第443話 油風呂

「えぇ……? てっきり普通に攻略すると思って、昨日からアトラクションの練習してましたよ」



 スポッシャーのアトラクションを無視するルートで百十階層を攻略する旨をギルドで伝えられたクロアは、困惑するように垂れ耳を更に項垂れさせた。そんな彼女の犬人だからこそ目に見える落ち込みようを見て、努は誤魔化すような笑みを浮かべて頭を掻く。



「伝えるのが遅れて悪かったね。ただ、もし駄目だった時はクロアをアトラクション越えの手本にするつもりだから練習するのも無駄ではないよ。わざわざありがとうね」

「あたしもスポッシャーは得意な方っすけどね」

「じゃあ今から百十階層潜る? それでクロアに負けたら――」

「さっ! 確か今日はー、明日に向けて百四階層で戦闘を慣らす感じだったっすよね! 前回はディニエルに手柄取られてばっかりだったっすから、頑張るっすよー。師匠も油断してると明日は油まみれでギルド行きっすからね!」



 言った傍から嫌な予感がしていたハンナはすぐさま風見鶏のように意見を翻し、調子の良い声でそう言いながらいの一番に受付へ並んだ。そんな彼女を横目にクロアは不安そうに長めの尻尾をぺたんと地面につける。



「……ツトムさんならギルド長にも顔は効くと思うので大丈夫だとは思いますけど、ギルドから干されるのだけは避けたいです。念のため、事前にギルド長へスポッシャーに挑むことについて話しておいた方がいいかもしれません。許可が取れない可能性もありますから」

「あー、その噂は聞いたことあるね。まぁ、一回くらいなら見逃してはくれると思うけど、確かに一度伝えておいた方がいいかもね。クロアはその現場に居合わせてたの?」

「えぇ、まぁ……」



 ディニエルを中心としたPTがスポッシャーをアトラクション抜きで討伐し、その特典装備と思われるシルクハットを手にした後は、それを狙って自分たちも突破しようという探索者は少なくなかった。そして数多くの探索者が敗れ、ギルドの床は油まみれとなった。


 ただそうして敗れてしまった探索者たちもある程度信頼関係のあるギルド職員と一緒に笑い合いながら掃除したり、お詫びも込めて清掃業者を呼べるような金額をギルドに寄付したりなどして上手く回ってはいた。


 そしてギルドはその寄付金でスポッシャーに敗れた時専用の油汚れを落とす巨大な浴槽を設置することを計画し、探索者たちも文化祭のようなノリでそれを手伝って迅速な完成まで漕ぎ付けた。それからしばらくはスポッシャーに挑む探索者を応援する流れが続き、その内に紅魔団が突破して大盛り上がりしていた。


 だがそういった信頼関係をギルドと築けておらず、それでいて百階層を突破して勢いづいていた新参者たちはその気遣いを徐々に怠り始めた。それにレベルや到達階層だけで見ればギルド職員は自分たちよりも下のため、侮っていたこともある。


 初めこそ探索者とギルドの善意で回っていた環境は、そこで崩れ始めた。お祭りのような感覚も紅魔団が突破したことで失せ始め、こうあることが当然かのような空気も出回り始めた。


 そして最後にはスポッシャーに何度敗れても悪びれることなく我が物顔で浴槽を使い、忠告も聞き入れずに顎でギルド職員に後始末を押し付けるようにまでなった探索者たちに、堪忍袋の緒が切れたギルド長は大剣で浴槽を真っ二つに叩き切った。そしてその者たちにギルド施設の利用を一切禁ずることを宣言した。


 ただ、当時は上位への壁と認識されていた百階層を越えた複数のPTに施設を利用させないのは大きな損失になり得るし、いざとなれば自分たちの方が実力は上なので力でわからせることも出来ると思っていたのかその者たちはへらへらとしていた。


 まず、その者たちが利用していたギルドの銀行は凍結された。そして数日の内に引き取りにこなければ没収することを伝えられたので、迷宮都市の貨幣であるG《ゴールド》から預けていた装備品などすべてを引き払わなければならなかった。


 その膨大な荷物を数日で回収するのは、繋ぎ合わせによって最大容量も増やせる巨大なマジックバッグがあるので問題はなかった。だが問題はその莫大な資産の預け先である。


 貨幣であるGならまだしも、人を殺してでも手に入れることを厭わないような価値のある品々の入った巨大なマジックバッグの預かりを引き受けてくれるところなど、早々見つかりはしない。


 かといってそれらを今すぐGに全て替えるということも憚られる。そもそもダンジョン攻略に必要である装備や備品は山ほどあるし、換金しなければならない状況では交渉もろくに出来ない。それによってとあるPTは詐欺まがいの事件に巻き込まれてほぼ全ての財産を失い、またとあるPTはなくなく装備を売り払ったもののいい値で買い叩かれて銀行に預けざるを得なかった。


 そういった事例を目の当たりにしてようやく自分たちの犯したことの重大さに気付いた探索者たちは謝罪に転ずることとなったが、ギルドは有望な評価を受けていたPTだけを除きそれを受け入れなかった。


 そしてそれから許されなかったPTらは神のダンジョンにこそ潜れはしたものの、ギルド銀行は勿論だがその他にも魔石やドロップ品の買い取り、練習場、更衣室、食堂からトイレまで利用禁止にされ続けた。


 それにより探索活動に大きな支障が出始めてとうとう追い詰められた探索者たちは決起して力づくでのギルド制圧を実行したが、レベルや到達階層こそ低いが普段から探索者同士のトラブルを仲裁できるほど対人戦闘力のあるギルド職員相手に敵うはずがない。


