綿津見の波の色は

風乃 陽生

1章:告白 第1話

江田島の海軍兵学校時代に、嵩利は常々こんな阿呆らしい学校があるか、と内心で毒づいていたものだった。

 

 故郷の江ノ島は横須賀から目と鼻の先で、造船所も工廠も近ければ、外国人も行き交う横浜も近いわけで。言ってみれば、こんな世俗からかけ離れたところへ押し込まれるより、地元に居たほうがよほど“海軍”に触れられるというものだと、そう思っていた。


 兵学校自体を築地から移転する際に、いっそ横須賀にすりゃァ良かったんだ、と大尉になったいまでも、心中で呟かずにはいられない。


  「アレ、湘南の島から釣竿担いで来てたあの飛魚坊主が、海軍さんかえ。しっかりおやりな」


 と、挨拶に行くたびに嵩利を孫のように可愛がってくれている老妓連中がいるし、下手な上官などよりも余程ためになる話を聞かせてくれる。と、まあ、このようなことはくちが裂けても、誰にも言わないが、とにかく江ノ島は片瀬の海辺で生まれ育って、目と鼻のさきにある日本海軍というものが、少年時代の嵩利の心を揺さぶるまで、さほど時間を要さなかったということだけは、偽りなく言えることである。


 兵学校時代も、学問は特に苦痛ではなかった。


 ところが大尉になってから、旧海兵跡地の築地に創設されたばかりの、海軍大学校へ行ってこいと言われ、広い海原を眺められぬ生活―また陸へ上がった亀―になることの方が、嫌でたまらなかった。


 休日など早朝に起き出して、砲術の計算式を歌うように口ずさみつつ、ユニホームを着たまま日本橋の魚河岸へぶらぶら出かけてゆくし、艦隊の回頭運動に要する時間を見計らうが如く、舵輪がわりに河っぺりで竿を切り返しているかとおもえば、ハゼやイナといった小魚を呆れるほど釣ってきて、大学校や宿舎の厨房に、


 「晩飯にかき揚げにしても、みんなで喰えるべ」


 と言って置いてゆき、飄々と出て行く。遊んでいるのか何なのかよくわからない癖に、成績は常に上位であった。変人めいた者を海軍では揶揄して、“名士”と呼ぶのだが、嵩利は大学校時代にもうその片鱗をみせていた。


 大学校の教官はおおむね大佐クラスで、あたまの固い教官など―殆どそうだが―は、嵩利が休日に釣果をあげてくると、いやァな顔を隠さず向けてくる。そんな態度を取らない教官はひとりだけで、嵩利はオヤ、とおもいつつ、嬉しくもある。


 その教官―鷲頭大佐の講義中はまるで薄氷か、剃刀のうえを歩かされているような緊張があるので、生徒からもっとも恐れられている。だのに鷲頭大佐は、厨房から嵩利が釣ってきた小魚のかき揚げを差し入れても、いつもきれいに食べてくれる。


 ―こいつはちょっと、面白いひとかもしれないな。


 仄かに鷲頭へ尊敬と親しみを覚えたのは、このときだった。昨年の大戦では、第二艦隊に乗り込んでいたやり手の艦長という噂だったが、それがいきなり大学校教官である。


 確かに教えるのは要点を掴んでいて無駄がなく、非常に飲みこみ易い。妙な経歴だとは思ったが、大戦で大学校進学が棚上げにされていた者も少なくないから、教官も優秀な者を揃えて、効率よく卒業させようという布陣なのだろうと結論づけて納得している。


 しかし、この大学校の教官のなかで、艦長として戴いて共に航海へ出るなら、だれを選ぶかと言われたら、やはり嵩利にとっては鷲頭しかいなかった。


 他にも数人はオヤ、とおもう教官もいるにはいるが、嵩利は将来かれの副官になるか、艦を共にするか、所謂、憧れめいたものを抱く上官に目をつけたことになった。



 海軍大学校では一年を過ごす。その間に夏季の避暑休暇があり、ひと月丸ごと、片瀬の実家へ帰っていた。


 敢えて学問をしようとおもわずとも、自然とそちらへ意識が向く。そういうときに吸いこめるだけ吸いこんで、あとはまた江ノ島あたりで、貝釣りや磯釣りをしたり、腰越の親類のところへ行って、漁の手伝いへ出てみたり、気侭に過ごしていた。


 気鋭の海大生とはいえ、嵩利もここへ帰ってくれば、腕白小僧の面構えになっている。今日も今日とて漁の手伝いに出て、真っ黒に日焼けしたからだへ、白い麻の紗を粋に引っ掛けて、下駄を鳴らして夕刻きっちりに帰ってくる。


 「ただいま戻りました。今日も綿津見様のおかげで、大漁でありました」


 貰ってきた魚の入った盥を縁側へ置いて、井戸端で手足を洗い、勝手口へ声をかけておく。それからそそくさと廊下へ回りこむと、ばったり母と会う。


 「これ嵩利。大学校の鷲頭大佐がお見えになっていますのに、もう少ししゃんとなさい。お父様と居間で待っていらっしゃいます、早く行ってご挨拶なさい」


 「はあい」


 単の襟と裾をぱっぱと手早く直されて、決まり悪く返事をしつつ、何故、鷲頭教官が訪ねてきたのか、疑問符であたまを埋め尽くしたまま、歩いてゆく。


 居間で寛いでいる父と教官へ、まず敷居の前できちんと手をついて挨拶をする。そのあと、顔を合わせるのが常である。

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