな」

「お、脈あり?」

「そうだな。脈はあるぞ」

「おお!!」

「少なくともお前のことは好ましく思っている」


 実親だって男だ。紫苑のことは綺麗だと思うし、女性として意識することもある。付き合ったら楽しくて充実した日々を送れるだろうと。


 そもそも彼女の痴態を脳裏に刻み込まれた身としては、遠慮なく触れ合える関係になった方が悶々とする日々から解放される。

 実親としても悪い話ではないのだが、彼には彼の事情があるので恋人にはなれない。少なくとも今は。


「それよりも本題に戻るぞ」

「あ、忘れてた」

「おい」


 話が脱線してしまったが、本来は伊吹に無理をしていないか尋ねるのが目的だった。

 すっかり本来の目的を忘れていた紫苑は笑って誤魔化している。

 その様子に実親は肩を竦めて胸中で溜息を吐いた。

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