第28話 「お前がな」

 ムエンが倒れてしまった今、ただの人間である月海はカッターナイフ一つで堕天使であるアザエルを倒さなければならない。しかも、今は殺す気満々だ。

 暁音はムエンを抱きかかえながら、カッターナイフを構えている月海を見上げる。


「月海さん……」


 荒い息で月海の名前を呼ぶ。その声が届いたのか届いていないのか。月海は目の前に立つアザエルを見据え、トントンと足を鳴らす。


「お主を舐める訳はないが、悪魔はもういない。抵抗しても無駄じゃと思うのじゃが、何をする気じゃ?」

「それをお前に伝えると思うか? これから殺そうとしている奴に手の内をさらすほど、俺は馬鹿じゃねぇよ」

「じゃろうのぉ」


 軽口をたたく二人の中を、暁音はムエンを抱きしめ見届ける。だが、その目は先ほどまでの虚ろな瞳とは打って変わって、獲物を狙うように冷たく鋭い。殺気が込められているような瞳の先には、黒いロングパーカー。


「私でも、これなら……」


 小さく呟かれた言葉は、一人を除き誰にも届かなかった。



 アザエルは失った片腕を支えながらも口角を上げ、カッターナイフを構えている月海を見る。

「ククッ」と微かに笑いを零したかと思うと、元々笑っていた口角がもっと上がり、目元も不気味に歪む。すると、月海の足元に影が現れ、またしても黒い手が出現、月海を掴もうと襲い掛かった。


「同じ攻撃ばっかだな」

「その攻撃に手間取っておるのは誰じゃ?」


 月海は手に持っていたカッターナイフで切り落とそうと、上から下に刃を振り下ろした。だが――……


「なっ」


 手に当たると、ガキンという音を鳴らすのみで切れない。さっきは豆腐を切るように簡単だった同じ攻撃が、今回は音を鳴らすだけで傷一つ付かなかった。


「また、さっきのとは違うのか?」


 黒い手が逃れ、背中を壁につける。目の前にはいまだウヨウヨと動く黒い影。厳しい顔つきで睨み、周りの気配を探る。


「自ら逃げ道を塞ぐとは。おろかやのぉ」

「そうかもしれねぇな」


 追い込まれているはずの月海は、何故か険しい顔を消し、逆に口角を上げ笑いだす。虚勢を張っているわけではなく、口調からも余裕を感じ取る事ができ、それがまたアザエルを困惑させた。

 なぜ余裕そうにしていられるのかわからないアザエルは、口を閉ざし左手を挙げた。何を企んでいるのかわからないため、何をされてもいいように準備を整える。


「すぐに、楽にしてやろうかのぉ」


 警戒の色を滲ませ、何かを操作するように左手を動かし始めた。すると、月海が背中を付けている壁に黒い痣が現れ始める。そこからゆっくりと黒い手が伸び、月海の首を掴み折ろうとする。彼は手の気配を感じ咄嗟に後ろを振り向くが、避ける時間はもう無い。


 月海の首に、黒い手が届くまであと数ミリ――……


「終わりじゃ」










 …………――――お前がな










 殺伐とした空間に決して似合わない、楽しげな声。弾んでおり、うきうきとしているような声。その後に続く、ボタボタと何かが落ちる音。


 目の前で広げられている光景に驚き、何が起きたのか理解できず。アザエルは目を見開き動けない。


「今のは、良い殺意だった。だが、俺は死ぬのが一番嫌いだからな。できるだけ抵抗させてもらうぞ、堕天使よ」


 切れなかったはずの黒い手がすべて切られ、地面に落ちている。その中心には、口元に笑みを浮かべ立っている月海の姿。異様な空気を纏い、アザエルは奇怪な現象におののく。


「こ、これは……。一体、貴様は何者なんじゃ。本当に、人間か?」

「疑いたくなる気持ちはわかるわ。でも、正真正銘の人間らしいわよ」


 後ろから暁音の冷淡な声が聞こえ振り向くと、間近に彼女の頭。見上げられ、一瞬アザエルは息を飲んだ。

 

