第7章 スバルの名車・R1
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「おはよう、遅せよ。ミキオ」
朝起きて居間に降りると、ヒトミはもう制服に着替えてて、奴らしい皮肉な笑みを浮かべて言った。机の上には耳の焦げたトーストと、鼠色のミルクコーヒーがふたりぶん並んでた。部屋に焦げた匂いが漂ってら。開け口の綻びた牛乳パックが机のうえに出しっぱなしだ。
「え、メシ作ってくれたの? ありがとう」
すごく自然に「ありがとう」が言えた。こんな言葉を口にするの、いつ以来だろう。
「いや、わたしだって料理ぐらいできるからね? ミキオがいかにも作りたそうにしてたから、仕方なーく任せてただけで、わたしもぜんぜん料理得意だし。これからはちょくちょく作るから。まあ、楽しみにしててよ」
ヒトミは偉そうに、ちょっと照れくさそうに、胸を張った。
俺とヒトミは食卓に並んで座り、肘を付き合わせて、同時にいただきますをした。それから、ゆっくりトーストとコーヒーを減らしながら、どうでもいいことをたくさん話した。昔よくしたいたずらのこととか、くだらない喧嘩のこととか、つまらない失敗とか、九割は悪口で、もう一割は愛しそうに、そのどうでもよさを確認するように、どうでもよさそうに話した。このマーガリンでべたべたしたトーストと甘すぎるコーヒーはいつまでも無くならなくて、こんな風にいつまでも話せるような気がした。
「あ、やべえ。もう時間じゃん。早く行かんと」
でもそういう訳にはいかなくて、俺は壁掛け時計に目を遣ると、はっと目覚めたかのように、ちょっとわざとらしい声を上げた。
「いいよー、わたし、待たされるの嫌いだし。なんか受験票には『三十分以内に入ってください』って書いてあったけど、どうせぎりぎりに入っても受けられるし」
ヒトミはのんびりとした口調で言った。さすが大物だなと思った。
とにかく俺はパジャマを脱ぎ、適当な服に着替えて、ヒトミを連れて家を飛び出した。真冬らしい、すごく寒い日だった。空はピーカンに突き抜けてたけど、こんな日に雨が降るなら、きっと雪だろうと思った。ヒトミの人生を決める運命的な日が、こんな風に祝福された日であって良かったと思った。
駐車場の端っこまで行くと、R1が準備ができてたかのようにスプレッドグリルの真ん中にある六連星のエンブレムを輝かせた。すっかり目に馴染んだ、真っ黒い車体。色あせたアルカンタラ。ヒトミが産まれた年に買った、十五年落ちの軽自動車。
「これからもよろしくね、マクロちゃん」
ヒトミがR1のボンネットをやさしく抱きしめるように両手を添えて、つるりとカールしたフロントに上半身をもたげ、頬を寄せたまま目を瞑って睦言みたいに囁いた。R1は一応四人乗り自動車だが、後部座席はむちゃくちゃ狭く、そっちにスペースを作ると助手席には座れなくなるんで、実質は二人乗りだ。俺たちはこれからも、このちんまりしたR1に乗って生きていくんだろう。スバルはもう自社製の軽自動車を生産してねえから、これが最後の車になる。最後っつうのは、つまり、永遠って意味だ。
R1に乗り込み、エンジンを掛けると、直四SOHCのエンジンがたくましく拍動した。
「ゴー、ゴー!」
ヒトミが嬉しそうに後部座席から右手を突き出して言う。俺は暖機運転も待たず、ギアをドライブに入れて、アクセルを踏み込んだ。海が見渡せる湾岸道路のおおきなカーブを、スバルの名車・R1はまるでロールせずしっかりと駆け抜けた。
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