第一膳 『出会いとお茶漬け』(回答編)
彼女の指先がそっと漆塗りの箸へとのびる。空気を振るわす緊張感に生唾を飲みこんだ。
彼女は冷たい箸を胸元にかかげ、まるで祈るようにそっと瞳を閉じる。美しすぎる横顔は凪いだ海を思わせる、そこへ一滴の神の雫のごとき麗しい雨粒がつうっと垂れた。
――彼女の涙だった。
腹を空かせて傷ついた彼女は今一膳の飯に感動している。長い間料理人をやってきたが、これほどに感動してくれる人は珍しい。それだけ飢えていたのだろう。
「食べてよ」
「ハイ」
彼女は涙をふいて箸を左手に不器用に持ち、右手の白魚のような指をそろえて椀の側面に添えた。
茶碗八分目によそった麦飯のくぼみで全卵が煌々と光っている。これはただの卵じゃない、僕がいつもプチ贅沢をしたいときに卵かけご飯用に買っている6個で300円もするちょっといいブランド卵で黄身の色が格別に濃い。
卵の周囲には出汁代わりに塩昆布を多めにちりばめて。さらにその上に刻んだ青々とした三つ葉をこんもりとのせた。
そう、これは卵茶漬けだ。
だが、まだ仕上げの出汁は注がない。焦らなくていい。食べ方にはこだわりがあってまずはその素材どうしでマリアージュを味わってほしい。
彼女が箸先で卵を割るとねっとりと濃厚な黄身が決壊した。麦飯をてらてらと侵食していく。彼女はそれに若干慌てた様子だったが、もしかすると日本人おなじみの卵ごかけ飯を食べたことがないのだろうか。
いや、まさか。
「卵は壊し過ぎないで、濃淡を味わっていただくんだ」
「ノウタン?」
ああ、やっぱり片言。日本人じゃないんだね。
「かき混ぜ過ぎずに味の濃いところと薄いところを楽しんでほしいんだ」
彼女は納得した様子で、ざっくり混ぜた卵ご飯を上品に口へと運ぶ。塩昆布と三つ葉が広がった黄身と絶妙に絡み合い。とたん表情をきらきらと輝かせた。
「オイシイ!」
弾ける笑顔に、拾ってよかったと胸をなでおろす。オイシイは世界共通の感情だ。
以前は当たり前だった人のために料理するということ。その喜びをこの頃忘れていた。食べて目の前の人が笑顔を綻ばせるだけでこんなにも嬉しいのだ。
彼女は無心で食べ進めていく。
そして椀の飯が半分になり、よし、丁度いい頃合いだろう。
「出汁を注いで」
急須には冷蔵庫で水出しした煮干しと昆布の出汁を希釈して沸かせたものが入っている。不思議がる彼女に、座卓に乗せた急須を指して注ぐんだよ、とジェスチャーで伝える。彼女の国には茶漬けという文化がもしかすると存在しないのかもしれない。
黄金の出汁を回しかけると三つ葉が鮮やかに匂い立ち優雅に舞う。塩昆布の旨味が溶け出して、黄金の色を静かに染めていく。
しばらくその様子を興味深げに眺めていたが、ハラヘリの彼女はとうとう我慢できずに椀を眼前に掲げた。しとしととすすり、動きを止めて椀から口を離し。茶漬けの放つ温かみに固く瞑った瞳から大粒の涙が累々とこぼれだす。
茶漬けは日本人の心。今度はずずっと音を立てながら。
そうして彼女は泣きながら卵茶漬けを完食した。
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