第4話-3
魔女クレイジーブーツは身動きが取れないまま上位者に抱きかかえられ瘴気の森を進んでいた。
「……どこ行くの?」
月の瞳は前を捉えたまま答えない。
森は深く、数メートル先も見えないような状態なのに上位者は迷いなく茂みを割って歩いた。いや、上位者がそうしているのではない。樹々が、森が彼を避けているのだ。まるで森の奥へ二人を誘うために。
「ヨニさーん?」
自分でかけた浄化魔法はとうに切れているのに魔女は楽に呼吸ができた。肺を冒される心配がないのはいいことだが、目的がわからず連れ回されるのは困る。
「お月さまー」
月の人よ。頭の中でそう呼びかけると上位者は少女を見下ろした。
(あ、反応した)
反応する時とそうではない時がある。言葉は恐らく通じていない。未だ謎に包まれた上位者の行動に魔女はううんと考え込んだ。
「ねえ、どこを目指しているの?」
どこに行きたいの? 私を連れてそこへ向かうの?
少女がそう思いながら月の瞳を見続けると上位者は一度少女を下ろして左腕に抱え直した。子供を抱くような姿勢だが先ほどよりは周囲を確認しやすい。
(配慮してくれたみたい)
魔女と剣士は瘴気あふれる沼を過ぎ、行方知れずの魔術師ウッツの家を見つけた。レンガの屋根と四角く切り取られた石で建てられた平凡な家は家主を失った日のまま時を止めていた。
月の剣士が頭を下げて家へ入ると調度品も食器もポーションの調合道具も主人の帰りを待って動かずにいた。
「降ろして」
(自分で歩く)
魔女が頭の中で強く思うとヨニはすぐ彼女を降ろしてくれた。体の支配権も戻っている。
(言葉より考えを伝えようと集中した方が通じる?)
ふむ、と口を曲げた魔女は魔術師の家に意識を戻した。至って普通の魔術師の家だ。ウッツも双子同様に薬師の家系なのだろう。田舎出身の魔術師にはありがちな生まれだ。棚に並んだビーカーや調合素材の具合を見れば死霊魔術の研究家でもないし人体魔術の研究家でもないと一目でわかる。山積みの薬草。典型的な薬師だ。
「ううん……」
魔女は家の中を探索し始めた。
本棚に並んだ薬草辞典や初歩的な魔導書に目を通していると、従者アルフが魔術師フォルカーを連れてウッツの家へ辿り着いた。
「マスター」
「あ、アルフ! よくわかったね?」
「ヨニ様が道筋を残してくださいました」
「へえ!」
ヨニが出会い頭に邪険にしたアルフとフォルカーを気にかけてくれているのは意外だった。魔女は本棚の前で佇んでいた上位者ヨニのローブを引くと屈んだ彼に微笑んだ。
「ありがとう」
(私の家族を置いて行かないでくれたのね)
ヨニは穏やかに目を細めると唇で魔女の額に触れた。
「またやってる」
「今のは“どういたしまして”かな?」
「ふーん」
「ああそうだ、フォルカー。ヨニについて気付いたことが二つ」
「何だ?」
「一つ、言葉はやっぱり通じてない」
「ほう」
「一つ、上位者と交流を試みるなら上辺の言葉より何を念じたかが重要」
「ほー」
フォルカーは紙と羽根ペンにメモを取らせ、自分は思考の海へ向かう。
「……交流が全く出来ない訳ではない。念力は通じるが言葉は通じない。古い言語だが歌を歌える。あとは?」
「言葉も話せるし聞けるはず。古すぎてわからない言葉だけど抑揚がない普通の喋り方もしたわ」
「そりゃ今日一番の知らせだな」
「あとは私のことが妙に好きってところ?」
「ああ。まあそれは気付いてたけどよ」
魔術師フォルカーは嫉妬からムスッとした。その表情を見た上位者ヨニは勝ち誇ったように口の端を持ち上げた。
「あ! 今すげえ嫌な笑い方したぞ!」
「え?」
ブーツが見上げると剣士はスッと表情を戻した。
「……普通じゃない?」
「かーっ! 女の前じゃ
田舎者の魔術師ウッツの家は質素ながらも瘴気を避けるだけの力は残っていた。魔女たちは家の道具を借りお茶と軽食を口にし、家の中にあった比較的マシな食べ物をいくつか失敬した。
