第10話 安全地帯へ移動せよ

「ま、待ってください〜」


 追いつく――たったそれだけのことが、こんなにも難しいだなんて。


 城を飛び出したジャスミンは信じられないような速度で城下町を駆け出した。


 城下に広がる町並みには、王城の城壁と同じく真っ白な壁が連なっており、城に劣らず荘厳な気配を醸している。複雑に入り組んだ迷路のような路地を、ジャスミンは迷うことなくまっすぐに走り抜けていった。愛佳としては屋敷の外を観光気分で散歩するくらいの気持ちだったのに、これだけジャスミンが速いと、周りの景色を眺める余裕は一切ない。


『マップをよく見て。位置が離れすぎてる』


 ジャスミンからの通信音声。マップやら何やら、今日一日に聞いた沢山のカタカナ語のせいで頭がパンクしそうだ。混乱するしかない愛佳の眼前に、一枚の地図が表示された。メーンキャッスルタウン――それがこの城下町の名前らしい。地図上には赤い矢印が配置されており、どうやらそれが愛佳の現在位置を示しているようだった。もうひとつ表示されている青い矢印はジャスミンの現在位置だろうか。なるほどふたつの矢印は大きく離れているし、青い矢印がまっすぐ素早く移動しているのに対して、赤い矢印の動きはよろよろと左右に揺らめいている。


「あの、地図が小さくなっているのはどうしてでしょう?」


 愛佳が気づいたのは、矢印が置かれている地図の全景が、どんどん小さくなっている点だった。


『ウェーブ毎のフィールド縮小。フィールド外には絶対出ないようにして』


 しかし動きの鈍い愛佳の赤い矢印は、狭まっていく地図の外へ、今にも追い出されてしまいそう。


「地図の外に出たらどうなっちゃうんです?」

「数秒の間を置いて消滅する」

「しょ、消滅?」

「ほぼ即死ね。ゲームオーバー」


 即死――信じられないような言葉に、愛佳の頭からすうっと血の気が失せる。後ろを振り向けば、七色に輝く光の壁が愛佳の背中めがけて迫ってきていた。きっとこの光の壁が地図の境目なのだろう。さっきまで愛佳が走っていた街並みが光の壁に呑み込まれ、そのままぱらぱらと光の粒になって世界から消え去っていく。もしかしてあの壁に呑み込まれたら、わたしも光の粒にされちゃう――?


「ど、どどど、どうしようっ」

「落ち着いて――道なりに走る必要はないの。壁はジャンプを使って乗り越えられる。一階程度の高さなら、そのままよじ登れるから」

「そ、そんなこと出来るわけないですっ」

「出来る。これはゲームだから」


 ええい、ままよ――という覚悟で、愛佳は走る勢いのまま二メートルもある壁にへばりつこうとした。現実だったらそのまま壁に激突して鼻がひしゃげてしまう――そのはずが、まるで身体が覚えているかのように、愛佳の手は壁の縁を掴み、そして壁を乗り越えてしまった。


「す、すごい」


 ゲームだからこその身体能力に感嘆している間に、どんどんジャスミンは離れていってしまう。


『フィールド縮小完了。セカンド・ウェーブ突入まで、残り百八十秒』


 そんな電子音声が響き、ようやく光の壁が停止してくれたとき、愛佳はすっかり疲れ切っていた。赤茶色の漆喰が塗られた民家の壁へ、ぺたりと背中を付けて座り込む。そんな愛佳の元にジャスミンが駆け寄ってきた。


「どうだった?」

「ゲームって難しいですね……」

「でしょうね。最初はついてくるだけでも大変だから」


 ゲームの世界なら疲れない――そう思っていたし、実際に空から着地したときには現実の身体の弱さに反してケロリとしていた。しかし今はひどく息切れを起こしていて、頭が酸欠のようにくらくらしている。