「安心して、貴方が相手しているのは、少し思考が狂っているただの人間よ。見た目が人間ではなく化け物のように見えるから、疑ってしまうのよきっと。だから、見た目も完璧な人間に戻すため、これは返してもらうわ」


 言いながら、暁音はアザエルト距離を取り、右手に持っている物を見せびらかす。それは、彼女の手でも収まってしまうほど小さい瓶。


 暁音の持っている小瓶を目にし、驚きと焦りで目を大きく開きポケットに手を突っ込んだ。そこにあるはずの物がなく、苛立ちを隠す事なく顔を歪ませ、暁音を睨みつけた。


「貴様、いつの間に…………」

「月海さんの目は返してもらいました。言っときますけど、おそらく今の月海さんには誰も勝てませんよ。例え、貴方が堕天使だとしても…………」


 透明の液体に浮かぶ二色の目玉が入った小瓶を弄び、暁音は冷静に強気で言い放つ。彼女の言葉でアザエルは怒りのあまり体を震わせ、手の甲に筋が浮かび上がるほど強く拳を握った。

 今の月海を殺すのは骨が折れると考え、最初に彼女からと。アザエルは狙いを変更した。ついでに目を返してもらおうと左手を前に突き出した。だが、突き出したはずの左手が――――ない。


「はっ――――」


 次から次へと、予想外な展開が続き反応が遅れる。だが、体は勝手に今の現状を察し、顔を青ざめさせた。汗がダラダラと流れ、目線をさ迷わせる。その時、後ろから銀色に光る刃が水平に伸び、アザエルの首筋を狙った。

 微かな空気の揺れに気づき、膝を折り前方に跳び回避。すぐさま振り向き、カッターナイフを振り切った月海を見上げた。


「避けんじゃねぇよ」

「なんなんだ、お前ら。本当に、人間なのか」


 月海はその場に立ち直し、片手で愛用のカッターナイフを弄ぶ。口元から覗き見える赤い舌で、下唇を舐め目の前で怯えているアザエルをあざ笑う。

 アザエルの言葉に答える事はせず、浅く息を吐き、次の動きに移ろうと月海は地面を蹴った。最中、すぐさま自身を守るようにアザエルは地面から壁を作り自身を隠した。だが、何も来ない。衝撃もなく、アザエルは不思議に思いつつ眉を顰めた。


「何を――っ!? ぐっ、な、ぜ…………」


 アザエルの腹部に、小さな鎌が二つ、突き立てられた。赤色の血がボタボタの落ち、地面を赤い絨毯のように染めていく。

 荒む視界で見えた暁音の姿。肘から下の右手が黒く染まり、何かを操っているように動かしている。

 茶色だったはずの彼女の瞳は、ムエンと同じ、右目は真紅。左目は藍色に変化していた。


「知ってるか? ムエンは悪魔の中でも上級レベル。なんでもアリのチートキャラ。そいつと契約しているのは、誰だったかなぁ」


 アザエルが身を守るために作られた黒い壁を避け、月海は後ろに回り腹部に突き付けられている鎌の柄を握った。

 空気の揺れも感じず、気配もない。まるで、幽霊のような存在の月海に、アザエルは怯え、慄く。


「ムエンが気を失ったとしても、力は誰かに乗り移る。例えば――――契約者とかな」


 柄を握った手に力が込められ、ハンドルを回すように下へと曲げられる。それにより、刃が上に上がりアザエルがうめき声をあげた。


「お、まえ…………」

「まだ死んでもらったら困るぞ、堕天使。俺を殺そうとしたんだ。他人を殺そうとするという事は、自分が死ぬ事も考えなければならん。まぁ、俺の場合は簡単に死んでやる気もねぇけどな。死ぬのは一番、こえーから」


 口にするのと同時に、月海は掴んでいた鎌の柄を勢いよく、引き抜いた。

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