2章:夏祭 第9話
なるほど、もうすぐ祭だったのか、と改めてみれば、漁港の中にもそれらしき、注連縄で囲った一角が設けられていて、神酒の樽やお供え物が置かれているのを、そちこちで見受ける。
どれほど壮麗なものなのか、筆舌に尽くしがたいらしく、副官へどんな様子で催行されるのか訊いても、内緒です、の一点張りで教えてくれない。
「そりゃもう、あとは見てのお楽しみですよ」
困ったような嬉しいような顔をして、やきもきする―特に加藤―上官を宥めて、翌日以降は少しの時間しか、この別荘へ訪ねてこなくなった。きっと祭の準備に追われているに違いない。
いくらもしないうちに、祭の初日となり、江ノ島に生まれ育った連中は、早朝から禊をし、凛々しい捩り鉢巻に、白晒しの六尺を引き締まった褐色の肌へ、小粋に締めこんでいる。揃いに揃った、海の荒くれ者と一緒になって、嵩利も八坂神社へ向かった。
結局、鷲頭は江ノ島には行かず、出御祭の日も、早朝の散歩がてら、小動の岬からその方をじっと見つめただけだった。
「今日を過ぎたら、八坂神社の神輿は、最終日にならんと来ないそうだぞ。行ってやったらどうなんだ」
この祭はさすがに、他所者であるふたりは首をつっこめない。見物はできるが、この湘南の地元漁師たちの手で厳粛かつ盛大に催行される。
「いいんだ」
それだけ言って、毎日欠かさず街へおりてゆく。埋め尽くす人と山車とに、この一帯の空気は活力に満たされていて、どの人も一様に笑顔と、気持ちのいい緊張を感じている、一種の清々しささえあった。
きっと副官も、江ノ島で同じような面持ちをして、祭事に打ち込んでいることだろう。鷲頭が居てはかれの気を散らせるかもしれないし、そもそも祭というのは、地元を護る氏神との対話をする、大切な時間なのだ。
かれら自身が男神さながらという、江ノ島の荒くれ者たちが神輿を担いでやってくるのは、龍口寺の前らしい。そこで小動の女神を乗せた神輿が待っている、という流れとなる。
「男神というが、千早くんはさながら、女神だよなあ」
「こら、加藤」
「建速須佐之男命は、あれ詠んだんだろう。―八雲立つ―、お前詠んでやったらどうだ、妻籠みに―って」
副官の父から差し入れられた丹沢の酒は、まだふた瓶残っており、加藤は今晩ももれなく酔って、鷲頭へ絡んでくる。
「馬鹿者、そんな譬えがあるか」
「記紀には、微妙な艶かしいはなしだって、あるんだぜ?しかも、その神々はあちこちで分かれて、皆、どこそこの豪族や、氏の始祖になってるんだ。別にいいじゃねえか」
確かに、実に馴染み深い神々ばかりが、住まわっているとおもうが…。
「な、祭なんだから、かたいことは言うなよ」
およそ、天照大御神をその祀神にいただく、伊勢神宮の杜を誇っている、伊勢の出の者が言うことばではない。
「―ここはいいなあ、何もかも、一体になっている感じがして。あのご住職と話をしておもったが、神だ仏だと分けたからって、何が変わるわけじゃねえのにな。つくづく馬鹿なことをしたもんだ」
と、そこまで言ってくちを噤む。まともなことを口走ったということは、思ったより酔っていない証拠である。
「過ごさんうちにやめておけ。明日は本祭なんじゃけぇ、朝起きんかったら、ほうたっちょくぞ」
これは本当にそうするつもりでいた。副官の凛々しい担ぎ手すがたを、みすみす見逃すのは余りに勿体ない。それに、かれの親戚である腰越の漁師たちが、“タカちぃの晴れ姿”を一等いい場所で見られるように、陣取ってくれている。
「そいつは酷いはなしだが、しかたないな」
本当にしぶしぶ杯を置いて、奥の部屋へ寝に行った。鷲頭も別室へ行って床へつき、夢にたゆたう前に、明日のことへ暫しおもいを馳せた。
千早家では、夕飯がすんだあと、嵩利がなかなか眠りそうにないのを、父は心配になって声をかけた。
「タカや、もう休んだらどうなんだね。明日は本祭だろう、小動へきちんとお送りするんだよ」
「―うン」
どことなく、生返事を寄越す息子のあたまを、隣へ腰をおろしつつ撫でてやる。すっかり祭の支度は整っているし、何も心配することはないはずだ。
「どうしたね」
「こどもの頃からそうでしたけど、宵宮がおわると、もう寂しくなってくるんです。明日で終わり…。どうにもこの切なさは不思議でなりません」
「そうだねえ、あの高揚が…ふッ、と消える感覚は、夢からさめるのに似て、寂しくなるのは確かだ」
それでも明日があるよ、明日が、ちゃァんと眠らなきゃいかん。父はそう言って、珍しく嵩利を寝床へせっついた。煙管で脇腹を突っつかれ、くすぐったがって笑いながら、部屋へ引っ込んだ。
「父上、お休みなさい」
「うむ、お休み」
さっきまで切なかったのが嘘のように晴れて、嵩利は童心にかえったように、気持ちが底の方からわくわくしてくるのを感じていた。
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