「大丈夫?」

「やっぱり走ると疲れちゃいます……」

「いいえ、このゲームにスタミナの概念はない。やっぱりディープスペース酔いを起こしてるのかも」

「ディープスペース酔い?」

「そう。インターフェースの装着に慣れてないと起こりやすいの。まずは目を閉じて、それから深呼吸してみて」


 深呼吸――それは愛佳が体調を悪くしたときにいつもしていることだった。目を瞑り、大きく息を吸って吐く。視界を閉ざすと、途端に自分がどこに居るのか分からなくなって、くらくらと目眩がしてきた。


「自分の足元を意識して。そうすれば平衡感覚が戻ってくるはず」


 言われたとおりに意識してみると、少しずつ目眩が治まってくる。しばらくして目を開くと、先ほどまで感じていた気分の悪さはすっかり消え去っていた。


「楽になったかも、です」

「なら良かった」


 ジャスミンに手を引かれ、立ち上がる。そのときになってようやく愛佳は辺りの景色を見渡す余裕ができた。城下町から離れた一帯では、民家の数はぽつりぽつりと点在する程度に減っており、代わりに民家を取り囲むように果実のなった木々が茂っている。地図を見ると、空から着陸したメーンキャッスルからは西に大きく離れ、川沿いの山間部にやって来ているらしい。地図にはグリーンアップルガーデンという地名が表示されていた。森を拓いた果樹園は、そよ風に揺れる木々の優しいざわめきに包まれている。果実たちの醸す微かに甘い香り。仮想現実とは思えない生々しい感覚は、愛佳に自らがこの世界にしかと存在していることを実感させてくれる。


「あの、ジャスミンさん――さっきの光の壁はいったい?」

「フィールドの縮小を発生させるウェーブと呼ばれる現象。これはバトルロイヤル・ゲームだから、時間経過に従って共に戦いの舞台になるフィールドが狭くなっていくの」


 広大な世界ワールドに降り立ったプレイヤーたちは、最後の一チームになることを目標に行動する。しかしプレイヤーが生き残ることを優先するあまり戦闘を避ける消極的な行動をし続ければ、参加するチームはいつまで経っても減らず、試合マッチの決着がつかなくなってしまう。それを避けるために世界ワールドにはフィールドと呼ばれる生存可能領域が設定されていた。フィールドは時間経過に従って少しずつ縮小していく。そうなればプレイヤーたちは生き残るために移動を余儀なくされるし、フィールド内のプレイヤー密度が上がることによって、敵チームとの遭遇や戦闘、それに伴うチーム数の減少も自然と促されるという仕組みだ。


「フィールド縮小は浜に打ち寄せる波のように段階を経てやって来て、ウェーブと呼ばれる単位で数えられてる。今のフィールド縮小はファースト・ウェーブね」


 なるほど――と愛佳が頷いていたとき、何処からか銃声が響き渡った。


「近い――」


 ジャスミンは素早く周囲を見渡し、そして銃声が鳴った方向にキッと視線を定めた。


「どこかで別チームがやりあってる」

「それって、離れた方がいいってことですか?」

「それもひとつの手段ね。けどこのルートだと逃げても結局会敵することになると思う。それに着陸直後のいざこざでまともにアイテムを拾えなかったから、ここで相手を倒して物資を補給しておきたいかな」

「でもわたし戦い方がわかりませんし……」

「私が片付けてくるから、あなたはここで待ってて」


 ジャスミンはそう言い残すと、風のようにその場を去ってしまった。残された愛佳。ひとりきりになった途端、果樹たちの葉がこすれるざわめきがどこか恐ろしく感じられて、愛佳は民家の壁にきゅっと身体を寄せて孤独に耐える。


 思い出すのは、まだ幼い頃、屋敷で独り留守番をしていたときの記憶。まだ屋敷にやって来たばかりの愛佳には、広大な屋敷の中にある何もかもが新鮮で、そして同時に恐ろしかった。ぎらぎらと輝く真鍮の置物、今にも動き出しそうな廊下の肖像画、目に痛いくらい鮮やかな赤の絨毯――怜が買い物に出ている最中、幼い愛佳は独りぼっちに耐えきれず、ぽろぽろと涙を零してしまった。後にそのことが祖母に知られて、使用人はどんなときでも屋敷にひとり以上残ることが決められた。愛佳はより丁重に世話をされるようになって、外の世界はより遠く、手の届かない場所になった。


