63 6月21日(火) 僕は女子事務員さん
少し前に所用があって隣町を歩いていた。
K耳鼻科があった。僕が前を通ったときに、ちょうど扉を開けて、中から人が出てきた。それで、何気なく中を覗いたんだ。受付があった。受付には女性が二人いて、患者さんの応対をしていた。
受付の女性は二人とも同じ服装だった。薄い黄色のブラウスに、白地に黒のチェックが入ったベストを着て、胸元には薄い緑色の大きなリボンをつけていた。下はグレーのタイトスカートだ。胸元の緑色の大きなリボンがアクセントになっていて、とってもかわいい。いわゆる女子の事務服だ。それも、パンツじゃなくて、スカートの女子事務服だ。
僕は受付の女性たちのその服装を見て、あっと驚いてしまったのだ。
読者の皆様は疑問に思われることだろう。「耳鼻科の受付の女性がスカートのかわいい女子事務服を着ていたって普通のことでしょ。そんなの当たり前じゃないの。どうして驚くの?」ってね。
ここで最初に言っておくと・・女性の事務服にはいろいろな考え方があるのは僕も分かっている。僕は女性の中に「どうして女性だけが働くときに事務服を着ないといけないの?」という女子事務服に否定的なご意見があるのは承知している。逆に、制服として女子事務服があると仕事着を選ぶ必要がなくて非常に助かるという肯定的な女性のご意見も知っている。だが、ここでは、僕は女子事務服の是非を論じる気はないんだ。
まあ、聞いて欲しい。こんな話なんだ。
もう3年ぐらい前になる。僕はAPL(急性前骨髄性白血病)で半年ほど入院した。退院した後も、無理はできないので、しばらく仕事を休んだ。しかし、その間、何か働きたくなったのだ。リハビリというか、仕事を再開する助走のためというか、無性に短期で何かしたくなったんだ。ただ、退院の後なので、力仕事はとても無理だった。何か短期の事務仕事でもやりたいなと思ったのだ。こんな気持ちになったのは、当時僕がかなり白血病から回復していたんだと思う。
それで、家の近くで、何かいいアルバイトかパートの仕事がないかって、地元の求人情報誌を調べてみたんだ。だが、なかなか、近くで事務仕事で短期でOKというような都合のいい仕事は見つからなかった。そんなとき眼に入ったのが隣町のK耳鼻科の求人広告だった。ちょうど、パートの事務員さんを募集していた。短期もOKということで都合がよかった。隣町なら自転車ですぐだ。
K耳鼻科には一度も行ったことがなかったが、僕はすぐに電話を入れたのだ。
電話に出たのは耳鼻科をやっている女医さんだった。さっそく面接に来てくれということだったので、僕は指定された日曜日にK耳鼻科に行った。K耳鼻科は日曜が休診だった。
女医さんは40年配のきれいな人だった。
女医さんは僕を見て、すぐに明日からぜひ来てくれと言った。そして、こんな話をした。
「うちは今まで女性のパートさんに来てもらってやってきたんです。パートさんは受付が2名・・・私の診察助手が1名で全部で12人いるんです。それで、皆さんに全部の仕事を覚えてもらいたいので、一定の期間ごとに、全部の仕事を順々に変わってもらってるんですよ。・・でもねえ、女性が12人もいると、いろいろあって、もう本当に大変なんです。それで以前から、男性に一人パートに入ってもらいたいなって思ってたんです。このたび、12人の中のお一人が都合で辞められることになったんで、男性のパートさんが来てくれないかなあと思ってたところに、あなたから応募があったんですよ。ちょうど良かった。ぜひ、明日から来てください」
僕の耳に女医さんの『女性が12人もいると、いろいろあって、もう本当に大変なんです』という言葉が残った。そういう話は聞いたことがある。そうなんだろうなあ・・大変なんだろうなあ・・
僕のそういった想いとは別に、それから女医さんは思いついたように僕にこんなことを聞いたのだ。
「あっ、そうだ。うちには男子の更衣室がなかった。うちはパートさんには全員同じ制服を着てもらってるので、あなたにもその制服を着てもらいたいんですが・・・女子の更衣室しかないので・・・制服に着替えるときは、どうします?」
僕は深く考えずにこう答えたのだ。
