地理と文字と魚

 「砂浜の村」を離れたところで、二人は腰を下ろした。何も無いのでやはり砂の上に座った。村の中年女がくれたのは、丸いパンのようなものに、チーズとハムが挟まったもので、チーズが少々獣臭い以外は光一にとっても違和感のない食事だった。

 

 食後、一服しているときに、光一はナイアにこの世界の地理について訊ねた。「旅をする」と言われて後を付いてきているが、自分がこの世界の何処にいて何処に向かっているかわからない。そもそもこの世界の何処に何があるのかさっぱりわからないのだ。


「あのさ、地図みたいなものないかな」

「地図?」


 ナイアは砂の上につうっと横線を引っ張った。どうやら砂の上に描いてくれるつもりらしい。


「こっちが海。こっちが陸ね」


 ナイアは指で横線の下を海だと示し、上を陸だと示した。そして海岸線を表す横線からにょろにょろと縦に波線を引いた。


「これが河。ねえ、あなた達の世界には河が何本もあるって本当?」


 奇妙な質問に光一は面食らう。


「え? うん。たくさんあるけど?」

「へえ。こっちはこの河だけよ。海に注ぐまで枝分かれするけど、源流は一つ。皇都にあるの」

「それが『海の源流』?」

「そうよ。皇都から流れた水が河になって海になるの」

「河には名前がないの?」

「普通は『河』としか呼ばないけど、ラクロウ河って名前はあるわ。『生命の道』って意味の古語なんだって母さんが言ってた」


 そういってからナイアは辺りを見回した。誰かが自分の話を聞いていないか確かめるかのように。

 

 光一は特に何も考えず、自分が覚えやすいようにナイアの描いた波線の横にカタカナで「ラクロウ」と書いた。ナイアはそれを見ると弾かれたように頭を上げ、驚愕の表情で光一を見た。


「それは……、まさか文字?」

「え? あ、うん。そうだよ。やっぱり君たちの世界の文字とはだいぶ違うんだろうね。でも、これが僕の世界での文字なんだ」


 光一は、ナイアはこちらの世界とあちらの世界で文字が違うことに驚いているんだと思った。しかし、ナイアの驚きはそこにではなかった。


「文字はそりゃ違うんでしょうけど。で、文字を知っているなんて貴方、ひょっとして凄く身分が高いの?」

「へ? 身分? いや、僕は普通の高校生だよ。ウチだってごく普通のサラリーマン家庭だし。……苛められてるくらいなんだから強いて言えば僕の身分は低い方かも」

「それなのに、文字を知ることを許されるの?」

「……? 許されるも何も、学校で強制的に勉強させられるよ」

「へええ。いいわねえ」


 ナイアは心底羨ましそうに言った。


「じゃあ、君は字の読み書きは出来ないの?」


 ナイアはムッとした表情を浮かべた。それから複雑な表情をして考え込み、再び周りを見回してから光一にそっと話しかけた。


「あなたとは一緒に旅をするものね。あまり隠し事をしてても仕方ないわ。あのね、私は文字を読むことも書くこともできるのよ。それからこの帝国の地理だって知ってる。でも、絶対にそのことを誰にも言っては駄目」

「文字を知ってるってことは、この世界ではきっととても珍しいことなんだね?」


 ナイアの話の内容と話し振りに光一はそう見当をつけた。


「珍しいだけじゃない。普通の民は文字を知ることを禁じられているわ。地理に詳しいのも怪しまれる」

「じゃ、君はどうして知ってるの?」

「母さんよ。母さんが教えてくれたの」

「それは君のお母さんが特殊な人だっていうこと?」


 ナイアは苦虫を噛み潰した様子で言った。


「そうだったみたいね。でも母さん、自分が皇都にいたってことしか教えてくれないの。昔のことは全部秘密。そして私が文字を知っていることも村の人たちには絶対秘密。貴方もこの先そんなこと誰にもばらさないでよね?」


 ナイアの目はとても真剣で、光一も真面目な顔をして深く頷いた。


「うん。絶対喋らない。約束するよ」


 ナイアは光一の約束と引き換えるように、再び地図を描き始めた。


「河が海にでる出口にあるのが『煉瓦の街』よ」

「今から向かうところだね」

「そう。『煉瓦の街』は『土の国』の首都でもあるの」


 ナイアは海岸線から半円状に国境を描いてみせる。


「『土の国』には土しかないの。だから皆家は煉瓦で建てるしかない。木は生えるには生えるけど、ちゃんと人間が世話をしてやらないと育たないわ。あとは牧草が生えるくらいね。だから、みんな羊と牛を飼って暮らしてる」

「魚はとらないの?」


 光一の質問にナイアは物凄く不愉快そうな顔をした。


「冗談じゃないわ。とんでもない。食べない、絶対」

「どうして?」

「どうしてって……。決まってるじゃない。魚は死者の魂だからよ」

「へえ……」

「貴方達の世界はそうじゃないの?」

「人は死んでも魚にはならないと思う」

「……こちらの世界ではね。人が亡くなるとその骨は河に流すの。そうして海に流れ着いた死者の魂は魚になるのよ。そして、その魂に再び定められた時がくれば雲に乗って、皇都の『海の源流』に降り注ぐ雨の滴になる。皇帝は、『海の源流』に滴り落ちてきた魂に、住む土地と運命を与える」