 初めは正当防衛というポーズを取るためか劣勢だったようだが、周りからの言質が取れると確信した途端に探索者たちは瞬く間にギルド職員に処理されて警備団へと突き出された。

 そしてその探索者たちは今も尚、罪を償っている最中だという。


「やっぱり、外のダンジョンからやってきてる探索者は異質だと思いましたよ。正直、どっちが犯罪者かわかりませんでしたもん」

(カミーユからすればいい見せしめだったんだろうなぁ。傍から見れば結構タチが悪いって感じだけど、探索者も探索者だしな。結局、どっちもどっちって感じだ)



 そこまでスポッシャー事件に詳しくなかった努はクロアからその全貌を聞いて、おっかないなぁといった印象だった。確かに彼女の言う通り、一つしかない命を張っていた古参の探索者は神のダンジョン以降と比べるのはおこがましいのかもしれない。



「随分と懐かしいことを話しているものだな?」



 そんなことを話していた努とクロアの間に突然割り込むように入ってきた女性は、親しげに肩へ腕を乗せてきた。努はその声で察しはついていたが、クロアは酒臭さを感じたから酔っ払いとでも思ったのか少し不愉快そうな顔をした。しかしいざ振り向いてその人物が誰かわかった途端に、パッとその表情と声色を上げた。



「ぎ、ギルド長さん……!?」

「まぁ、確かに? ギルド内でも些かやりすぎだと言われたりもしたが、こちらとしても言い分はあるし節度は弁えたつもりだぞ? それなのに、そこまであくどく言われる筋合いもないのだがなぁ」

「で、ですよねぇー! すみませんでしたぁー!!」



 全開に尻尾を立てて向き直った後に潔く全力で頭を下げたクロアに対して、努は懐疑的な目をギルド長であるカミーユに向ける。



「話を聞く限りじゃ、あくどい大人が虎視眈々と上手い展開になるよう誘導してたとしか思えないですけどね」

「現場にも居合わせずに上辺の話だけで解釈するのはいかがなものかと思うがね? 今のツトムなら尚更実感を持ってわかるのではないか?」

「……それもそうですね」

「このこの~」

「やめて下さい」



 努個人としては刻印についての行動が原因で生産職から完全に干されている状況でもあるので、言い返す気も失せた彼は三年経っても見かけはそこまで変わっていないカミーユからのイジりを甘んじて受け入れた。



「取り敢えず、明日スポッシャーにアトラクション抜きで挑もうと思ってるんですが問題はないんですか? 万が一の清掃費用とかあれば出しておきますけど」

「そもそも私は節度を守れば構わないとあれから正式に宣言しているし、別に清掃費用もいらんよ」

「とは言いながらもいざ失敗したら前みたいに干してくるんですよね?」

「おい」

「あぁ、本当にすみませんでした。お願いですから干さないでください」

「殴るぞ?」

「それは本当にやめて下さい」



 カミーユが握り拳を作った途端におどけた調子から一転して真面目な顔で距離を離してきた努を見て、彼女は呆れたようにため息をつく。



「というより、大丈夫なのか? 勝算がないとは言わないが、絶対というわけではないだろう。もし失敗した時はそれこそ記事になるほど馬鹿にされて、また謂れのない不評を流されることも考えられるのだぞ? 今の新聞社のスポンサーには、アルドレットクロウの工房も入っているからな。ギルドのことを抜きにしてもリスクが大きい気がするが」

「仮に成功したとしても、ハンナの手柄だとか言われて大した評価はされないでしょうね。失敗したらそれこそレオンみたいに過去の産物扱いされそうですけど、最悪それでもいいですよ。それに――」



 努は周囲を見回した後に秘密とでも言うように人差し指を立てた後、カミーユの耳に顔を寄せた。



「……刻印の成果が出るのはまだ先ですし、ここまで強烈に叩かれてたら刻印のレベル上げに取り組むような人も少なくて済みますしね。これで頭の固い職人は勝った気になって停滞したままで、頭の柔らかい新参も表立ってレベル上げ出来ませんからね。むしろ楽でいいですよ」



 最後はクロアがギリギリ聞き取れるレベルのひそひそとした声でそう言った努に、カミーユは腕を組んだ後に唸る。



「……これでツトムの方がよっぽどあくどいということは証明されたな? クロア、こういう男だということを覚えておくといい。味方につけた判断こそ見事だが、時には味方にも無理難題を押し付けてくるし本人は常識外れなことも平気でするからな。無茶なことはスポッシャーだけでは終わらないし、まだ可愛い方だぞ」

「人聞きが悪いなぁ。別に不可能なことをクロアにさせるつもりはありませんよ。それに今のところは僕のしていることが上手くいかない可能性だって十分にありますからね。いやぁ、やっぱり今まで経験と年数を一生懸命積み上げてきた職人さんに素人は勝てないですよ。尊敬してまーす」



 死んだ魚のような目で建前を口にする努を前に、クロアは一層不安げな顔のままカミーユに尋ねた。



「あの、クロアはいざという時どうすれば……? 正直、ギルド長の言う通りリスクが大きいと思うんですけど……」

「諦めが肝心だ。……別にエイミーも、魔法をかけられたように強くなったわけではない。今はまだ許容範囲の無茶だろうが、ツトム側に付いた限りはいずれそういう目に遭う覚悟はしておいた方がいいぞ。ちなみにエイミーは、当時何回も泣きついてきたからな」

「えぇ……」



 多少はクロアのことも知り得ているギルド長からのアドバイスに、彼女は自分の未来を想像して子犬のように震えることしか出来なかった。

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