第35話 説明
「さて、そろそろ始めるか」
時計に視線を向けて時間を確認した宰が呟くと、多目的室に集まっている面々を見渡す。
そして全員に聞こえるように声量を上げて言葉を紡ぐ。
「時間になったのでオーディションを開始します」
宰に視線が集まる。
今回多目的室に集まっていたのは、映画研究部が学園祭で上映する自主制作映画を撮影するにあたって出演するキャストをオーディションで決める為であった。
オーディションに参加するのは演劇部の部員だ。演劇部の部員全員ではなく、あくまで希望した者に限られる。演劇部は学園祭で劇を上演するので、そちらに専念したい者もいるからだ。
映画研究部と演劇部の間では盛んに交流が行われている。
今回のように映画研究部が自主制作映画を撮る際は、演劇部の部員に演者として参加してもらっていた。
演劇部としては芝居を出来る機会でもあり、将来的に役者を目指している者にとっては得難い経験の場となっている。
「事前に皆さんにお渡ししたオーディション用の台本は持っていますか? もし忘れた方がいたら申し出て下さい。予備の台本を用意してあるので」
今回のオーディションの件を演劇部に伝えた際にオーディション用の台本を渡してある。
この台本は宰が作成した物だ。実親が書いた脚本から要点を抽出している。
演劇部の反応を窺っていたが、どうやら台本を忘れた人はいないようだ。忘れずに確りと持参しているあたりは意識の高さが窺える。
「問題ないようなので説明を続けます」
演劇部の部員は私語を止めて宰の説明に耳を傾けている。
先程まで滑稽な姿を晒していた斗真も真剣な表情だ。
「
演劇部には事前に希望する役のアンケートを取っていた。なので宰たち審査員の前にはオーディションに挑む役を纏めた資料がある。宰が纏めた資料だ。
言わずもがな真帆は何も仕事をしていない。
紫苑は今回が初めてなので割り当てられている役目は限られており、負担を減らして映画撮影の空気を体験してもらうことに重きを置いていた。
ちなみに飛鳥は映画の主人公の名前だ。
飛鳥は女子高生の設定なので、演劇部の女子部員が演じることになる。
希望する人数が最も多い役だ。
芝居をするからには主人公を演じたいと思うのが役者の
「他の人は隣の控室で待機していて下さい。オーディションの邪魔にならない範囲でなら声出ししても問題ありません」
多目的室の隣の教室を控室として利用している。
待機している間の過ごし方は自由だが、あまり大きな声を出されるとオーディションの邪魔になってしまう。発声や演技の練習は程々にだ。
演劇部なら心得ている筈なので心配無用だろう。
「基本は台本の最初の部分から演じて頂きます。場合によってはこちらからカットを指定することもあるので、その場面を演じて下さい」
演者によっては重点的に演技を観たい場面もある。
演じる方は大変かもしれないが、臨機応変に対応してもらうしかない。
役者にとって対応力は欠かせない要素なので練習だと思ってくれれば御の字だ。
「場合によっては複数人での掛け合いをお願いすることもあるかもしれませんが、掛け合いの場に呼ばれなかったから不合格という訳ではありません」
オーディションは役ごとに行うが、配役は役者のバランスも大事だ。相性の善し悪しもある。
その際は掛け合いを行ってもらいバランスを確認する予定だ。
掛け合いの場に呼ばれたから合格という訳ではない。逆も然りだ。
主人公のオーディションから行うのも理由がある。
主役を中心に全体のバランスを考える為だ。
「一応全員のオーディションが終わるまでは控室にいて下さい」
掛け合いを行う時に呼ぶ場合もあるので、自分の番が終わったからと帰宅されては困る。
宰が概要を説明している中、手持ち無沙汰になっていた実親は手元の資料に目を通している。
一つの役だけオーディションを受ける者もいれば複数の役を受ける者もおり、「これは長くなりそうだ」と心の中で呟いていた。
伊吹はオーディションの概要を事前に聞いていなかったので、真面目な表情で説明に耳を傾けている。
真帆はテーブルに突っ伏したまま微動だにしていない。
まさか寝ているのだろうか?
表情の変化が乏しいのでわかり難いが、真帆の様子に紫苑が苦笑している。
もしかしたら本当に寝ているのかもしれない。
「オーディションの結果は来週には確定する予定です。合格者を纏めたデータは藤堂先生にメールで送ります」
藤堂先生は演劇部の顧問を務めている男性教諭だ。
フランクな先生であり、男女問わず生徒から慕われている。
校則にも厳しくなく緩い指導方針が特徴で、本人も気怠そうにしていることが多い。
紙の書類で渡すのではなくメールで送るのは今が夏休み中だからだ。
教師は夏休み中も仕事があるので学校にいることも多いが、確実に会える訳ではない。
故にメールで送ることになっていた。
「なので結果は藤堂先生から伝えられる手筈になっています」
宰は一度口を閉じて演劇部の面々の様子を窺う。
説明を理解しているかの確認だが、表情から察するに問題はなさそうだ。
それでも一応確認は必要なので確りと尋ねる。
「以上です。何か質問はありますか?」
周囲を見回すと、声を上げる者も挙手をする者もいない。
「質問はないようなので、これで説明を終えてオーディションに移ります」
その言葉に多目的室の空気が一層張り詰めた。緊張感が漂い、オーディションに対する気迫も伝わってくる。室内の気温が急上昇したかと錯覚する程だ。
演劇部の面々が如何に真剣に臨んでいるかがわかる。
どこからか唾を飲み込む音が聞こえた。緊張している誰かだろうか。
そんな中、ワクワクした気持ちを隠し切れていない者が一名いる。
斗真だ。
我慢出来ずに今にも動き出しそうなところを棗が押さえつけている。
勢い良く尻尾を振る犬と躾をする飼い主の映像が見えた気がした。
「では、先程説明した通り飛鳥役から始めます。最初は
ビクリと身体が動く女子がいた。
おそらく彼女が井口だ。まさかトップバッターだとは思っていなかったのだろう。元々緊張していたようだが、先程より一段と表情が硬くなっている。
仲の良い間柄だと思われる女子が井口に「頑張って」、と声を掛けてから控室に移動していく。
そして井口以外の演劇部員は全員いなくなった。
これからオーディションという名の熾烈な戦いが始まる。
今日は比較的気温が低くて過ごし易い一日だったが、多目的室では意中の役を射止める為に多くの者が汗を流した。
果たしてどのような結果になるのか。
今はまだ誰にもわからない。
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