 ジャスミンを待っていたのは、ほんの数十秒だったと思う。愛佳が物思いに耽っている間、銃声は派手に響き渡って、一度止んだと思ったところに「ぱぱぱん」といった軽い音が鳴った。その軽い音はおそらく、誰かがやりあった後の場所へジャスミンが乗り込んで、残った敵をたやすく片付けたときのものなのだろう。銃声が完全に消えてすぐ、ジャスミンは愛佳の元へ戻ってきた。


「回復用のアイテムを稼いできた。いくつか持っておいて」


 ゲームとはいえ誰かと争った直後だというのに、ジャスミンはまるで平然としていた。まっすぐに愛佳を見つめてくるジャスミンの青く透き通った瞳に、愛佳はいたたまれず目を伏せる。


「その……迷惑ばかりかけちゃってごめんなさい」

「迷惑?」

「銃で撃ち合うゲームなのに、わたし何の役にも立てなくて」


 今日まで愛佳は学校にも通えず、一日のほとんどを屋敷の中で過ごしてきた。祖母に家を与えられ、使用人たちに世話をされ、自らの意志で物事に取り組んで何かを解決したようなことは、覚えている限り一度もない。このゲームの世界にだって、幼馴染の莉都がコンピュータの準備をしてくれたから来ることができたのだ。


 ひどく無力な自身を自覚して、愛佳の胸がきゅっと痛くなる。


「あなたはよくやっていると思うけど」


 そう語るジャスミンの口調は淡々としていて、そこに慰めの意図は一切見受けられなかった。


「でもわたし、走るだけで精一杯で――」

「それでもキチンと走ってた。どんなに遅れても、最後には私に追いついた。ルールもよく知らない人が、初めての試合マッチでここまでやれているなら、もう上出来よ」

「でも、でも……」

「銃で撃ち合うゲームというのは半分正解で、半分間違い。たしかに銃――ワンドによる撃ち合いがあってこそのFHSだけど、今回の試合マッチはバトルロイヤル・ルールであって、そしてバトルロイヤル・ゲームの勝利条件は――最後の一チームになるまで生き残ること」

「――生き残る」

「もちろん戦うことで有利になる要素はたくさんあるし、最後の二チームになったら嫌でも戦わなくちゃいけないのだけど、隠密ハイドも立派な戦術のひとつ。だからそんなに自分を卑下する必要はない」


 感情的な自己嫌悪が、整然とした理屈によって掻き消されていく。代わりに愛佳の胸に満ちていた痛みは、温かな高揚へと変わっていった。目の前のジャスミンは一貫して冷静なのに、愛佳ひとりが悲しくなったり、嬉しくなったり――そんな自分がなんだか恥ずかしい。


「もし走るだけじゃ物足りないなら、他のこともやってみる?」

「物足りないってことはないですけど……」

「例えば、ワンドを撃ってみるとか」


 そうジャスミンが口にした途端、愛佳の手元に先程ジャスミンから渡された杖がポンと姿を表した。長さ六十センチメートルほど、赤銅の角張った芯に、先端に輝く紅の宝石。


「拾弐番型短機式輝石杖『エレメール』――分かりやすく言えば短機関銃サブマシンガン――と言っても伝わらないか。とにかくどんなに遠くても敵が見えたらこれを撃ってみて」

「う、撃つ?」

「そう。やり方は簡単。敵が見えた方向に向かって、引鉄トリガーを絞るだけ」

「でもわたしそんなこと――」

「――どんなに下手でも、やってみなくちゃ、ずっとできない」


 ジャスミンのその言葉が、愛佳の胸にずんと響いた。それは否定しようのない真実だった。何も知らないままディープスペースへやって来たように、興味本位で外の世界を走ってみたように、やってみなくちゃ――きっと何も始まらない。


 愛佳は覚悟を決めて小さく頷く。


「それじゃあ行きましょうか。今度はウェーブに追われないよう余裕を持って移動しましょう」


 もう一度、今度はちょっぴり背伸びして――愛佳はジャスミンに追いつくべく、一歩を踏み出す。

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