5章:薫風 第6話
五日間の休暇を得たものの、なにぶん長い軍艦生活のことだから、嵩利も鷲頭も平服などの用意はない。窮屈な軍服を脱げぬまま、朝早い時刻に、ふたりで横須賀駅へ赴き、列車に乗り込んだ。およそ里帰りするに似つかわしくない有様である。荷物と言っても、ほんの僅かな身の回りの品を、ちいさな革鞄に詰め込んだだけであった。
それでも嵩利は二等車の窓辺に肘をついて、車窓の景色を飽かず眺めていた。鷲頭はそれを隣で見ていて、嵩利の無邪気な微笑と窓から吹きこむ海の香が、心を解してくれているのを感じていた。
鎌倉には現在、大町まで江ノ島電気鉄道が敷設されている。来年には、小町まで全線開通するらしく、大町からすぐ近くの由比ガ浜商店街は、相変わらずの賑わいをみせていた。のんびりと片瀬まで鉄道に乗って、そこから続く浜道を生家へと歩く。
小倉に滞在しているとき、進級する旨の辞令を受け取ってすぐに軍服を誂えたから、身なりを気にかけることはない筈だが、嵩利は妙に落ち着かない様子でいる。
きけば、海軍に入っていままで、軍服を着て帰省したことがないという。
海軍兵学校へ進路を選択したとき、両親がほんの僅か、悲しげな表情をしたのを、嵩利は忘れられないらしかった。腕白で甘えん坊の末っ子が、まさか軍人になるとは、おもってもみなかったのではないか。何処とも知れぬ海で帰らぬ身となることも、稼業柄ないともいえない。嵩利は江田島に行ってから、そのことをすこし後悔したという。
「だが、きみはきみだろう。いつものように、笑顔をみせて差し上げれば、ご両親はそれで安堵するのではないのか。気に病むことはあるまい」
そう言って嵩利の背を押してやる。だが、只でさえ厳めしい雰囲気を纏っている鷲頭が、少将のなりでそこへ厄介になりに行くのだから、かれの両親にいらぬ気を遣わせるのは、むしろ鷲頭のほうで、嵩利を励ましながらも、内心では気が引けている。
昼下がりの庭先は、やけにしんと静まり返っていた。ここが生家だというのに、嵩利は玄関を覗くのさえ躊躇っている。やはり気羞かしいのか、横に立つ鷲頭を仰いで、まるで道に迷ったこどものような表情でいる。
「おやおや。海軍のお人が、我が家に何用ですかな」
前触れもなしにうしろから声がして、ふたりは吃驚して振り向いた。そこには、散歩に出ていたらしい嵩利の父が、これも吃驚した表情で佇んでいる。ふたりとも、きっちりと目深に軍帽を被っている所為で、父には誰だかわからないらしい。
「あ、あの…父上―」
慌てて取った軍帽のしたに、よく陽に灼けた愛息の顔があらわれて、父は忽ち相好を崩す。
「なァんだ、タカだったのかい。どうしたんだね、今日は。珍しく海軍さんの格好で…」
安堵したなかにも、心なしか不安げなものを滲ませている。
嵩利は事情を説明し、父は息子が進級したのを知ると、ここまで立派になってくれて、感慨無量だ、と珍しく真剣な面持ちで言う。嵩利はなんだか照れくさくなって、俯くと頭を掻いた。鷲頭はそのやり取りを見ながら、そっと軍帽を脱いで手に提げる。
「急なことで、連絡もとらずに押しかけて、失礼致しました。ですが、またこちらへ伺える機会があれば、是非ともお訪ねしたかったものですから」
「あァ、構いませんよ。大したおもてなしはできませんが、いつでもおいでなさい。鷲頭殿には、拙息の面倒を見て頂いておることですしなァ」
あかるく笑いながら言って、父は身振りでふたりを家へ入るよう促す。それから、悪戯心をおこしたのか、妻を驚かせたいらしく、嵩利と鷲頭に、身形を正して客間に座っていてくれと言う。それから奥の間へ飛んでいって、チカと針仕事をしていた妻を引っ張り出してくる。
「あらあら、いやですよ、こんな格好で。それにしても海軍の方がお越しになるなんて、いったいどうしたのかしら」
そんな―嵩利にはこのうえもなく懐かしい―声がして、母が襷がけを外しながら客間へやってきて、父のすこし後ろへ端座する。しかし、母が落ち着かぬ様子でいたのはほんの少しのことで、僅かに身を乗り出すようにして、軍服と軍帽に身を固めた嵩利を見つめたあと、にこにこと表情を崩したのだった。
「旦那様、わたくしの眼は節穴ではございませんよ。驚かそうとなさったのでしょうけれど…」
そこまで言って、母は膝をすすめてふたりへ向きなおる。それはいつもの、母らしいゆったりとした仕草で、普段と変わらぬ調子で息子の名を呼んだ。
「さすがに、母親の目はごまかせんか」
「あら、ま。お父様はごまかされましたの」
「ウン」
こっくりと、屈託ない様子で頷く父の仕草に、座があたたかな笑いに包まれる。嵩利も鷲頭も、軍帽をとって改めて両親に挨拶をした。
すっかり和服へ着替えて、やっと足を伸ばした嵩利は、着替えたあとの軍服を揃えていた母に問われ、何気ないはなしでもするように、少佐へ進級したことを告げる。軍服へ触れていた手をとめて、母はまじまじと息子と鷲頭をみつめる。
「明日はお祝いにいたしましょうね」
それだけ言って、ふたりの軍服を畳んで奥の間へ持っていってしまう。母の目はすこし潤んでいた。
「もうぼく、軍服を着てここへ帰るのは、金輪際止します。あんな表情されて…。知らない人みたいに、見なくたっていいじゃないか」
生家へ戻ると、まるきり甘えん坊になって母の膝下で過ごしていたのだろう。鷲頭は頬をふくらませる嵩利のあたまを、ぞんざいに撫でてやる。
「困ったやつだな、きみは。お母上が涙ぐまれたのは、そういう意味ではないとおもうが」
千早家の人々は素朴で明るく、取り繕うことをしない。息子の上官が居るからといって、余所余所しくもなければ遠慮もしない。父も母も、嵩利が立派に軍人稼業をこなしていることを認めて、何か気持ちに区切りがついたような、そんな様子だった。
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