人形の哀哭
雨が叩きつける石畳の道を、エカは一人で歩く。モルタルで塗り仕上げられた壁。赤い瓦の屋根。置き去りにされた時代を色濃く残す街並みは、管理者が居ない所為で既に朽ちていた。
こんなものただの化石だ、とエカは思う。地中から掘り出されていないだけで、古の生物の亡骸とまるで変わらない。ただ過去の有り様を示すだけのもの。
――食って生きていくのに、なんの役にも立ちやしない。
だが、そうと分かっていても、エカはこの場所から離れることはできなかった。
背後に置いてきた、目が黄色く光る四角い虫のような乗り物に後ろ髪を引かれながら、エカは斜面の上の建物を見上げる。町の中央に建てられた教会。エカの家――そして、エカの父の家。
父が戻ってくる日まで、エカは守らなければならない。
父の愛したこの街を。
分厚い扉を開け、教会の中に入り込む。女の像と背後の色付き窓を鑑賞するかのように長椅子が並べられた大広間。だだっ広いだけのこの場所の意義がエカには解らないが、世界が滅ぶ前は人々にとってこういうところは必要だったのだ、と父は昔言っていた。〝信仰〟というのだよ、と。
『それで生きていけるのか?』
そう問うたエカに、父は困った様子で笑って見せた。
人間は、食べて寝るだけでは生きていけないんだよ、と。
「……他に、何が必要なんだ」
それから、服も借りたままだったことを思い出す。良かったのかどうか分からないが、返しに戻る気にはなれなかった。
なんとなく気分が重くなり、一つ溜め息を吐いた。足を止めて顔を上げると、穏やかな表情で目を瞑る女の白い顔が目に入る。
昔、人間が救いを求めたという、その女。
――あの二人も、この像に救いを求めたりするのだろうか。
リオとアリィと名乗った男と女。兄妹、とか言っていたか。エカは、父以外の人間を初めて見た。二人とも、眼の色も髪の色も肌の色も違うのに、エカを覗き込む眼差しは不思議と同じに見えた。
家族だからだろうか。
それとも〝人間〟だからだろうか。
父と比べてどうだっただろう、と頭の中で彼らを比較しかけて、止めた。あまり良い気分にならなかった。足下に転がった黒ずんだ金属製の杯を爪先で蹴飛ばすと、長椅子の脚に当たって大きな音が鳴った。
残響が、エカの頭の中を白く染める。
『……まったく、どうしてこんなことをするんです?』
眼鏡の男が、長めの前髪を掻き上げる。彼とエカの足元には、様々な道具が散らばっていた。杯、皿、燭台――全てこの礼拝堂に静置されていた物だ。それが、まるで嵐が通り過ぎたかのように、床に散らばっていた。
祭壇に
はぁ、と溜め息を吐いてしばらく頭を抱えた後、男はエカの細い肩に手を置いた。
エカ、と目線を合わせて心地の良い低音で呼びかける。
『君はあまりに粗暴過ぎ、感情を剥き出しにし過ぎています』
深い褐色の瞳の中で光が揺れる。蝋燭の炎に似た小さくも穏やかな眼差しに、エカは口を尖らせて顔を背けた。
そんな娘の様子に、男は目を伏せ嘆息した。
『……僕が、もう少し上手に創ってあげられていたら』
「……くそっ!」
再び静まり返った礼拝堂に、エカの悪態が反響する。力強く握った拳を振り回す。だが、あらゆるものから距離を取っていたエカの拳が何かに当たることはなく、空虚な想いが増すばかりだった。
「カイ……っ」
噛み締めた歯の隙間から、父の名が漏れる。しばらくそうして怒りを圧し潰していた彼女は、ぎらつく緑の瞳を上げると、教会の扉に飛び付いた。
さっきの今、雨はまだしとしとと降り続いていた。エカは水が流れ落ちる斜面を駆け下りる。
雨雲は厚みを増して、空はさらに暗くなっていた。夜と区別がつかないほどだ。薄暗闇に乗じて孤独が押し寄せる。エカは歯を食いしばり、走る速度を上げていった。
バスは見つからなかった。
平坦で広い通りの真ん中で、膝に手をついたエカは浅い呼吸を繰り返した。白銀の髪から水が滴り落ち、せっかく着替えた服はもうびしょ濡れだった。
身体が冷える。
脚の力がすっと抜けて、エカは地面に座り込んだ。空を仰げば、灰色の雲が速い速度で風に流されている。
だが、一向に雨が上がる様子はない。
エカは長く息を吐き、瞼を閉じた。
――これでいい……。
自らに言い聞かせる。もともと、この街を出ていく気などなかったではないか。
邪念を洗い流すように一身に雨を浴び続けたエカが趣に目を開けたのは、如何なる理由だっただろうか。
緑の瞳に空を映したエカは、目を
呆然と雨を見つめたエカは、ふと顔を通りの向こう側へと向けた。
黄色の光が視界を焼いた。反射的に目を瞑る。
「エカ!」
耳に飛び込んだ声に、エカの胸が高鳴った。光から目を背けつつ目を薄く開けば、人の形のシルエットが浮かび上がる。
それだけでもう、十分だった。
エカの足が、地面を蹴る。影へと一気に距離を詰め、その胸ぐらに掴みかかった。
「お前たち、カイを連れて行った男を知っていると言ったな!」
獲物を殺さんばかりの気迫で睨み上げるエカに、襟首を掴みあげた男――リオは
「……父さんだから」
「何処に行ったか、知っているんだな!?」
リオは逡巡した後、困り果てた表情でバスの方へと顔を向けた。視線の先には、バスの座席から降りた状態で立ち
「はっきりと知っているわけじゃないけど……父さんの跡を追いかけてはいるよ」
「なら、私を連れて行け!」
エカの足が一歩前へ出る。反対に、襟を掴まれたままのリオは一歩下がった。薄い青の瞳は、ぎらつくエカの瞳をまっすぐに見つめている。
「お前らの父親と一緒に、
エカの怒りが減衰していく。首を絞めんばかりに力を篭めていた手が、リオの襟元から落ちていった。俯いた先で、石畳の隙間を縫うように水が流れていく。
雨の所為だろうか、胸の中心が冷たかった。氷水の入った瓶を胸に抱えているかのようだった。冷たさが胸の中心から全身へと拡がっていく感覚が、途方もなく悲しい。
その冷たさが耐えられず、エカは大きく息を吸い込んで空を振り仰ぎ――叫んだ。
「失敗作だからって置いていきやがって! 絶対見つけて、ぶん殴ってやる!!」
エカの叫びに呼応したかのように、雨足が強くなる。叩きつける水音。大粒の雨は、ヘッドライトの光を受けて今も金色に輝きながら、エカの頭上に降り注いでいる。
まるでエカに向けられた
誰一人いない街の真ん中で自らの決意を讃えられ、エカは意志を硬めていく。
エカ、と優しい声で、目の前の男が囁いた。エカは肩で息をしたままリオの薄青の眼を
「私を連れて行け」
有無を言わせぬよう睨みさえしていたというのに、リオは怯むどころか頬を緩ませた。薄青の瞳に優しい光を宿して、首肯する。
「一緒に行こう」
「そうだよ」
傍に寄ったアリィが、エカの白い手を包み込むように握りしめる。じんわりと温かかった。冷え切った心がすぐに氷解するほどに。
「一緒に行こう?」
兄と同じ光を宿した上目遣いの琥珀の瞳に、エカはアリィの手を握り返した。
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