4-12

「なあ矢吹、さっき早乙女と何話してたん?」

 観客席前での輪乗りの最中に、ふと風早が僕にそう尋ねてきた。『スプリングステークス』の勝馬投票券が発売締め切り直前のため、観客席と馬券発売機との間を行き来する観客たちのざわめきがこちらにまで聞こえてくる。

「別に、大したことじゃないよ」

 僕がそう言うと、風早は不機嫌な子どものように、ぷうっと頬を膨らませる。

「何やねん、けち。別に減るもんでもないやろ。気になるからはよ教えろ」

 そうぶっきらぼうにまくしたてる風早に、僕は何て返事をすればいいのか分からなくなってしまった。

「えっと」と呟きながら、僕はふとローレルの方に視線を移す。すると偶然、馬上の早乙女とゴーグル越しに目が合った。気まずくなってしまうかと思ったけれど、直後に早乙女は、僕に向かってふわりと軽く微笑んでくれた。それを見て、僕も何とか笑顔を返そうと、精一杯の微笑を浮かべる。

 上手く笑えていただろうか。

「おい矢吹、聞いとんのか」

 風早のその言葉で、僕はふと我に返った。

「え、あ、ごめん。聞いてなかった」

「何やねん、お前」と、風早が間髪入れずに僕にそう言った。

「そんでどうすんねん。やっと俺に教える気になってくれたか」

 風早は再び僕にそう尋ねる。風早はどうしても、早乙女との話の内容が気になって仕方がないようだ。

「しつこい男は嫌われるよ」と、僕が風早をからかうようにそう言うと、風早は急に「あ?」と怒ったように声を出した。

「彼女おらん奴にそんなこと言われたくないわ。まあ俺もおらんけど」

 風早は笑いながらそう言うと、急に「はあ」とため息を吐く。最後に自虐に走った結果、自分に悲しくなってしまったようだ。

「ごめんごめん、冗談だって」

 僕は風早の機嫌を取るようにそう言うと、少し考えながら「そうだなあ」と呟く。

「もしダンスが一着取ることができたなら、教えようかな」

 僕が呟くようにそう言うと、風早は「ほんまか」と言いながら、僕に向かって目をきらきらと輝かせてくる。

「しゃあ、俄然やる気出てきたわ」

 風早がそう言った直後、スターターがスタート台に向かって歩いていくのが見えた。

 スターターが乗り込み、スタート台はゆっくりと上がっていく。そしてスターターは、ゲートの向こうにいる係員の方を向き、手に持っている赤い旗を掲げた。

 ファンファーレが鳴り響いた。ゲート後方で周回していた三歳馬たちが、一頭ずつゲートへと誘導されていく。最初に1番の枠入りが完了すると、次にロッキーがゲートに誘導されていった。

「じゃあね、風早」と僕が言うと、風早は勝ち気な表情を浮かべながら、「おう、絶対負けへんからな」と僕に返事をする。そしてロッキーは、今日もすんなりと枠入りしてくれた。

 前後左右が区切られたゲート内で、僕はゆっくりと鼻から息を吸い込み、一秒以上かけて口から吐き出す。そして僕は、ちらりと右を見た。

 1番ゲートに収められた、カコノローレルの馬上の早乙女 風花は、ただじっと前を見つめている。

 目の前には敵はいない。

 ただそこにあるのはゴールだけ。

 そう言いたげな雰囲気が、既に一人と一頭から醸し出されていた。

 でも、僕たちにだって負けたくない理由がある。

 だからただでは逃がさない。

〈無敗の女帝〉は追われる側だ。

 そして僕らは追う側だ。

 逃げていくなら追いかけるのみ。

 音を上げるまで追いつめてやる。

 その時、僕はロッキーと一心同体になったような感覚だった。

 直後、ロッキーとローレルの間に、2番の馬が枠入りする。それと同時に、僕は前へと向き直った。

「そして最後に13番、ユウショウオリオンがゲートへと誘導されていきます」

 そんな実況の声が聞こえるほど、観客席には熱で満たされた静寂が漂っていた。先ほどまでのざわめきは、風に乗ってどこか遠くまで消えてしまったみたいだった。

「ユウショウオリオン、収まりました。出走馬全頭、ゲートイン完了。春のクラシック『皐月賞』への栄光をかけて、今――」

 そしてゲートが開かれた。

「スタートしました」と言う実況とともに、十三頭の三歳馬が一斉に走り出す。中山競馬場第十一レース、芝コース一八〇〇メートルのGⅡ競走、『スプリングステークス』の火蓋が今、切って落とされた。