「ごめんなさいね。落ちててラッキー、はどこの国でも共通だから」
「
「ああ、本題ね。忘れてた」
「あの人型に襲われるのは初めてじゃないんだと」
フォルカーの報告を聞いた跳躍の魔女はふうんと訝しんだ。
「魔術師がいなくなった時期と一緒?」
「ほぼ同時だそうだ」
「気になる」
「俺も引っかかった。瘴気も魔術師が消えた頃からだと」
「あーら。怪しい」
「ウッツが何かしらの形で瘴気の発生に関わってるのは事実だろうな」
「問題はどう言う形で、ね」
「もう少し家の中を漁らないと何にもわかんねえだろうな」
「そうね。薬草ももったいないしポーションにして頂戴しましょ」
魔女と魔術師は正しい手順で乾燥が終わった薬草をポーションに作り変え、そのついでに本棚や机の棚の中を漁る。
「お、魔術師の恥ずかしい日記みーっけ」
「ん?」
「鍵付きの棚の中にあった。エロ本か?」
「男ってすぐそれね」
「オスなんて単純なんだよ」
魔術師フォルカーはウッツの日記を読み始めた。調査は彼に任せ、魔女ブーツはポーション作りに集中する。
(納品分は作り終わったから残りはもらうか)
「ブーツ」
「ん?」
「原因らしい記述を見つけた」
「読み上げて」
「“ユニスが好きだ!”」
「ワオ」
「“ああ、あの美しい琥珀の瞳! 滑らかな白い肌!”」
「ああ、男って単純ね。ありがとう、そのくらいでいいわ」
「と、ウッツは乙女への想いを
「それが原因?」
「いや、そうへこたれる奴じゃなかった。でもユニスと付き合い出してから二ヶ月くらいで変なこと呟いてるな」
「彼はなんて?」
「“ユニスは俺を見ていない”」
「ふうん? 浮気されたとか?」
「いや、最初からユニスは自分を見ていなかったと書いている。恋人になったのに何でだ?」
「さーあ? 複雑な恋したことないから分からない。そもそも恋がまだだし」
「俺もさっぱり分からん」
フォルカーは日記を放ってポーション作りに参加した。剣士ヨニは本棚の前で佇んでいたが、ウッツの日記が放置されると日記が置かれた机の前へ近付いた。
「“月は見ていた”」
ヨニは失われた言葉と共に日記の表紙を指でなぞった。月の模様が浮かび上がる。日記から白いモヤが立ち上り、在りし日のウッツの姿を映した。ウッツは日記を書きながら顔を覆って両肘をついている。
「わあ、投影魔術?」
「魔法だからちょっと違うだろうな」
ウッツははぁと深い溜め息をついた。
「“ユニス、どうして……”」
「恋に悩む青年ね」
「“どうして嘘なんかついたんだ……。これじゃ片思いの方がマシだった”」
立ち上がったウッツは歩いて本棚の前へ向かった。
「“ユニス、他に好きな人がいるならそうと言ってくれ。言わなきゃ何も分からないよこっちは”」
「結局浮気じゃん」
「“君は俺を見ていない。最初からエイプリルしか見てなかったんだ……”」
「……何だって? ユニスは同性愛なのか?」
ブーツたちの世代でも都市部ならともかく田舎では同性愛への理解がない。同性愛だと暴露すればよくて村八分、悪ければ袋叩きだ。
「“ユニス……。君の苦悩を思うと辛い。だが俺は何も出来ない……ユニス……”」
ウッツの幻影は弱々しく消えた。上位者ヨニはウッツがいた場所に立つとまた本棚に集中した。まるで彼の思念をかき集めているようだった。
「……なるほどね。ユニスは同性愛を隠したくてウッツと付き合った。嫌いじゃない男だから体裁を保つには都合がよかった」
「愛のない恋人か。そりゃ辛い」
「でもだからって瘴気が出るほど呪う?」
瘴気は人や獣の暗い感情や呪いから生まれる。ドラゴンロードの森の瘴気にウッツの思念が混ざっているのはほぼ確実だった。魔女と魔術師が思考を巡らせていると上位者ヨニが本棚を離れウッツの家から離れていく。
「あっ! ちょ、ちょっと待った!」
