偽りの婚約者
京泉
冬
第1話 終わりの始まり
貴方はきっと知らない。
私がどれだけ貴方を好きだったのか。
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空はちっぽけな悩みなどどうでも良くなるような晴天。風は冷たく通るけれど熱くなりそうな心を冷ましてくれる。
木々はカサカサと葉を落とし、花は硬くその蕾を閉ざしてしまっている。
冬の庭園。
ここは私にとって思い出の場所。
この場所で私は貴方に恋をしたのだから。
そう、あの日もこんな寒い冬だった。
夏の社交シーズンが終わると皆は領地へ帰る。
王都には都会に居たい者、行儀見習の為の者、王宮の仕事に就いている者と残った者が少なからずいた。
シーズン中は賑やかだったのにと退屈を感じた彼らは趣向を変えた茶会を開こうと冬の日のガーデンパーティーを開催した。
その会場だったのがここ、スカラップ侯爵家。
あの日の庭は今日のような寂しい庭ではなくパーティーの為に温室で咲かせた花に囲まれていた。
温かい飲み物と時々爆ぜる音を立てる焚き火。そのパーティーには夏のパーティーにはないどこか素朴な温かさを感じるものがあった。
そして私は多くの人が集まるその中で貴方から視線を外せなくなっていたの。貴方を見た時、まるで春の陽気に包まれたように胸が高鳴ったのよ。そしてすぐにこの感情がなんなのかわかったの。
だってそれは私が恋をした瞬間はどんな感じなのだろうかと想像していた通りの高鳴りだったのだから。
でも、私は遠くから見ているだけで満足だった。
もっと近くで貴方を見たい。声を聞きたい。そう思っても私は「私」というものを自覚していたから。
私はそれだけで⋯⋯良かったのに。
けれど貴方はあの日、この冬の庭園で綺麗な金色の髪を揺らし、碧色の瞳に熱を籠らせた美しい顔で、優しい表情で「貴女に心を寄せています」と残酷な事を言ったのよ。
それがどんなに悲しかったか、どんなに惨めだったか──貴方は知らないのでしょうね。
「どうして⋯⋯理由を、聞かせて欲しい」
ガチャリと鳴るティーカップ。
眉間を寄せた貴方の傷付いた表情。何故貴方が傷付くの?
私が何も知らないと思っているその作られた表情。傷付けようとしたのは貴方のくせに。
「俺達に何の諍いも無かったじゃないか。互いに想い合って、これからも⋯⋯」
「夢はいつか覚めるもの。私はもう目覚めたいのです。貴方と言う、夢から」
「俺は夢なんかではないよ。こうして目の前にいる。そばに居る。これからもシュリンの隣に居るよ」
「⋯⋯一年。一年です。だからもう、お許しください」
一年。私はこの気持ちが貴方を諦めるまでの期間を決めていた。
悪意と嗤笑に晒されると分かっていても貴方との夢を見たかったから。
「こんな私に一年もの間、誠意を向けていただいて幸せでした」
それが偽りなのだと知っているから。知りながらも貴方が好きで、好きだから⋯⋯偽りを幸せだと思い込んでいたの。
「そんな事を言わないでくれ。俺はシュリンが好きなんだ。シュリンだって⋯⋯好きだと言って⋯⋯」
「やめましょう。もう、ご自身を偽らなくて良いのです」
「偽り──っ、違う偽物ではない! 本当に俺は、シュリンが好きだ。愛している!」
「私も好きでした」
「だったら! 何故──っ」
このやり取りも何処かで見ているのでしょうね。俯いた私と憤る貴方。少し離れた所から見れば私が叱られているかのようだもの大成功だと笑っているのでしょうね。
人の心を蔑み、踏み躙り、弄び、嘲笑う。本当に残酷な⋯⋯最低な人達だ。
「それは貴方様がご存じではありませんか」
「分からないよ! こんなに好き合っているのに! あと少し⋯⋯あと少しで一緒になれると言うのにっシュリンだって⋯⋯楽しみにしていただろう?」
そうね、楽しみにしていたわ。指折りながら。
貴方との別れを。
「賭けは、貴方の負け」
「⋯⋯えっ」
貴方に愛を囁かれ、浮かれた私を絶望に突き落とすまでが賭けだったのよね。お生憎様、私は絶望なんてしない。
驚きに見開かれて行く碧色の瞳。その瞳がとても好きだった。
青ざめて行く顔色。その美しい顔がとても好きだった。
微かに震える身体。その均整の取れた身体がとても好きだった。
私はなんて愚かだったのか。貴方のその心が醜い事を知っていても貴方が好きな自分が情け無い。見た目だけで貴方に恋してしまった。私が貴方を好きになってしまったから本当は貴方の勝ちだけれど勝ちではないのよ。
私は絶望しないのだから。
「シュ、リン? 何を言って、いるん、だい?」」
「私が貴方に落ち、絶望すれば貴方の「勝ち」。「万が一、婚約する事になってしまったら破棄すれば良い」「貴族と言っても下級だし少し優しくしてあげればすぐ落ちるわ」「夢を見させてあげる代わりに楽しませてもらいましょう」でしたね」
「──っ!? な、んでシュリンが、それ、を⋯⋯」
貴方が私を好きだなんて本気で信じていない。貴方が遊びで私を好きだと言ったから、私は私の為に夢を見る事にしたのよ。
貴方が好きだったから貴方達の茶番に乗ったの。
「婚約の⋯⋯婚約破棄をお願いします」
絶望の色に染まる貴方。それは私が染まる色だったのよね。
「い、いやだっ⋯⋯嫌だ!」
「子爵位のフリンダーズ家からは破棄を唱えられません。侯爵位であるスカラップ家からどうか破棄ください」
「嫌だ! シュリン! 始まりはそうだった⋯⋯今は違う! 君に酷い事をしてしまったと後悔している。これから心から謝罪して行く。だから、だから! 償いを! いや、償いで君を愛しているのではない⋯⋯俺は、本当に君を愛しているんだ」
貴方がどんなに好きでも私は貴方を信じられない。
「まあっ! シュリン様、まだいらしていたの? 定例お茶会の時間は過ぎておりますわ。セリオル様を貴女の我儘で縛り付けるのは迷惑ですわよ」
「スカラップ一族はもう集まっているぞ。ああ、シュリン様はまだ参加出来ないんだ。まだどうなるか分からない「婚約者」だからな」
「そうですわ。どうなるか分からない「婚約者」はまだご参加できませんの。ごめんなさいねシュリン様」
ほら、やっぱり見ていたのね。
けれど、貴方の従姉弟フィレ侯爵家双子の姉ミディアムと弟のウェルダム、貴方の妹パラミータの登場は席を立つ機会を作ってくれた。感謝しなくてはならないわね。
「お時間を取らせまして、申し訳ありませんでした」
私は貴方とニヤニヤと意地の悪い歪んだ笑みを投げつける三人に深々と頭を下げて庭園を後にする。
「まって! シュリン! 行かないでくれ! 話を! シュリン!」
「ふふっお兄様は演技派ですわね」
「おいおい、セリオル迫真すぎだろ」
「そこまで演じなくてもよろしいのに。でも、そろそろ飽きてきたわね」
スカラップ家は一族揃いも揃って歪んでいる。いつも彼らは私の背中にナイフを投げる。それももう終わり。貴方達の玩具はやめるのよ。
「シュリン!」
私の名前を叫ぶ貴方。
私は絶対に振り返らない。
振り返ってなんてあげない。
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