第70話 亜細亜、鯨の髭を買う

「ビッグバン、恭治郎に電話してくれ」

 早くもbEarを使いこなしている亜細亜。彼はこれまで近代的なものに対して嫌悪感を抱いており、通信機器は専ら固定電話しかなかった。しかしながら、きっかけさえ掴めば思いのほか順応は早い。人間、最初の一歩は大きな一歩である。

『え? あと10分ほどで炭が届く? 亜細亜さん、どこから電話しているのですか!?』

 電話越しの恭治郎は驚いている。普段は固定電話から連絡を受けている彼が、亜細亜のスマートフォンデビューなど知る由もないだろう。

 ――ほむら喫茶へ到着した亜細亜は、炭の納品ついでにbEarをお披露目した。

「こんな耳栓がスマートフォンだなんて信じられない......それと、アナログ男の亜細亜さんがスマホデビューだなんて......」

 亜細亜の諸々の変化にびっくりしたままの恭治郎。彼は未だにその変化受け入れがたい様子だ。

「一言多いぞ恭治郎。儂とて時代の変化を受け入れる寛容さくらいあるわい」

 亜細亜はそういうが、先日の通り魔事件報道がスマートフォンデビューのきっかけになったのは間違いない。

「亜細亜さん、それなら新作コーヒーを試飲してみませんか? 今回は自信作、ストロベリーエスプレッソですよ?」

 話の流れを読んだ恭治郎は、ここぞとばかりに亜細亜へ試作品の試飲を促す。普段なら頭ごなしにそれを却下するが、今日の亜細亜はえらく柔軟な対応だ。

「......残念ながら、イチゴの味わいが一切死んでいる。新鮮なイチゴの香味は一体どこへ行ったのだ??」

 いたって穏やかな講評の亜細亜。普段なら、この時点で激昂しているはずなのだが。

「それはそうだ。イチゴがエスプレッソの深い苦みに打ち勝つことなどできるはずがないでしょう」

 恭治郎もそれを承知の上で、あえて試作品を提供したらしい。だが、亜細亜の反応を見て彼の変化をその口ぶりから感じ取ったようだ。

「おっと、次の納品先を待たせてしまうところだ。連絡を入れておかねば!」

 そこまでの必要はないのだろうが、亜細亜はbEarを使い倒さんとする勢いで電話を入れている。先方へ連絡を入れた亜細亜は、会話もそこそこにほむら喫茶を後にした。

 ――軽トラックで納品先へ向かう亜細亜は、bEarに対して様々な問いかけをしている。

「ビッグバン、今日の天気はどうだ?」

 それを聞いたbEarは即座に応答する。

『1日を通して晴れますが、時折小雨が降るでしょう』

亜細亜への返答は基本的にビッグデータを基にしているが、レスポンスの早さは他社のそれを優に超えている。

「ビッグバン、今日の儂の運勢を教えてくれ」

 どういうわけか、自身の運勢を訪ねる亜細亜。先日の通り魔事件報道は、別の意味でも彼に大きな影響を及ぼしている。

『今日の乙女座の運勢は最高潮。ラッキーアイテムは鯨の髭です』

 亜細亜は乙女座。大事な事なのでもう一度言うが、亜細亜は乙女座。というより、ラッキーアイテムがおかしいような気がしなくもない。

「鯨の髭......ひと狩り行こうか」

 いや待て亜細亜、その発想はおかしい。一個人が捕鯨するのはいくら何でも無理がある。

『羽馴島近海には多くのザトウクジラが回遊しています。鯨の髭を採取するには最適です』

 bEarからまさかの発言。反捕鯨団体が聞いたらただでは済まないかもしれない。

『アップデート完了。近隣に鯨の髭販売情報あり。検索開始します』

 最新鋭のスマートフォンはアップデートもとい行動が早い。しかしながら、鯨の髭という希少品が販売されている場所とはいかに??

「......おや? ここは秋子殿の店ではないか?」

 意外にも、鯨の髭を販売している場所は身近にあった。灯台下暗しとはこのことである。

「鯨の髭? あぁ......これですね。え? 今日のラッキーアイテム??」

 秋子は状況を理解できないまま、鯨の髭を店舗の片隅から取り出した。どうやらそれは、秋子の夫である冬樹がどこかの町で仕入れたらしい。彼曰くマニアには売れるとのことで仕入れたらしいが、残念ながら売れ行きは芳しくない。店舗の片隅で叩き売りされていたのがそれを物語っている。

「儂にもよく分からんが、とにかくそれを一本くれ!」

 亜細亜は強面で秋子へ迫る。その形相に秋子もタジタジだ。

「え、え、えっと......3,000円になります!」

 彼の必死さに動揺した秋子は声が上ずる。実を言うと、冬樹の仕入れた鯨の髭はこれが初めての売り上げとなる。

「秋子殿、かたじけない......!」

 何があったわけでもないが、鯨の髭を手に入れた亜細亜は秋子へ謝意を告げる。どちらかといえば、不良在庫と化した鯨の髭の一部を買い取ってもらって助かるのは秋子の方である。

 ――帰りの道中、今日のラッキーアイテムを手にした亜細亜はふと思う。それは、鯨の髭の用途についてだ。

「ラッキーアイテムと言ったが、これはどうやって使えばよいものか......」

 勢いで買ったはいいものの、亜細亜は思いあぐねる。果たしてbEarの回答は......。

『鯨の髭は工芸品の材料となり、茶たくや置物などに加工されます。その他、釣り竿や楽器などにも利用されます』

 多くの国で捕鯨が禁止されている昨今、鯨の髭は希少価値の高い素材である。日本でも捕鯨禁止の風潮により、その加工技術は消滅の一途を辿っているのだ。

「鯨の髭か......。これはえらくしなるわい」

 鯨の髭の大きな特徴と言えば、何と言っても柔軟かつ丈夫であること。背中にかゆみを覚えた亜細亜は、それを孫の手として用いた。

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