第37話 またあなたに恋している

「――ワンワンッ!!」

 店舗内へ猛進して行く白黒ツートンカラーの何か、それはおそらくケンだろう。京子を追いかけてきたはずの彼が、いつの間にか彼女を追い抜いた瞬間である。

「え? ケンちゃんがお店に入っちゃった!?」

 京子は慌ててケンを追いかけ、良行もそれに続く。

「いらっしゃいませ。おやおや、珍しいお客様ですね。」

 店舗内へ犬が入っているにも拘わらず、マスターは平然としている。

「ケンちゃん、勝手にお店に入っちゃ駄目でしょう!」

 店内でケンの身柄を確保した京子は、彼を抱き上げると扉の向こうへ向かおうとする。しかし、逆にマスターは京子を制止する。

「いいんですよ? 彼もここの常連客なのですから」

 そういうと、マスターは冷蔵庫からペット用のミルクを取り出した。カウンターの足元にはイヌ用とおぼしき水受けが置かれており、マスターはそこへミルクを注ぐ。それを見たケンは両足を動かしてもがき始めた。京子がケンを下ろすと、彼は一目散にミルクを目指す。どうやら、これは日常茶飯事の光景であるようだ。

「ところで京子さん、どうしてここへ?」

 京子がどうしてこの店に来たのか? 良行はそれが気になった。

「私は文恵さんからもらった雑誌を見て、このお店に辿り着いたの。良行さんこそ、今は仕事中じゃないの?」

 良行がどうしてこの商店街にいたのか? 京子もそれが気になった。

「僕は近隣で融資の依頼があって、この商店街へ立ち寄ったのさ。このお店は、仕事の合間に立ち寄ることがあってね」

 どうやら良行も、この商店街に用事があったらしい。これはまさに、そんな偶然が生んだ奇跡の瞬間だった。

「せっかくだから、少しだけお茶していかない?」

 京子はこの機に乗じて良行を誘う。この時間は、きっとロマンスの神様がくれた素敵な時間に違いない。彼女はそう直感した。

「すみません、このナイト$#%&Δ√......を2つお願いします......」

 何故か京子は言葉を噛んでしまう。

「京子さん、いま言葉噛んだでしょ?」

 もちろん良行はそれを聞き逃さなかった。彼は、京子を茶化すようにそれを指摘する。

「仕方ないじゃない! こんな長ったらしい言葉、どうやったって噛むに決まってるわ!」

 京子は頬を膨らませている。だがそれは、単に言葉の言いづらさではないことが良行に悟られてしまっている。

「......とにかく、ナイトロ2つお願いします!」

 京子は咄嗟に言葉を言い換える。彼女は、どうにか心の動揺を誤魔化したい一心で。

「お待たせしました、ナイトロです」

 マスターが提供したのは、ビールグラスに潤沢な泡が蓄えられたものだった。その光景に、二人は息を呑む。

『これが、ナイトロコールドブリューコーヒー......!』

 そこには、黒ビールを思わせる漆黒の飲み物が注がれていた。ナイトロコールドブリューコーヒーとは、専用サーバーで窒素ガスを加えながら注いだ水出しコーヒーのことなのだ。

「......これは飲むしかないでしょ!?」

 コーヒーの注がれたビールグラスは、早くも水滴を纏っている。そして京子は、それを緊張の面持ちで口にする。その瞬間、京子に電流走る!

「......っ!!!」

 そのコーヒーは、まろやかな口当たりの泡がほんのり甘く優しい味わい。そして、後からコーヒーのガツンとした苦みが一気にやって来る。このギャップは、まさにコーヒーに緩急があるかのようだ。

「何だろう......ビールのようでビールじゃない、不思議な味わい」

京子にとって、それは何とも形容しがたい衝撃的なコーヒーだった。彼女の言葉を聞いた良行も、意を決してそれを口にする。

「これはまるで......わびさび!?」

 その瞬間、良行はコーヒーに茶道の精神を垣間見た。和の心を彷彿とさせるコーヒーに、

思わず彼は戦慄してしまう。

「驚いたでしょう? これが、アイスコーヒーの神髄なのです」

 マスターは淡々と語っている。しかし、その瞳の深奥には静かな炎が燃えていた。

「そしてマリアージュは、カッテージチーズのはちみつがけでどうぞ」

 コーヒーとともに提供されたのは、カッテージチーズと呼ばれるフレッシュチーズである。世界最古のチーズと言われているが、レシピが簡素なため一般家庭でも再現できる。

「美味しいっ! これは最高のマリアージュ!!」

 クセのないクリーミーな味わいであるため、料理での汎用性が高い。そこへはちみつの優しい甘みが加わり、コーヒーの苦みと見事に調和する。京子はその味わいにうっとりしてしまう。

「うん、これは絶品!」

 良行も、これには思わず唸る。そんな横顔を見ていた京子は、ふと昔を思い出す。二人がまだ恋人だった頃、よく喫茶店巡りをしていたことを。

 昔はもう少し横顔がシャープだった気がする。けれど、今でもその横顔は男気に溢れていて惚れ惚れしてしまう。二人きりになって気付く、忘れかけていた恋心。

「......ん? どうかした?」

 その眼差しに気付き、不意に良行は振り向く。

「何でもないっ!!」

 込み上げた羞恥心から、京子は思わず顔を逸らしてしまう。言えるはずもない、またあなたに恋しているなんて......。

「何とも仲睦まじい夫婦ですね。あなたもそう思うでしょ、ケン?」

 そんな様子を見つめるマスターは、独り言のようにケンへささやく。そんな言葉も意に介さず、ケンはフードボウルに盛られたドッグフードを黙々と口にしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る