3章:厳冬 第11話

 「千早くん、世話をかけたな」


 と、いつもの調子で部屋を横切りざまに、何か書物を引っ張りだして読み耽っている嵩利へ声をかけて、すいと廊下へ出てゆく。呆れたもので、あれだけの熱を出して寝込んだというのに、一夜明けてその夕刻には、もう起き出してきた。上官の頑健さは、冗談でなしに噂どおりである。


 「艦長、どちらに―」


 しかし、ここは極寒の大湊である。帝都や郷里に居ると同じように振舞われては、またぶり返しかねない。どうやら鷲頭は、風呂へはいりにゆこうとしているらしく、嵩利は慌ててあとを追った。


 「熱も測らずに湯に入ったら、ことによったら悪化するだけですよ。それで多少具合が悪くても、艦長のことです、明後日から公務にお出になるんでしょう」


 廊下の途中で、うしろから羽織の背をつまんで、ひきとめる。ささやかで遠慮がちなその制止に、鷲頭は歩をとめて振り向いた。心もち怒ったような上目遣いをして、嵩利がじっと見上げてくる。ここで口を開かせたら、くどくどとまるで母親か細君のように、小言を述べたてるにちがいない。


 「言っておくが、私はそんなにヤワな体ではないぞ」


 「ご自分で熱のたかさも気づかないひとが、よく―」


 案の定、眉をつりあげる。一歩間をつめて、その唇をさッ、と掠め盗って吸う。顎先を指で捕らえて上向かせ、たっぷりと口腔を舌で犯す。あえて抱き寄せず、熔かし尽くすような深い接吻を施す。その間に、嵩利ははじめのうちこそ抵抗を示したが、鷲頭に敵うはずがない。


 「さほど熱くなかろう、誤差は一度か五分といったところか。だが、もしこれで、きみに感冒が感染っても、私が介抱してやるから安心し給え」


 散々翻弄したあげく、やっと嵩利を解放する。しかしその表情は当初と変わっていない。そうして怒って頬を染めている様子ですら、鷲頭は愛しくてならない。ふっ、と珍しく悪戯っぽく笑むと、


 「風呂へ行ってくる。熱は測ったから、異存あるまい」


 言い置いて、普段どおりの足取りで廊下を曲がって姿を消す。


 残された嵩利はたまったものではない。感冒が感染ろうがそんなことは構わないが、ほぼ夜通し起きていて、仮眠のあとには民間向けの医学書などを引っ張り出してきて調べ、果てはいつもの大酒のことまで考え、上官の身を案じていたというのに、当の本人がこの調子である。ある部分では、傷つけられたようなおもいをしていた。


 「何をやってるんだ、ひとりであたふたして…馬鹿みてぇじゃん」


 もと居た部屋へ戻りぽつんと呟く。


 出してあった書物を棚へしまうのすら、面倒になった。抜書きした紙片が五、六枚ほど津軽塗りの座卓へ散らかっていたが、もうどうでもよくなった。上官が風呂へ入ってまた熱があがっても、不関旗をあげてソッポを向いちまえばいいんだ、と袂へ腕をつっこんで膨れ面を隠さずに、下駄をつっかけてブラリと外へ出て行った。


 からだに、鷲頭に掻き立てられた熱がちいさく疼いているのを認めないわけにはいかない。あんな状況で接吻をされて、頑として撥ねつけるべきであるのに、まともな抵抗もできずに終わり、いいように扱われてしまった自身に腹がたってもいたから、余計である。


 こうした道理のとおった、正当な訴えでさえ、鷲頭は強引に嵩利を黙らせてしまう。しかも甘さにつけこんで。今回が些細なことだと、判断しての振る舞いかもしれないが、このままではいつまでも手玉に取られているだけではないか、と嵩利は不満と不服と不安に、微かな、ほんの微かな寒気をおぼえた。


 「やっぱり、ぼくじゃ艦長のお相手は、つとまらないのかもナァ…」


 もっと切れ者で、そつがなくて、弁が立って、有能な…そう、中佐くらいの軍令部参謀とか、百戦練磨の猛者、上辺だけではない経験を含めた、そんな箔がないと、到底鷲頭には敵いっこない。傍にいるだけ、好きなだけではどうにもならぬ、本当の意味での支えにはなり得ない。