「そんなのどこでもいいですよ。そうだ、トイレを使わせてください。トイレで着替えますよ」
こうして、次の日から僕がK耳鼻科にパートで行くことが決まったんだ。
しかし、その夜のことだ。女医さんから電話が掛かってきた。電話の向こうで女医さんが僕にこんな話をしたんだ。
「申し訳ないんですけど、パートの採用は取りやめにさせてください。うちは耳鼻科なので、しょっちゅう、いろんな感染症を患者さんからうつされるんですよ。例えば、インフルエンザの季節になると、私もパートさんも必ず一度はインフルエンザに掛かるんです。さっきは、やっと男性のパートさんが来てくれたって喜んでいたので、そこまで気が回らなかったのですが・・夜になって冷静になったら、医師としてAPL(急性前骨髄性白血病)の方をこのような感染症に掛かりやすい職場に雇うわけにはいかないと思い直したんです。本当に申し訳ないのですが・・パートの採用は取りやめにさせてください」
僕は女医さんに心から感謝した。ここまで僕の病気のことを気に掛けてもらって、本当にありがたかったのだ。そういうことで僕のパートは取りやめになってしまった。
そして、短期のアルバイトもパートも適当なものが見つからないまま、僕は仕事に復帰したのだ。
それで、K耳鼻科の受付の女性が女子の事務服だったので驚いたという冒頭の話に戻るのだ。女医さんが「うちはパートさんには全員同じ制服を着てもらってるんですが・・・」と言ったときに、僕は制服というのは白衣のようなものを想像していたのだ。まさか、制服というのが、スカートのかわいい女子事務服とは思わなかった。
ということは、あのとき、夜に女医さんから電話がなくて、次の日に僕がパートで出勤したら、僕は制服として・・スカートのかわいい女子事務服を渡されたということになるのだ。そして、僕はそれを着て、K耳鼻科でパートの仕事を開始する・・ってことになるわけだ。
僕はAPL(急性前骨髄性白血病)で入院中、ある事情があって、ときおり巻きスカートを着用していた。だから、スカートはなじみがあるのだが、入院中は女性の看護師さんしか僕のスカート姿を見ないのだ。
僕は特殊な病気なので、入院中は見舞いを受けることを禁止されていた。病室を出ることも禁止されていた。つまり、病室に入る医師と女性の看護師さんとだけ、顔を合わせていたのだ。だから、巻きスカートを着用しても平気だったのだ。
しかし、こういった人と接しない局面ならいざ知らず、耳鼻科というオープンな場所では、否応なしに僕の服装が病院に来る患者さんの眼にさらされるわけだ。
そんな人前で・・スカートのかわいい女子事務服を着て働くというのは・・さすがに僕も出来ないなぁ・・って思ったのだ。
女子事務服でも上のブラウスとベストだけなら、僕はなんとか人前でも着ることができるだろう。人前で胸元にかわいいリボンをつけることも出来るだろう。でも、人前でスカートはさすがになあ・・・・・
女医さんの名誉のために付け加えると・・彼女は僕にスカートのかわいい女子事務服を着せて、笑いものにしようなどとは全く思っていなかったのだと思う。おそらく、いままで男性を雇ったことがなかったので、そういったことに気づかなかっただけなんだろう。
だから、もし僕がK耳鼻科に務めることになっても、女子事務服を渡されたときに「上のブラウス、ベスト、リボンは女子の事務服でも構いませんが、下のスカートだけは勘弁してください。ズボンで勤務させてください」って言ったら、そうさせてくれたと思うのだ。
だが、さっき書いたように、僕はAPL(急性前骨髄性白血病)に対する女医さんのご配慮で、結局スカートのかわいい女子事務服を着ることはなかったってわけなんだ。
それで、今日のよかったことは、スカートのかわいい女子事務服を着て働くことにならなくてよかったということだよ。
しかし、その一方で・・コスプレ、変身・・といった言葉が僕の頭をよぎるんだ。スカートのかわいい女子事務服かぁ・・なんだか、ちょっぴり残念かも・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます