第61話 逃亡犯なんぞに関わっちゃいられない

「シンデレラというのは、ある重要指名手配犯の異名だ。窃盗を繰り返して11年前に刑務所を脱獄し、いまだ逃亡中だ。最後に逮捕されるまではエルバ島を根城にしていたが、聞いたことはないかね?」


 エルバ島はティレニア海に浮かぶ美しい観光地だ。ジャンニはその島で最大の警察署に勤めていたことがある。もう20年も前、警部になったばかりの頃だった。しかし、シンデレラという名前を聞いても童話のお姫様しか頭に浮かばなかった。


「へえ、そんな大物だったとはね。おれは関わり合ったことがないから知らないな」

「重要視されている理由は脱獄犯だからというだけではない。性的人身取引に関する情報をもっていると言われ、一度は捜査機関に協力も約束したんだ。しかし逃亡した。フィレンツェにいるなら、ぜひとも検挙したい」

「といっても、坊やはそいつを見てない。シンデレラと呼ばれる男が強盗団にいるって噂をチンピラ仲間に聞いただけらしいからね。罪の軽減を狙って適当なことを言った可能性もないわけじゃない」

「その少年とは改めて話さなければならない。しかし外国人の子供が考え出すような内容とは思えない」

 

 ラプッチは可笑しみを感じたように笑った。


「どうしてシンデレラと呼ばれているか分かるか? 警察に追われ、慌てて逃げる途中で片方の靴を落としたことがあるからだ。本人はその渾名が気に入らないらしい」


 言い終わる前にその手がデスクの電話に伸びた。情報の信憑性もまだ確認できていないのに、頭の中はやるべきことで占められた。特別捜査班を立ち上げなければならない。逃亡者の居所や行動パターンを突き止めるために専門家の協力が必要になろう。逮捕に成功すれば、トスカーナの人身売買ネットワークを叩く足がかりになるかもしれない。


 ジャンニはそっと立ち上がった。面倒なことを言いつけられるのが目に見えていたので退散する魂胆だった。ドアに向かって後ろ向きで歩きはじめ、チェストにぶつかった。写真立てが音を立てて落ちた。


 ラプッチが外線ボタンを押しながら睨んだ。


「きみに仕事だ。やつは偽のパスポートや身分証明書を所持している可能性がある。データベースから関連する事例を抽出して資料を作成したまえ」

「アイアイサー」


 ジャンニは形ばかりの敬礼で応じた。そんな仕事に割く時間があるわけがない。こちとら2件の殺人の捜査中だ。逃亡犯なんぞに関わっちゃいられない。

 ニコラスは良心の呵責や逮捕の恐怖から飛び降りたわけじゃない。教授が殺された件と自殺未遂に直接の因果関係はなかったということだ。それが分かって、前の晩よりは気が楽になっていた。

 足取りも軽く出ていこうとすると、冷水のような言葉が背中に浴びせられた。


「凶器が他人によってニコラスの荷物に仕込まれたのだとしても、警察署内に放置して証拠汚染の危険と捜査の遅延を招いたことは変わらない。警察の信用失墜に繋がる恐れもある。事実関係の調査が行われるから、そのつもりでいるように」


 中庭で煙草を吸い、それから留置場に向かった。地響きのような音が聞こえてきた。トレンチコートにくるまって寝ている男のいびきだった。ジャンニは看守に鍵を開けてもらって入り、やや乱暴に肩を揺さぶった。露出狂はまだ夢の中だった。


「ふあ? ほら、このバナナを見てごらん……気に入ったかい?」

「起きろ。いつまで寝てるんだ」

「ああ、おはよう、警部。ここは朝食が出るのかな?」

「卵の焼き加減はいかがなさいますか、サー? なわけないだろ、とっとと出ろ」


 グリエルモは鉄格子の外に出てきて、ベッドが硬いとこぼした。


「グリ、あんたのとこにくる取り立て屋ってのはどんなやつだ?」 

「キングコングみたいな男よ。でかくて筋肉もりもりで、いつも野球のバットを持ってくる。家具や食器をそれで芸術的に配置するのが趣味なんだよ」


 ジャンニはポケットからこれ見よがしに煙草の箱を出した。露出狂の目はそれにつられて顔ごと動いた。


「して、そのキングコングの飼い主は?」

「ユセフ・アマル。モロッコ人やくざの親玉だ。キングコングは甥っ子で用心棒さ」

「ユセフは雑貨屋を経営してるオスカー・ポッジにも金を貸してるんじゃないか?」


 グリエルモは差し出されたパックから厚かましくも2本抜き取り、大事そうにトレンチコートのポケットにしまった。


「オスカーか。あいつはスロットマシンに手を出したんだよ。あの手の機械は絶対に胴元が損をしないようにできてるのにな。毎日、千ユーロをつぎ込んでた」

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