「揃いました。各馬綺麗なスタートを切っています」

 そんな実況が響く中、僕はロッキーを1番の後ろにつけようとした。しかし、前方では既に数頭が先行争いを繰り広げている。そのせいで、スタートは悪くないのに出遅れるという形になってしまった。

 なるほど、これが『皐月賞』の前哨戦。これが実力者しかいない世界。

「やはり先頭に立ちました1番カコノローレル。後続とは既に二馬身ほど離れています。そして二番手を追走するのは6番キャプテンポラリス。その外からは11番リュウセイライナーがこれと並走する形になりました」

 そして馬群は第一コーナーに差し掛かった。

 観客たちから、歓声や拍手がターフへと送られていく。

 とりあえず、今はこの位置で走ろう。

 押して駄目なら、今は引いてみるしかない。

 大丈夫、前に出られるチャンスはきっと来る。

 誰に対して言うでもなく、僕はふとそんなことを思った。

 自然と、手綱を握る手にぎゅっと力が入る。

「さあ先頭は依然カコノローレル。さらに後続との差が開きまして現在三馬身差。それを追いながら逃げていくキャプテンポラリス。リュウセイライナーも負けじと追いすがる。

 その先頭集団から二馬身ほど離れまして、大外4番シノノメアルファ。内には9番ダイヤンフライヤーがいて、13番ユウショウオリオンはここにいました。この二頭の間を突いていきます。

 そしてここで大外から追い上げてきたのは8番ポケモーター。先行集団に追いつこうという勢いです」

 ロッキーの前を行く馬だけで、既にこのくらいの頭数がいる。

 こうして先行できないことは、ロッキーの経験上初の出来事だ。

 僕はふと、ロッキーが自分から仕掛けようとしていないかを確認する。

 大丈夫だ。いたって冷静に走っている。いつ仕掛けても問題なさそうだ。

 そう思った直後だった。

「ここで一〇〇〇メートル地点を通過。タイムはなんと五七秒四と表示されました。カコノローレル、こんなに飛ばして大丈夫なのか」

 まずい、いくらなんでも速すぎる。

 とにかく、このペースに飲み込まれないようにしなければ。

 落ち着け、まだ仕掛ける時じゃない。

 誰に対して言うでもなく、僕は心の中でそう呟いた。

「それから中団では三頭が固まっている。大外3番ロッキーロード。その内からは12番セトナイトスマイル。真ん中からは2番ヤタノポートレイトが行きます。

 後方では二頭が半馬身差の争い。大外5番マイベストフレンドが優勢だ。しかし内側から7番ダンガンストレイトがその距離を縮めていく。

 そして最後方からは10番ロックスカッシュが追う展開となりました」

 そして先頭の1番は、そのまま第三コーナーに入ろうとしていた。

 中山の直線は短い。そこまで来れば、残り六〇〇メートル地点は目前だった。

 第三コーナーで仕掛けるべきか。

 いや、それだと余計に脚を使ってしまう。

 かといって、最後の直線に出てからでは遅すぎる。

 だとしたら、どこで仕掛けるべきなんだ。

 そう思った次の瞬間、先行集団に動きがあった。

「あっと、ここでポケモーターが前に出てきた。リュウセイライナーを捉えようというところ。しかしその内からはユウショウオリオン、ルノーの左鞭が一発、二発。

 さあ第三コーナーに差し掛かった。残り六〇〇メートル、ポケモーターとユウショウオリオンが牙を向いた」

 よし、今だ。

 僕はここで賭けに出ることにした。

 手綱をしごくと同時に、待ってましたと言わんばかりの勢いで、ロッキーが加速を始める。

 今までのレースで、第三コーナーから第四コーナーまでの間で先行集団にまで縋り付けば、あとはロッキーが自動的に交わしてくれた。そして僕は、今回もロッキーがそうしてくれる可能性に賭けてみることにした。ゴーサインを出されたロッキーは、そのまま大外から4番と9番を交わしていく。僕はその後ろから、何者かが内側から近付いてくる気配を感じていた。

「各馬第三コーナーから第四コーナーへ。カコノローレル未だ先頭のまま。あっと、ここでキャプテンポラリス沈んだ。ポケモーターとユウショウオリオンが交わしていく。二頭が現在三番手争い。リュウセイライナーはまだ二番手で粘っている。

 ここで大外からロッキーロードが来た。ロッキーロードが三番手二頭を捉えるか。しかし内からダンガンストレイト。風早 颯也の鞭が飛ぶ。

 残り四〇〇メートルの標識を通過。さあ最後の直線、運命の直線だ」

 直後、ロッキーも大外から6番を交わしていく。ほとんどの騎手がここで鞭を飛ばす中、僕は必死に手綱をしごき続けた。

「さあカコノローレルに鞭が入った。リュウセイライナー頑張った。リュウセイライナーここで沈んだ。ユウショウオリオンがそれを交わしていく。ユウショウオリオン現在二番手。

 しかし外からロッキーロードも来ているぞ。内からはダンガンとポケモーター。熾烈な二番手争いだ」

 直後、内を走る7番と8番に、さらに鞭が撃ち込まれる。

 一気に二頭のギアが上がった。

 負けない。

 僕はそれに合わせて、手綱にさらに勢いをつけて、素早く振り下ろす。

 自然と手綱を握る手に力が入った。

 やがてロッキーがその二頭を交わすと、二番手にいる13番を捉えた。

「大外からロッキーロードが来た。ロッキーロードが交わしていく。残り二〇〇メートル。ここでユウショウオリオンと並んだ。現在二番手、この二頭の叩き合いだ」

 目の前には1番の一頭だけ。ロッキーのことなど見ていない。

 絶好のチャンスだ。

 そう思って、僕は1番のいる先頭を見る。

 そこには、目の前に1番がいるはずだった。

「先頭1番カコノローレル。さらにぐんぐん伸びていくぞ。その差は五馬身、いや六馬身。二番手との差がどんどん開いていく」

 先頭の1番にはもう既に、二番手を寄せ付けないほど遠くまで逃げ込まれていた。

 だめだ、さすがにこれは交わせない。

 そう思った直後だった。

 突然、ロッキーの隣から、一頭の馬が頭一つ抜け出していく。

 僕は思わずそちらへ振り向いた。

 13番、ユウショウオリオン。

 そう認識した時には、13番はもうロッキーのことを交わしていた。

「これは強いぞカコノローレル。後続との差がまたさらに開いた。ユウショウオリオン追い付けない。高嶺の花には届かない。強い。圧勝。七馬身差で今、ゴールイン。

 これは恐れ入りました。カコノローレル無傷の五連勝。見事『皐月賞』への切符を掴みました。そしてここで今、ようやく全頭がゴールイン。〈無敗の女帝〉カコノローレル、エイカンエンペラー産駒がまたもや実力でねじ伏せました。

 勝ち時計は一分四五秒二。最後の六〇〇メートルの通過タイムは三四秒一と表示されています。これは本当に牝馬なのか。レースレコードでの決着となっています。

 さあ、そのローレルから七馬身ほど離れまして、ようやく二着に13番のユウショウオリオン。またもや女帝に敗れました。そして三着と四着は接戦。大外3番ロッキーロードか、最内8番ポケモーターか。三着、四着は写真判定となりました。確定までお待ちください。そして五着に7番ダンガンストレイトが入線となりました。三着、四着は写真判定です。確定までお手持ちの勝馬投票券は捨てずにお待ちいただきますようお願いいたします。

 以上、中山競馬第十一レース、三歳GⅡ競走『スプリングステークス』の模様をお伝えいたしました」

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