第86話 言い出せない言葉
あの日の出来事をきっかけに親子には亀裂が生まれた。文恵は叔母として幾度となく親子仲の改善を試みるも、その亀裂はじわじわと広がる一方だった。独善的な父を認めることが出来ない義之は事あるごとに反発、父もまた思惑通りにならない息子を侮蔑していた。
時は流れ、義之は高校3年生になっていた。彼は若さゆえに血気盛んで、父との衝突も絶えなくなった。そのため、叔母である文恵の自宅の入り浸ることが多くなった。
「アニキィ! お帰りぃっ!!」
そのため義之が帰宅するのは専ら源家である。そんな彼の帰りを満面の笑みで出迎えるのは、源三姉妹末っ子の秋子である。当時の彼女は小学生、義之からすれば年の離れた妹のような存在だ。
「秋子、今帰ったぞおっ!!」
懐に飛び込んできた秋子を受け止め、義之は熱い抱擁を交わす。この二人、傍から見ると実の兄妹の様に仲睦まじい。
「......」
二人が熱い抱擁を交わす中、勉強机で黙々と作業をしているのは三姉妹次女の夏美。義之の帰りなど我関せずとしている。
「お前は今日も漫画を描いているのかぁ、全くご苦労なこった!」
義之は冷やかすように彼女へ言葉を掛ける。夏美は一見すると勉強しているようにも思えるが、実は勉強そっちのけで漫画を描いているのだ。そのため学業もあまり芳しくなく、高校進学が危ぶまれるほど。
「......うるさい、黙ってろクソアニキ」
漫画を描いている傍らでも従兄への応酬は忘れない。それは母が高校進学を憂いている手前でも同じような反応だ。それだけ彼女の漫画熱は一般人のそれを凌駕しているのだ。
「おぉ、相変わらず夏美ちゃんは恐いねぇ?」
義之もそれを承知しているのか、尚も嘲笑の一言を重ねる。ちなみに、当時の春奈は既に就職して島外で生計を立てている。後に彼女が大手企業の役員へ大出世することは家族の誰もが予測できなかったことである。
「あらぁ、義之は今帰ったの?」
時を同じくして叔母の文恵が帰宅した。当時の万事屋みなもとは大変繁盛していて、源夫妻が出先から帰る光景はそう珍しくない光景だった。
「おばさんこそ今帰りかい? あんまり留守にしていると泥棒に入られるぞ」
義之は気さくな冗談で言葉を交わす。少々馴れ馴れしくも思うが、それは義之が実家以上に源一家と慣れ親しんでいることの裏返しと言える。
「ところで義之、お父さんにもうあのことは伝えたのかしら?」
文恵は突飛押しもなく良行へ問いを投げかける。それを聞いた義之の顔が一瞬曇る。果たして、彼が父に伝えなければならないこととは何だろうか。
「あぁ、あのことか。親父にはまだ伝えてない。まぁ、伝える義理もないだろうよ?」
義之の返事は素っ気ない。それどころか、臭いものに蓋をしておきたいと言わんばかりの毛嫌いぶりだ。
「そんなこと言って......仮にもあなたのお父さんでしょうに」
文恵は義之の事情などお構いなしといった物言い。だが、その言葉に義之は依然として難色を示している。
「そうだぞクソアニキ。いくら親父さんを毛嫌いしていても筋は通せ。そんなことは義務教育中の私でも分かる」
二人の会話の間隙を穿つように夏美が干渉する。侮蔑に似た彼女の一言が癪に障ったのか、義之は先程の態度とは打って変わって激昂してしまう。
「落ちこぼれ同然のお前だけには言われたくねぇ!!」
義之は怒りに任せて源家から立ち去ってしまう。日頃から見下していた立場の人間に尤もな指摘を受けた時の腹立たしさ、読者諸君は感ずることが出来るだろうか。
「アニキィーッ!!!」
秋子は実家へ猛進して行く義之の後を追う。義之を普段から実の兄の様に慕っている彼女からすれば気がかりで仕方ないのだろう。
「ほっとけよあんなヤツ。図々しいにも程がある」
義之が立ち去ってもなお夏美の毒舌は留まることを知らない。彼女の言葉尻から、義之に対する鬱憤が堆積していることは容易に察することが出来る。
「夏美、人のことをどうこう言う前にあなたも自分のことを考えたらどう?」
母から指摘を受けて夏美はバツが悪そうに口を噤む。これは因果応報、報いは必ず自身に返って来るものだ。
「あの子、この頃は特に気持ちの昂りを抑えることが出来ないからねぇ。兄さんと何もなければいいのだけれど......」
健造と義之の親子仲を懸念する文恵。何の皮肉か、彼女の懸念は見事に顕在化する。だが、その懸念は彼女の範疇を遥かに超えていくことなど想像だにしなかった......。
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