ファンファーレ

菅原 諒大

序章

プロローグ

 あの日、僕は競馬という名のスポーツを観た。

 翔大しょうだいくんの家に上がって、二人でテレビを占領したのを覚えている。確か、十月二十三日の日曜日だったはずだ。直前まで外で遊んでいた僕たちは、発走時刻ぎりぎりで家に滑り込み、そのままテレビをつけてチャンネルを変えた。

 ファンファーレが鳴り響く。各馬一頭ずつゲートに誘導されていき、最後の一頭、18番がゲートに収まって、出走準備が整った。

 いよいよ、『菊花賞』の幕が上がる。

 そしてゲートが開かれた。

「スタートしました」という実況とともに、十八頭が一斉に走り出す。

 先頭で逃げる馬が一頭、直後の先行集団に六頭、中団にも六頭が固まっていて、後方では三頭が小競り合い、最後方から二頭が追いかける縦長の展開になった。

 三〇〇〇メートルの長丁場、三分越えのスタミナ戦。馬群は第四コーナーを抜け、観客席の前を通り過ぎていく。第一、第二コーナーを抜け、向こう正面に差し掛かったところで、一頭の馬が先行集団の外側から抜け出してきた。

「ここで一番人気の4枠7番エイカンエンペラー、じりじりと先頭との差を詰めていく」

 実況のアナウンサーがそう言うと、大外にいるエイカンエンペラーがカメラの真ん中に映し出された。黒地に赤い鋸歯形、赤地の袖に白い一本輪の勝負服を着た、青い帽子のジョッキーを乗せたエンペラーは、第三コーナーで二、三番手の位置まで上がって来ると、その勢いのまま第四コーナーで先頭の14番を捉える。馬群は最後の直線に差し掛かった。

「残り四〇〇メートルを切った。14番ハッチコンコルドまだ粘っている。内から2番フソウナイト、フソウナイトが追い上げてきた。コンコルド粘る。ナイトが追い上げる。二頭の激しい先頭争い。その外からエイカンエンペラーが来た。7番エイカンエンペラーも来ている。残り二〇〇メートル。ここでエンペラーが並んだ。先頭で三頭、三頭が並んでいる。エイカンエンペラーが交わした。エイカンエンペラー先頭。二頭が懸命に食い下がる。しかしエイカンエンペラーだ。エイカンエンペラー、そのまま二馬身差をつけて今、ゴールイン」

 その瞬間、隣にいた翔大くんが「よっしゃあ」と叫び、立ち上がりながらガッツポーズを掲げる。同時に、テレビ画面の向こう側で、地鳴りにも似た大歓声が湧き上がっていた。

「最後の一冠もエイカンエンペラー。圧倒的一番人気の期待に応えて、エイカンエンペラー、クラシック戦線を制しました」

 そのアナウンスに駆り立てられるかのように、観客たちは熱狂と興奮の渦に飲み込まれていく。場内のボルテージは、最高潮に達していた。

「そして今、新たな歴史が刻まれました。史上六頭目のクラシック三冠馬、そして史上二頭目の無敗三冠馬が、今ここに誕生しました」

 直後、惜しみない拍手が観客席から贈られる。熱戦を前にして、全員の心が揺さぶられているのが、画面越しでもひしひしと伝わってきた。

 その光景を前に、僕は何も言うことができず、ただ圧倒されるばかりだった。隣で翔大くんが興奮していることなどお構いなしに、何かに取り憑かれたかのように画面の前から離れなかったのを覚えている。同時に、僕の心の中で、何とも言えない、抑えられない本能のような気持ちが芽生えるのを感じていた。それは十歳の僕にとって、充分すぎるほどの影響力だった。

「決めた。僕、ジョッキーになる」

 その言葉が、僕の口をついてこぼれ出た。あふれんばかりの興奮から覚め、冷静になったばかりの翔大くんにも、その言葉は届いていた。

「ふうん。え?」と、理解が追い付かないとばかりに翔大くんは遅れて聞き返す。しかしその声には困惑ではなく、喜びを孕ませているような気がした。

 初めて見た競馬が、ここまで面白いものだとは思わなかった。まして今まで競馬なんて興味がなかったのに、たった一度の観戦で虜になってしまった自分がいる。

 競馬はギャンブルじゃない、スポーツなんだ。

 そして僕は確信した。ジョッキーになって強い馬と一緒に勝つことができたら、みんなが注目してくれるようになる。僕を否定する人間は、もう現れなくなるんだ、と。

「ジョッキーになって強い馬と出会って、そいつと一緒に戦って、すごい記録を打ち立てて。それでみんなから注目されるような、そんなジョッキーになりたいんだ」

 誰に向かって言うでもなく、僕は矢継ぎ早にそんなことを言ったような気がする。

 ふと隣へ目をやると、翔大くんは目を輝かせながら、首を縦に大きく振って「うん」とうなずいていた。

「だから見てて、翔大くん。僕は必ず、みんなから注目されるくらい強いジョッキーになってみせる」

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