待って! とブーツが強く念じると上位者ヨニは足を止め、家の中へ戻ってきた。傍らに立った月の瞳を見上げながら魔女はポーション作りを進める。
「一緒に行くから勝手に行かないで!」
わかった。
魔女の耳には音のない返事が聞こえた。きっと気のせいだろう。
魔女は急いで調合道具を片付け、ウッツの家をフォルカーとアルフに任せてヨニと再び森へ向かった。
「ヨニってどこから来たの?」
上位者と魔女は手を繋いで瘴気の濃い森の中を歩いた。沼から立ち上る瘴気は一帯の薬草を毒草に変えて久しく、かつて畑だった土の上では毒々しい色の葉が紫色の汁を滴らせていた。
「食べ物は何が好き?」
質問は何でもよかった。上辺の言葉は通じないのだから、交流したい意思を示す方が重要だった。
「本当の名前は? 私は……」
ヨニは人差し指を少女の唇に押しつけた。名を口にしてはいけない。そう言われたような気がして少女は口をつぐむ。
「……どうして他の魔眼と瞳が違うの?」
魔法の瞳はアルフのように使う時だけ妖しく輝くのが通例。それは上位者エラにも言えること。彼女の瞳は薄灰色ではあったが瞳自体は人族と変わらない。
明らかに人と違う瞳を持つのはヨニ以外では石化の魔法を使う蛇の女神ゴルゴーン。そして神々の逸話はあくまで伝説。実在と呼ぶには怪しく、嘘と叫ぶには信憑性があるおとぎ話は、絵画や彫像が当時の事実として語り継がれているだけ。
ヨニの月の瞳は本物だし、美しい。
これがこの世で唯一の人ならざる瞳だったら?
魔女が好奇心と共に見つめているとヨニは目を細めてふっと笑った。答えは返って来ない。諦めて視線を外した跳躍の魔女は溜め息を一つ。
「ウッツの足取りを調べないとね」
上位者と魔女が手を繋いで進むと突然森が途切れた。
胴体をすっぱり切られてしまったような切り株の群生。その中央には巨大な魔物が不気味な音で喉を震わせている。狼のような姿の巨獣。左右で違う目は全部で十三個。
あまりの恐怖に年若い魔女は
「ウゥウウゥゥゥ……」
魔物は苦しんでいた。十三の瞳から毒々しい油のような涙をこぼして
「に、逃げよう!」
しかしヨニは魔物を見据えて佇んでいた。一緒に逃げようと手を引く魔女をその場に縫い付けると上位者は剣の柄に手をかけた。
「は……」
引き抜かれた刃は月光をまとっていた。上位者は月の瞳をいっそう輝かせて大剣を天へ掲げる。
「──……」
ヨニが何を言ったのか聞き取れなかった。剣は振り下ろされることもなく、ただ輝いた。辺りを青白い閃光が満たし、魔物を貫いた。
「ん……」
魔女クレイジーブーツはいつの間にか気を失っていた。場所は同じ森の中に思えたが、切り株たちは斬られる前の立派な大木で太い幹を見せつけている。不意にザク、ザクと何かを刃物で刺す音がして跳躍の魔女は体を起こした。黒い髪を振り乱した女性が何かに覆い被さっていた。女性は何度も何度も覆い被さったモノに刃を振り下ろしている。
「
おぞましい光景だった。体の芯から凍るような寒気がした。それでも魔女クレイジーブーツは立ち上がって女の元へと歩み寄った。
黒髪の女性が斬りつけていたのはユニスだった。美しい乙女がはらわたを切り裂かれ、魂が抜けた瞳で夜空を見上げている。
「ウッツ様は私のものよ!!」
黒髪の女はいっそう深くユニスの腹を突き刺した。
黒髪の女の背後に誰かが忍び寄る。
「その女になりたい?」
嫉妬に狂った女が振り返るとそこには中性的な少年が赤いローブをまとって佇んでいた。少年はしぃ、と唇の前で人差し指を立て、黒髪の女に微笑んだ。
「その女の皮を君にあげよう」
跳躍の魔女が再び目を覚ますと月の瞳が少女を見下ろしていた。魔女が体を起こすと魔物は涙を流しながらその場に横たわっていた。若い魔女はふらふらと立ち上がり力尽きる寸前の魔物に近付いた。
「ユニス……」
「あなたがユニスなのね? あの女は誰?」
