4章:秘密 第3話
夕刻のかなり藍の濃くなった空をみあげて、嵩利は、ほっと息をついた。
官舎へ戻って、置いておいた外套を着込んで、律儀に引き続き正門前で待機している。あのあと、舞鶴鎮守府の重鎮が先に到着し、同じように出迎えて見送り、最後に到着した車から、顔なじみの加藤参謀長が降り立ったときには、もうかなり陽が傾いていた。
「そうか、接待役なら一緒に来てもらわんと困るな」
加藤はそう言って、どこか楽しげな悪戯っぽい笑みを、愛嬌のある眼に浮かべて寄越す。それならば運転を代わろうと、車へ歩きかけたのを加藤に腕をとられて、とめられる。そのまま背を押されて嵩利は車の後部に押し込まれるようにして乗せられ、吃驚する。席には、城内司令長官が悠然と腰をおろしてニコニコしており、二度吃驚する。
「参謀長、運転しますから席をかわってください」
「いいから、城内長官にご挨拶しておけ」
「千早大尉、お座りなさい」
「あっ、長官―」
嵩利が慌てて降りようとするのを、城内は小声でそっと注意する。それも半ば笑声で、不快におもっているわけではなさそうだった。しかし、いくらなんでも、大尉が中将の隣に座るというのはいただけない。
手を取って車内へ引き入れる城内の所作は、鄭重そのもので、嵩利は顔から火が出るほど恥ずかしかった。それに、親戚の伯父か誰かに久しぶりに会うというような挨拶をするのとは、わけが違う。第一、狭い車内では挙手の礼すらとれないではないか。
「かたい挨拶はいいよ。きみのことは、加藤くんから聞いている。よくやってくれているようだネ。鷲頭くんとうまくやっているようで、何よりだ」
まるでこどもに対して、いい子だと褒めるような口ぶりと、柔和な表情である。温顔の城内に笑まれ、さっと頬が熱くなる。嵩利は、恐れ入ります、とだけ言って、身をすくめて俯く。
「なるほど、これは確かに素直で可愛いネ」
「鷲頭には勿体ない、過ぎた嫁ですよ」
「なんだ、きみ鷲頭くんに妬いているのか?しかし、どこかにこれくらい、可愛気のある男は居らんものかネ」
「千早大尉ほどの器量となると、我が海軍には居らんでしょうなァ」
そのような会話が、運転席の加藤と後部席の城内の間でかわされる。今日だけで一体、何度“可愛い”を連呼されたのだろうか。嵩利はこそばゆさに耐えながら、そのあいだ姿勢を崩さず、ひざに置いた軍帽の徽章をじっと見つめていた。
「―そうかネ。それなら人事局に頼んで、ぼくの秘書官にしてもらおうかな。もう三年も鷲頭くんの副官を務めているんだから、どこへ出しても恥ずかしくない筈だ。ネ、千早くん」
肩へ包みこむように手を置かれ、嵩利は弾かれたように、ぱっと顔をあげて城内を見た。かれはほんの僅かに抱き寄せたそうな仕草をしながら、すぐ傍で笑顔をみせている。微笑みに形作られた唇が、柔らかく触れるのを感じた。
「―あ」
運転中の加藤は、バックミラー越しに城内長官の犯行を目撃したが、何しろ刹那のことで、間抜けな声をあげるしかなかった。あまりの不意打ちに嵩利は避ける間もなかったし、唇を盗んだ当の城内は相変わらず、羅漢さんか観音さまのような慈愛に満ちた笑顔のままで、平然としているしで、どうにも対処に困ってしまった。
「あんまりきみが可愛いからつい、ネ。鷲頭くんには内緒だからネ、加藤くん言ったらダメだよ」
「…私は何も見とらんです」
そう言いながらも、加藤はちらりと嵩利へ眼を遣って、あとできちんと説明せねば、落ち込みかねない悲しげな表情をしているのを認める。もっと気を配るべきだったな、すまん、と心中で詫びておく。
城内のとった行動は、ガンルーム士官たちのような艦内での”つまみ食い”とおなじ、軽率なものではけしてないのだが、今の嵩利にそんなことがわかるはずがない。
車が、那智長官の言う“いつもの場所”へ着くまでの少しの間、嵩利は鷲頭のことばかり考えていた。胸が潰れそうで、軋むように痛んでいる。
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