 「ドジ踏んでばかりだもんナ、従兵の件だってそうだ。あのとき口説かれて頷いたけど、夏の鎌倉で会って、一時を過ごすほうが良かったんだ」


 ひゅう、と細く斬るような寒風が頬をかすめて、いつのまにか海の見える坂道まで、歩いてきていた。鈍色の海と同じ色の曇天との境目がわからない、ぴったりくっついてしまったかのようなその光景を、坂のうえからぼんやり眺めた。道端に切りだされて置かれたままの大きな岩へ腰をおろし、広くて平らなそこへ胡坐をかいて、静かに響く潮騒にじっと耳を傾ける。


 ―艦長は、ぼくを玩具にしているつもりはないんだろうけど…、ぼくは…このままでいいのかわからない―


 もう三年近くも一緒に居る。


 だが、今度の異動でおそらく鷲頭のもとを離れるだろう。嵩利は英語がことのほか堪能だから、少佐になったら米国か英国へ駐在武官にゆくかもしれない。そうなれば、すくなくとも二年や三年は顔を合わせることすらなくなるのだ。


 離れたら、鷲頭は嵩利をいつまで覚えていてくれるだろうか。長い時間を経て、再び見えたとき、どんな顔をして嵩利をみるのだろうか。


 「何、考えてるんだ…。こんなこと考えたって何にもならないだろ。ああ、もう―」


 とにかく、三年も傍にいて上官を窘めることのひとつも満足にできないようでは、およそ鷲頭春美の傍らに立つには相応しくない。ひとつ溜め息をもらすと、白旗を檣頭に掲げにゆくつもりで、もと来た道を辿る。



 しっかりとあたたまってから風呂をあがって、部屋に戻ってみると副官はいなかった。座卓のうえを見ると、散らばった紙片と、万年筆、医学書、独逸語の辞書などが放って置かれている。紙片には几帳面な字で、仔細に抜書きがしてある。


 「そうか、こがいなことをしちょったんか…。これは悪いことをしたのう」


 じぶんを案じて、医学書まで引いてくれていたのを、あの行為で、いわば無碍にしてしまったようなものだというのは、すぐに気がついた。玄関をみれば、下駄がひとつない。きっと拗ねて、どこかへ出て行ってしまったのだろう。


 「これは、さすがに私に非があるな」


 綿入りの羽織を着こんで、襟巻きをくるりと装備してから外へ出る。いまにも雪が降り出しそうな曇天が、低くたれこめている。まわりこんだ道の向こうから、副官がこちらに歩いてくるのを認めて、歩を進める。やがて二人は対峙したが、まだ怒って肩を怒らせてでもいるかとおもっていた副官が、しょげかえったようにちいさくなっている。


 「艦長、ぼく―」


 「その先は言うな」


 「でも…っ」


 そこで、鷲頭は嵩利の手をとって引き寄せ、やさしく包むように抱きしめた。何かを堪えているように、その華奢なからだが震えている。背に回した掌で宥めるように撫でながら、つくづくかれへの愛しさをかみしめる。


 副官が何を思い詰めているのか、鷲頭は察していたから、そうしてから、耳元へ囁きかける。


「あれは私が悪かった。どうかすると、きみのその…底知れぬ程の愛情がこそばゆくて、あのような振る舞いをしてしまう。悪い癖だ。きみのやさしさを無碍にするつもりはなくても、私は知らず、踏みにじるまねをしていた。狡いと言われて詰られるのを承知で言うが…」


 ―素直になれんのだ。ゆるせ、嵩利―


 いつもの、甘い声音でもういちど名を囁かれる。鷲頭の抱擁はあくまでもやさしいままで、嵩利はいっぺんに切なさが溢れてきて、同時に堪えていた不満と不服と不安が、悪い憑物がおちるように、ふっと心身から抜けてゆくのを感じ取った。


 「狡い…ですよ」


 なかば涙声で、嵩利は鷲頭の胸に顔をうずめた。やはり離れたくない、じぶんに何が足りなくても、このひとと離れたくない。あたたかい腕のなかで、嵩利は自身の素直な気持ちを心で叫んでいた。


 おもえば三年ちかく一緒にいたにもかかわらず、鷲頭は色事の手練手管に長けていても、実際、恋愛ともなるとまったく不器用で、嵩利の初心を笑えぬくらいである。

それでも遅々とした手であったが、互いになんとか愛を紡いできたことに、やっと気づいたのである。


 「二度ときみを傷つけるような真似はせん。約束だ」


 こういうとき、鷲頭に二言はない。約束は死んでも守る、そういう男である。

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