「…………」


 光一には、それが事実なのか神話なのかわからない。全くの異世界ならそれが事実であるのかもしれない。それとも、人の生き死にそのものは自分の世界と同じで、ただそれに対する意味づけが違うだけなのかもしれない。


「私達『浜辺の者』が卑しいって言われるのはね。きっと魚を口にしているに違いない、て思われてる部分も大きいからなの」

「食べてないのに?」

「私達は食べない。でも、遠くの人たちは好き勝手言う。それに魚のいる海のそばに住んでるだけでもなんだか薄気味の悪いものだと思うらしいわ」


 そういえば、と光一は思う。不動産がどうこうという話を両親がしていたときに、やはり「墓地のそばは地価が安い」みたいなこといってたっけ。死者の眠る場所と近いというだけでも何か忌み嫌われるものなのかもしれない。


「まあ、『煉瓦の街』の橋を渡るまでは、私の顔を知っている人もいるから、ちょっと嫌な思いをするかもしれない。でも河を上る船は河の対岸、つまり橋の向こうにあるの。そこまで私は行ったことがない。そこなら私が『浜辺の者』出身だって直接知る人も少ないからずっとマシになるわ」

「僕達、河を上るの?」


 光一の質問に、ナイアはああ、といった顔をし、再び砂上の地図に指を落とした。


「『土の国』よりもっと陸の奥に入ると今度は『石の国』があるの。そこから更に上流に『森の国』があるのよ。そして皇都はこの『森の国』にある」


 ナイアは、海を示す横線の上に、河を示す縦の波線を中心に三つの鏡餅を重ねるようにして地図を描き上げた。


「これだけ?……随分単純なんだね」


 光一の想像する世界地図というのはもっとごみごみしていたものだったので、思わずそう口にしてしまった。それで、ナイアは少々気を悪くしたようだった。


「これが全部って訳じゃないのよ。河から外れた地域に他にも国があるそうだし。それに、もっと河から遠ざかった地域には蛮族がいるらしいわ。皇帝に従うのもいるけど、歯向かうのもいて、皇帝軍が警邏しているとか聞いたこともある」


 でもね。とナイアは続ける。


「私達は皇帝に住む場所を与えられるとそこからの旅は原則禁止だもの。あなた達『海から来た者』の案内は例外として。あと帝国府のお役人とか特別に許可を得た者も旅はするわね。でもそれは河を使って皇都と往復するだけ。それから荷物も皇都からの河を上り下りする。とにかく移動は河で皇都と行き来するだけだから河沿いの国のことしか話は伝わらないものなの。だから河から離れた地域がどうなっているか知っている者はここら辺りでは少ないはずよ」


 それでも。と今度はナイアはちょっと得意そうになった。


「私は随分いろんなことを知っている方だと思うわ。母さんからいろいろ聞き出したもの。母さん自身は一度皇都から『砂浜の村』まで旅をしているでしょ。だから、『石の国』『木の国』だって一度は見ているの。それから、絶対内緒だけど私は文字が読めるでしょ。ウチの床下にこっそり隠してある書物だって読めたの。だから私はとても物知りなのよ。よかったわね、コーイチ、案内人が私で」


「あ、うん。そうみたいだね」


 確かにナイアの話を聞いていると、ナイアはこの世界でも結構情報通なのかもしれない。それに、テキパキものごとを決めていく性格は、あまり自分でものごとを決めたくない光一にとって楽な存在だった。


「うん。君が案内人で助かるよ」


 ナイアはニコッと笑うと立ち上がった。


「さあ、そろそろ次の村に向かわないと夜泊まれないわ」

「次の村? 次の村はなんていう名前?」

「名前? 次の村も『砂浜の村』よ。言っとくけど『砂浜の村』は一箇所だけじゃないのよ」


 ナイアは足元の地図に描かれた海岸線を、足ですうっとなぞった。


「浜辺にある集落のことはみんな『砂浜の村』というの」

「じゃあ、『煉瓦の街』までまだずっと歩かなきゃいけないわけ?」


 光一は気が重くなった。砂浜を歩くのは、舗装された道を歩くのと勝手が違う。普段使わない足の筋肉を使うようで、変な疲れ方をしていた。


「ずっと、ったってあと六つよ。そこで宿や食事を取りながら、そうね、三、四日で着くわよ」

「三、四日……その間中このまんまの景色を見ながらただ歩くだけなの?」


 それの何が苦痛だというのか、ナイアはさっぱりわからないという顔をした。ナイアにとっては『煉瓦の街』に行けるだけでも楽しいのに。彼女は、分らないものに全く関心なさそうに、光一に背を向けるとすたすたと歩き始めてしまった。 

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