魔物は虹色の油のような血を吐いた。あふれた血の中に何かが散らばっている。魔女は恐る恐るそれを手にした。欠けた金色の鎖だ。ネックレスを支えるような細い鎖。魔女が拾い上げると魔物は最後の力を振り絞って乙女ににじり寄った。
「……、……!」
魔物は何かを言おうとしていた。跳躍の魔女は金の鎖を持ったまま巨獣の首を抱き締めた。
「大丈夫、受け止めてあげる。全部話して」
「オォオオオォ……!!」
瘴気の塊に戻ったユニスの思念は魔女の体に吸い込まれていった。その瞬間クレイジーブーツの頭にはユニスの記憶がなだれ込む。
ユニスは夜の森で恋人となったウッツと待ち合わせていた。二人で冬の蛍を見に行こうとしていた。しかしユニスに連絡を寄越したのは黒髪の女イスで、二人はお互いに待ち合わせているつもりで別々の場所に呼び出されていた。ウッツは村の男に酒に誘われいつまで経っても帰れなかった。そして、無惨な死体となったユニスは森に打ち捨てられ、ユニスの皮を被ったイスは何食わぬ顔で明け方にウッツと出会った。森の瘴気はユニスが発端だった。
一週間後ウッツはユニスが別人になっていることに気付く。そして森の中を彷徨い、ユニスがおぞましい魔物となって森を荒らしていることを知った。
「私たちの間に恋愛感情はなかった。でもウッツは優しかった……私も彼を大事にしていた……!」
ユニスは
「ウッツは血だらけのネックレスを持っていた私に気付いてくれた! 仇を討つって……それから見えなくなった……。その後少ししてウッツが森にいるってわかったの。同じところに辿り着いたの……」
魔術師ウッツはユニスの恨みを沼に持ち帰った。その
「お願い……あの女を殺して……」
ユニスの思念は消え去った。跳躍の魔女はなぜか瘴気に冒されているのに血を吐いたり呼吸が乱れたりしなかった。魔女は立ち上がると月の瞳の剣士に振り向く。
「行きましょう」
ヨニは静かに頷いた。
ユニスの姿をしたイスは薬草畑で作業を再開していた。誰かの足音がして振り向いた彼女は目を剥いた。家の前に立っていたのはユニスだった。
「……え?」
「返して……」
茶の髪に覆われていた顔を上げると魔物の十三の瞳がイスを睨みつけた。
「私を返して!!」
「ひっ……!」
ユニスがユニスを襲う姿は近隣住民が目撃し、揺るがぬ事実となった。
襲われたユニスは二重の皮膚を持っており、その下からは黒髪の女イスが出てきた。イスは黒魔術を使った恐ろしい女として死後裁判にかけられた。黒魔女の烙印を押されたイスの死体は焼かれ、近くの洞窟に打ち捨てられた。
「つまり? ユニスとウッツはお互いに納得してたのに邪魔な女がその幸せをぶち壊したっつーことでいいのか?」
「そうみたいね」
跳躍の魔女一行はドラゴンロードを発って森の中を進んでいた。
「ああ〜うめえ。酒が飲めないなんて子どもの体は損だな」
「酒に酔いたい事件ではあったわね」
「言うねえ。十六歳で」
従者アルフとロバに跨った魔女ブーツは振り向いて赤くなったフォルカーの鼻を見た。
「魔術院への連絡はどうなったの?」
「ああ、町へはウッツの代わりになる魔術師を一人寄越すってさ。二人の埋葬は終わったし、瘴気もそのうち薄くなるだろうって上層部の判断」
「そ。ならいいわ」
フォルカーは同じ幌の下にいる上位者ヨニを横目で見る。
月の瞳は瞼の内にしまわれ、静寂のみが大きな体を支配していた。
(瘴気なら全部浄化するってわけでもねえのか。読めねえな)
「……“悪事は夜に行われる”」
「何だって?」
ぽつりと呟いた上位者は再び沈黙した。目の前で手を振っても反応しない魔眼保持者からフォルカーは興味をなくすと報酬の荷物を漁った。
「次はどれを飲むかねえ」
「──……“月は見ている”」
物音を立てる魔術師の耳に、上位者の言葉は届かなかった。
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